buzz.5 ムラビトAはかく語りき
2025年、夏の終わり。16年生きてきたユキオの世界は、足元からアップデートされてしまった。
幻影は一瞬で消えた。
「幻ではない。彼女たちはそれぞれミツバチとスズメバチの女王だ。この分子共鳴転移装置で人間体になった。いわゆる『アバター』だ。共鳴通信でも会話はできるが、より自然な形で対話ができるだろう。かく言う俺も『アバター』なんだよ。
ーーー
翌朝、真夏の陽光が容赦なく降り注ぐリビングで、ユキオは少しだけ背筋を伸ばして叔母に向き合った。
「久美子さん、今日は邑人さんと一緒に、近くの果樹園を見学してきます」
「久美子さん」――そう呼ぶたびに、ユキオの胸の奥にはくすぐったいような緊張が走る。彼女からは「絶対にオバサンと呼ばないこと」を厳命されており、それがこの家での暗黙のルールだった。
久美子は満足げに微笑み、傍らでコーヒーを啜る邑人を振り返った。
「ユキオは生態系と文明の境界線を学びたいそうよ。まさにこの里山は、夏休みの課題にはうってつけというわけね」
「ええ、責任を持って案内しましょう」
邑人が落ち着いた声で応じる。
「助かります。じゃあ、私はこれから山奥の実験農場へ行ってきますから。邑人さん、ユキオをよろしくお願いしますね」
久美子は慣れた手つきで、ロバにリヤカーを繋いだ。このリヤカーには電気モーターによるパワーアシスト機能が備わっており、険しい山道であっても、人や荷物をロバに負担をかけることなく運ぶことができるのだ。
久美子の乗ったロバリヤカーが、ゆっくりと里山の道を遠ざかっていく。乾いた土を踏む車輪の音が、やがて風に紛れて消えた。
ユキオはその背を見送りながら、胸の奥に残る昨夜の記憶を振り払えずにいた。余韻というにはあまりにも異様で、現実と呼ぶにはどこか遠い出来事。
それでも――確かに、自分は見たのだ。
やがて彼は踵を返し、邑人英二のもとへと向かった。
ーーー
戸口の前に立つと、昨夜の自分の行動が、まざまざと思い返された。
ノックもせず、いきなり戸を開けたこと。
あのときは、そんな配慮すら頭から抜け落ちていた。あまりにも常識外れの光景に、理性が追いつかなかったのだ。
ユキオは軽く息を整え、今度はきちんと戸を叩いた。
「――失礼します」
短く声をかけ、ワンテンポ置いてからゆっくりと扉を開ける。
部屋の中には邑人がいた。窓辺に立ち、外の光を静かに受けている。
その背に向かって、ユキオは言った。
「昨日は……すみませんでした。ノックもしないで、いきなり入ってしまって」
邑人はわずかに振り向き、穏やかな目を向ける。
「気にしなくていい」
簡潔な言葉だったが、責める色は一切なかった。
ユキオはそれに小さく頷き、続ける。
「それと――昨夜のことなんですが――」
言葉を選びながら、慎重に問いを投げる。
「あれは、幻覚か立体映像の類なんでしょうか?」
静かな空気が、ふっと張りつめる。
邑人を危険だと思っているわけではない。だが、あの人知を超えた現象を目の当たりにして、自分一人で抱え込めるほど、ユキオは強くはなかった。
しばしの沈黙。
やがて邑人はゆっくりと向き直り、ユキオをまっすぐ見据える。その眼差しは落ち着いていて、恐怖を誘うものではない。
「……それは、歩きながら少しずつ話そう」
穏やかな声だった。
否定もせず、はぐらかしもしない。ただ、順を追って説明するという誠実な意思だけが、静かに伝わってくる。
ユキオの脳裏に、昨夜の言葉がよみがえる。
――納得できるよう、責任を持って説明する。
――今日は遅いから、もう寝たほうがいい。
あのときは現実感が薄れていたが、今、その約束が確かにここにある。
「……わかりました」
ユキオは小さく応じた。
邑人が歩き出す。
その後ろ姿を追いながら、ユキオは胸の奥で覚悟を固める。
これから語られるのは、きっと常識の外にある話だ。それでも、自分は聞かなければならない。
あの夜、自分が見たものの意味を。
ーーー
二人は連れ立って歩き出し、ほどなく裏山の斜面へと続く細い小道へ足を踏み入れた。踏み固められた土の道は、ところどころに小石が転がり、脇には初夏の草が青く繁っている。木立の間を抜ける風はひんやりとして、さきほどまでの陽だまりとは別の気配を帯びていた。
しばらく無言で進んだあと、邑人がふいに口を開いた。
「宇宙人――地球潜入――秘密研究――超常現象」
言葉を区切るたびに、わざとらしく間を置く。
「君たち地球人類の学生が、この手のプロットに接したら、間違いなく『中二病』再発の原因となるな」
軽く笑いながら、邑人は横目でユキオを見る。その口調には皮肉めいた軽さがあったが、不思議と嫌味には聞こえなかった。
ユキオは苦笑を浮かべる余裕もなく、ただ視線を返す。
すると邑人は、少しだけ興味深そうに目を細めた。
「だが、君の反応は違った。抑制された――いわば分析者のそれだ」
足を止めることなく言葉を継ぐ。
「驚愕や恐怖に飲み込まれず、状況を切り分けようとする態度。なかなかできることではない」
そして、わずかに口元を緩めた。
「さすが久美子さんの甥、というところか……」
その名を出された瞬間、ユキオは反射的に問いを返していた。
「久美子さんは、知っているんですか?」
風が一瞬、木の葉を揺らす。
邑人はすぐには答えず、少し先の曲がり角へ視線を向けたまま歩き続けた。
「詳しくは話していない」
やがて、淡々とした声が返ってくる。
「だが、蜂のアバターには会わせたことがある」
ユキオは思わず足を止めかけた。
蜂――あの異様な存在が、脳裏に鮮明によみがえる。
「……それで、どうでした?」
問いは、わずかに緊張を帯びていた。
邑人は肩越しに振り返り、どこか感心したように言う。
「彼女は、知的関心以外の反応をほとんど示さなかった」
驚きも、恐怖も、拒絶も。
そうした人間らしい揺れが、ほとんど見られなかったという。
「なかなか肝が据わっている。俺はそう評価したよ」
さらりと言い切るその調子に、誇張は感じられない。
ユキオはゆっくりと息を吐いた。
久美子らしい、と言えばそれまでだった。だが同時に、自分との違いを突きつけられたような感覚もある。
再び歩き出しながら、ユキオは考える。
自分は、本当に冷静だったのか。
それとも――ただ、理解が追いつかなかっただけなのか。
木漏れ日が揺れる小道の先で、邑人の背中が静かに導いていた。
常識の外側へと続く、その話の続きを。
ーーー
道の両側には、太陽をそのまま形にしたような大輪のヒマワリが、誇らしげに首を並べていた。その蜜を求めて、羽音が騒がしく交差する。
「あ、ミツバチ……。でも、あっちの丸っこいのは……」
ユキオの指差す先で、ふかふかの毛に覆われた大きな蜂が、重たげに、けれど器用に花から花へと渡り歩いていた。
「マルハナバチだ。この近くにコロニーがあるんだろうな」
「蜂の巣、ですか?」
邑人は足を止め、穏やかな眼差しでその羽音を追った。
「ああ。だが、ミツバチのような巨大な帝国じゃない。彼らは小さな家族が集まって、一つの集落を作っているんだ。まるで、人間たちの村のようだろう?」
ユキオは感銘を受けたように、手元のノートにペンを走らせた。
【マルハナバチの生態メモ】
・地中のネズミの廃巣や草の根元の隙間に「集落(巣)」を作る。
・冷涼な環境を好み、日当たりの良い草原や森林の縁など、保温性と乾燥が保たれる場所を選ぶ。
斜面を少し登ったところにある、樹齢を重ねた大きな楠。その隆起した根元に、ひっそりと暗い隙間が開いていた。
「ユキオ君、ここで『分子共鳴転移装置』を起動してみろ。その穴に向ければ、装置が自動的に蜂のコロニー全体をアバターに変換するよう設計されている」
邑人に促され、ユキオは預かっていた不思議な箱を取り出した。
「でも、スイッチが見当たりませんが……」
「スイッチなど不要だ。君の手が触れていれば、装置は君の意思を読み取る。そういうインターフェースなんだよ」
ユキオが意を決して、装置の背面を穴の奥へと向けた。
(見つけろ……マルハナバチの、彼らの村ごと)
強く念じた瞬間、箱の内部から「キュウッ」という、耳の奥に響くような繊細な動作音が鳴り響いた。半透明だった空のカプセルが、目に見えないエネルギーによって瞬く間に満たされていく。
「準備は整ったようだ。さあ、アバターの生成を想うんだ。材料は、君の記憶の奥底から引き出される」
邑人の言葉に呼応するように、ユキオの眼前に眩い光の渦が巻き起こった。夏の陽光さえも霞むその輝きが収束していくと、そこには一人の少女が立っていた。
黒を基調としたセーラー服に、どこかほんわかとした、春の陽だまりのような空気感を纏った女子高生の姿。
「クロマルハナバチか。……名は『クロ』にしておこうか」
邑人が静かに告げる。
真昼の里山、楠の木陰で。こうしてマルハナバチのアバター、クロは産声を上げたのだった。
ーーあとがき
高柳久美子が女王蜂アバターに謁見するシーンは、拙著「田中オフィス・第五十六話、大地からの定期便」でご覧いただくことができます。




