buzz.34 冥界探訪~黄泉の国の女王
十一月も半ばを過ぎると、庭にはもう動く影ひとつ見当たらなかった。
耳を澄ませば、冷たい風に煽られた枝葉がカサカサと擦れ合う微かな音だけが、容赦のない冬の訪れを告げている。盛夏にあれほど賑やかだった昆虫たちはとうに姿を消していた。朽ち果てて大地に還ったか、あるいは越冬のための隠れ家へ深く潜り込み、生命活動の灯火を極限まで落として春を待つしかない。
落ち葉の下、木のうろ、そして地中の奥深く――。
何億年もの間、幾度となく繰り返されてきた“終末の風景”が、今、庭一面に静まり返ったモノクロームの調和となって広がっていた。
ユキオは『分子共鳴転移装置』を両手に大切そうに捧げ持ち、白く濁った息を吐きながら庭の真ん中に立っていた。わずかな生命の痕跡でも探そうと地表に目を凝らすが、冬の庭はあらゆるものが沈黙を貫き、頑なにその秘密を隠している。
「夏の里山なら、お前たちなんか、あんなに簡単に捕まえられたんだけど……。この時期じゃ、地中の蟻の巣を見つけるなんて、ほとんど不可能なんじゃないか?」
ユキオが諦め混じりにぼやくと、隣に立つミェリナは、まるで瞑想に入る禅僧のように静かに半眼となった。彼女はゆっくりと深く息を吐き出し、自らの五感を周囲の空間へと最大に展開していく。
「……あそこに、蟻たちの巣穴の痕跡があるわ」
ミェリナがそっと指し示した先には、隣家の庭に置かれた小さな石灯籠があった。その足元に、崩れかけた小さな土の盛り上がりが見える。夏場には見事な円錐形を保ち、働き蟻たちが慌ただしく出入りしていた、あの巣の入り口のなれの果てだった。
蟻の習性として、女王蟻は夏場には地表から三十センチメートルほどの比較的浅い層に鎮座する。しかし、本格的な冬眠の時期を迎えると、彼女たちは地中一〜二メートル以上もの深部へと移動するのだ。地表を襲う容赦ない低温の影響を避けるためである。
地中二メートルの温度は、季節の移り変わりによって多少の変動はあるものの、年間を通して十五度から十八度前後に保たれている。これは日本の年平均気温に極めて近い環境であり、小さな昆虫たちが過酷な冬を生き延びるためには、まさに理想的な天然のシェルターだった。
ユキオは、冬の静寂に深く沈むその巣穴をじっと見つめた。その暗黒の奥底に、今も確かに“生”が潜んでいるのだと、ミェリナの言葉によって信じることができた。
「思い出したよ。夏の間、ウチの庭から隣の石灯籠に向けて、果てしなく長い蟻の行列が続いていたのを。お隣のご主人は、石灯籠の中に角砂糖や煮干をお供えしているって、お父さんから聞いたことがあるよ」
ーーー
蟻は夏場以降、寿命を迎えて朽ちた他の虫たちの死骸を、自らの幼虫の貴重なタンパク源とする。そのため、彼らは巣を中心とした半径五十メートルもの広大な範囲を採集場所として駆け回るのだ。
採蜜源とタンパク源とするため、蟻は庭木にアリマキを造営するが、春先から初夏にかけて、砂糖と煮干のお供えを得て蟻は幼虫の育成の助けを得る。これにより、アリマキの造営は比較的小規模となっていた。昔は、木の枝葉がアブラムシで真っ黒になる程で、強力な殺虫剤を使用せざるを得なかった。そのためか、木の健康にも影響が出ているようであった。
お隣のご主人は、ここ30年くらいこのやり方で、殺虫剤の使用を最小限に減らし、結果として蟻とのWinーWinな共生関係を構築していた。
彼ら蟻たちの日々の働きのおかげで、自然界の死骸は速やかに処理される。もしこれが放置されれば、土に還るよりも早くシデムシやヤスデ、ゲジゲジといった他の分解者たちの貪欲な餌となるだろう。さらにそれらは、獰猛なムカデなどを呼び寄せる呼び水となり、やがては人間の屋内へと侵入してくる危険性をも孕んでいる。人間の清掃が行き届かない荒れた庭になればなるほど、増殖した害虫は容易に人間の生活環境へと侵食してくるのだ。小さな蟻の王国は、この庭の生態系のバランスを保つ防波堤でもあった。
ーーー
ミェリナは、単に耳を澄ませているわけではなかった。じっと何かのインサイトの訪れ待っていた。
彼女は静かに目を細め、自身の思念の波長を精緻に微調整しながら、地中二メートルの闇に潜む“冥府の女王”へと、目に見えない意識の糸を伸ばしていた。
冬の庭はどこまでも沈黙している。
だが、その沈黙の底の底には、確かに微かな、しかし力強い生命の震えが存在していた。
やがて、ミェリナの頭上の触角が、ピクリとかすかに震えた。
「……今、繋がったわ」
紡がれた彼女の声は、どこか遠い異界から戻ってきたかのような、神秘的な深みを帯びていた。
「けれど……女王への謁見は、丁重に断られてしまったわ。この巣の女王蟻は、心身ともにすっかり弱り切っていて、宮廷の奥所から一歩も動くことができないそうなの。彼女はこの地に三十年もの間棲み付き、種を繋いできたけれど、もう産卵する力もすっかり衰えてしまった。だから、これが自分にとって最後の越冬になると覚悟している、と……」
ミェリナはゆっくりと視線を上げ、再び石灯籠の一角を指し示した。
「あの石灯籠の真下あたりから、彼女の静かな意識の波が発せられていたわ」
ユキオは思わず息を呑んだ。
冬の冷たい地中に潜む、人間には決して見えない暗黒の宮殿。その中心で孤独に死を待つ“彼女”の存在が、急激な現実味を帯びてユキオの胸に迫ってくる。
ミェリナは真剣な眼差しをユキオに向け、言葉を続けた。
「ユキオ。彼女を『個体』としてこちら側に召還するためには、一度、私たちから直接お願いに行くしかないみたいね」
その声音は、厳かな儀式の始まりを告げる巫女のように静寂でありながら、同時に否応なしに突き動かされるような強い力を宿していた。
「大丈夫よ。私たちは同じ昆虫族として、人間による『群体から個体への転移』がどれほど安全なものであるかを、彼女の言葉で説明できるわ。上手くいけば、あの歴史ある蟻の女王の命を、さらに永らえさせることができるかもしれない」
ユキオは手の中の分子共鳴転移装置を強く握り直した。かつて邑人英二から説明された操作方法を脳裏に蘇らせる。イメージの力によって分子転移のプロセスをコントロールする、あの応用バリエーションを試す時が来たのだ。
作戦が決まると、ミェリナは事前にネット通販で購入しておいたという防寒具を誇らしげに披露した。
「じゃーん、四人分ちゃんと用意してあるわ! ユキオはともかく、私たちハチの身体は、この時期これを着ておかないと寒さで外を歩くことすらできないもの」
それは、膝下までをすっぽりと包み込む、超ロング丈のダウンコートだった。冬場のサッカーやラグビーの選手たちが、試合の待機時間中に極限まで体温を保持するために愛用する、ベンチコートと呼ばれる必須アイテムだ。
ユキオ、ミェリナ、ツェンドリカ、そしてクロ。
四人はそれぞれ、ふかふかとした特大のダウンコートをしっかりと羽織り、身支度を整えた。
ユキオは冷徹な冬の空気を胸いっぱいに吸い込み、装置に触れた指に思念を送り込む。
そして、四人の体長が、あの狭く暗い蟻の巣穴へと容易に進入できる「五ミリメートル弱」の大きさへと縮小される様子を、克明に、強くイメージした。
空間が歪み、一瞬の浮遊感が奔る。
分子転移は見事に成功した。
冷たい風の吹く世界から切り離された四人の足元には、今や巨大な洞窟の如く口を開けた、未知なる蟻の巣穴へと続く暗黒の縦坑が広がっていた。彼らは意を決し、冥府の女王が待つ地底の奥深くへと、静かに一歩を踏み出した。




