buzz.4 ミェリナとツェンドリカ ―分子共鳴転移の夏―
蝉の断末魔のような鳴き声が、夜の古民家研究所にまで深く滲み込んでいた。
2025年、夏休みも終盤に差し掛かった頃。高柳行男は、叔母である高柳久美子が山奥で進める有機農業の研究に興味を抱き、懇願した結果、三日間の滞在を許された。ただし、提示された条件がある――「私をオバサンと呼ばないこと」。
SDGsをテーマに夏休みの自由研究を考えていたが、なかなか適切な題材が見つからないまま時間だけが過ぎていった。気がつけば、夏休みも残り一週間を切っている。
里山の有機農業――それは、生態系システムの最前線ともいえる存在だ。
「研究テーマが見つかりそうな気がする――」
ユキオは、残されたわずかな時間を叔母の研究所に賭けることにした。
ーーー
久美子が案内してくれたのは、里山の奥まった窪地だった。
そこはかつて、耕作放棄されたまま打ち捨てられていた場所だという。山に囲まれて日当たりも悪く、人の手も入らなくなった土地は、長いあいだ静かに荒れていた。だが久美子は、その窪地を整備し、水を引き、再び田んぼとして蘇らせたのだ。
「温暖化の影響もあるから、田植えは少し早めにしたの」
そう言って差し出されたのは、今年すでに収穫されたばかりの新米だった。
湯気の立つ茶碗を受け取り、ユキオは一口、そっと口に運ぶ。
――その瞬間、思わず息をのんだ。
これまでに味わったことのない、澄んだ甘みと力強い旨味が、舌の上に広がる。噛むほどに米粒がほどけ、豊かな風味がじわりと染み渡っていく。
「……こんなに、美味いのか」
甥の驚きの声に、久美子はわずかに笑みを浮かべた。
「湧き水が主体なの。それと、有機肥料だけで育ててる」
淡々とした説明の裏に、長い時間と手間が込められていることは、言葉にせずとも伝わってくる。
山の窪地に眠っていた土地が、再び息を吹き返し、こうして実りをもたらしている――。
ユキオは茶碗を持つ手を見つめながら、この一粒一粒の重みを、静かに噛みしめていた。
ーーー
深夜、そっと外に出る。
懐中電灯の明かりを消すと、視界いっぱいに満天の星空が広がった。
ふと庭先に目を向けると、淡い光が漏れる別棟がある。そこは叔母の研究所の一部で、邑人英二という人物が借りている場所だ。今夜もまた、徹夜で研究を続けているらしい。
ユキオは古民家を改装した研究所の廊下を抜け、観測棟……今はロバ小屋の二階となっている場所へ足を運んでいた。空調の切れた静寂の中、古い木造建築特有の軋みと、精密機器が発する微かな駆動音だけが鼓膜を震わせる。
――その最奥から、照明とは違う異質な光が漏れていた。
ユキオは息を殺し、吸い寄せられるように近づいた。
部屋の中には、昼間までの穏やかな里山には到底似つかわしくない、得体の知れない装置が鎮座していた。その前に立つ一人の男。背は高く、精悍な横顔を持つ「野良研究者」を自称する男、邑人英二である。
照明を吸い込んだ無数の光の粒子が、吹雪のように男の周囲を舞っていた。驚くべきことに、邑人の体は電磁波の揺らぎのように歪み、鮮やかな赤と鋭利な銀の光に縁取られている。
「……邑人、さん?」
思わず零れた声に、男がゆっくりと振り返った。その瞳の奥が金属質に明滅する。
「やれやれ。久美子さんや小林さんの目は欺けても、君の純粋な好奇心までは計算に入れていなかったな。油断したよ」
邑人は苦笑を浮かべた。声のトーンは穏やかな大人の男性のものだが、先ほど見てしまった彼の実体はもはや、ユキオが知る「人間」の定義からはみ出していた。
「先ほど君が見たものが俺の真の姿。今は借り物の地球人類の姿というわけだ。俺は遠い星雲国家の公務でこの地球に滞在しながら観測をしている。そう、俺の仕事は『恒星域観測士(Super Stargazer)』なんだ」
装置の中央には、二つの透明なカプセルが並列されていた。琥珀色の光に満たされたその内部では、無数の羽音が可視化されたかのような光の渦が、猛々しく旋回している。
「見せてあげよう、ユキオくん。君の平穏な日常は今日この時に終わった。分子共鳴転移装置……その『真実』の姿を見た瞬間にね…」
邑人が片方のカプセルに手をかざす。
「分子共鳴転移装置、起動。属性、抽出――ミツバチの女王をご紹介しよう」
光が走った。膨大な個体数の蜂たちが一瞬にして空気に溶け、次の瞬間には――一人の少女がそこに立っていた。
女子高生らしき白いセーラー服、琥珀色の瞳、金の髪。
「ミェリナ」と邑人が名を呼ぶと、彼女は優雅に会釈した。
続いて、もう一つのカプセルが閃いた。同じように制服に身を包んだ少女が現れる。褐色の肌、挑戦的な笑み。
「ツェンドリカ。スズメバチの女王だ。」
行男は息を呑んだ。
邑人が語るには、彼女たちはもともと群体生物――巣を中心に集団で生きる蜂の女王であり、それを分子共鳴転移によって「個体生存」する人間の形に転換したものだという。
「群れの意識を、ひとつの身体に写す。これは“位相転換”だよ。」
邑人の声は淡々としていた。「人類のSF小説ではでお馴染みの“物質電送装置”の簡易版さ。宇宙先進文明では常識なんだ。」
その言葉の端々に、行男はぞくりとした。
――位相転換。
――宇宙文明。
――常識。
ユキオはようやく目の前の現実を受け入れた。目の前の男は、地球の人間ではない。
邑人英二。久美子の共同研究者にして、“恒星域観測士”を名乗る謎の人物。
「君は、俺を見た。これは偶然じゃない。高柳行男――君の遺伝波形には、特異な共鳴がある。」
邑人の指が、彼の胸の前に光の円を描いた。
その瞬間、行男の身体を電流のような感覚が貫いた。
頭の奥で、無数の羽音が響く。蜂の群れが、彼の神経をなぞるように。
――「ようこそ、行男。これが君と彼女たちの、最初の“夏”だ。」
ミェリナが微笑み、ツェンドリカが片目を細めた。
そして、夏の夜の研究所の空気が、わずかに震えた。
分子共鳴転移装置が再び起動する。




