buzz.30 スズメバチのスキマバイト
ツェンドリカは、今日も「2勤1休」という極めて規則正しい3女王協定のシフトに基づき、高柳家に君臨していた。
もっとも、スズメバチの女王としての強烈な本能が、この人間界における「家事全般」を“我が巣の維持管理”とディープに誤認しているせいでもある。冬場になると、鍋の具財を求めて、静江さんの働く産直スーパーに客足が増えてくる。ツェンドリカが掃除や洗濯、夕飯の下準備までしてくれるので、静江はとても助かっているのだ。
「掃除と洗濯は巣の生命線だ。この俺がやらずに、誰がやるというのだ」
ぶつぶつと物々しいセリフを吐きながらも、洗濯物を畳む手つきは熟練の主婦かそれ以上に手際がよい。
「……チッ、静江さんがいねぇと、洗剤の適正分量が分かりづれぇな。まあ、野生の勘でなんとかなるだろ……」
完璧な手際で家事をこなす女王の横で、コタツの主と化したミェリナが、お茶をすすりながら脳内で壮大な経営会議を繰り広げていた。
「うーん、冬季限定パッケージか……箱のデザインも大事だけど、送料のコストもあるし……むむむ……」
その傍らでは、クロが漫画を読みながらゴロゴロと寝転がっている。(休日だが出てきちゃってる)
「ユキオのマンガ、やっぱ面白いなぁ。あ、ミェリナ、次の梱包作業手伝ってあげるから、お小遣いちょうだ~い」
「はいはい、我が社は完全出来高制よ。働いた分はキッチリ払うわ」
ツェンドリカは、その締まりのないやり取りを横目で見つめ、「……平和ボケだな」と小さく笑った。
完璧に家事を終えたところで、ふと時計を見る。時間が余った。
「よし。ユキオの奴に、峻厳なる生態系の教育でも施してやるか。あいつ、最近俺の顔を見るたびに逃げてばっかりだからな」
ツェンドリカはユキオの部屋のドアを、女王の威厳をもってノックもせずブチ開けた。
「ユキオ、ちょっと面を貸せ。本日は特別に『冬の生態系講義・実地編』を開講してやる」
ガチャリと扉が開いた瞬間、ユキオの顔が恐怖に引きつった。
「えっ、あっ、あー! 大事な用事を思い出したんだ! 今すぐ学校の部室に戻らなければーーっ!」
ユキオはカバンを小脇に抱えたまま、まるでスズメバチの大群にリアルに追われているかのような神速で廊下を駆け抜け、玄関へと消えていった。
「……逃げやがったな。せっかく、冬のサバイバル術を伝授してやろうと思ったのに」
それは、雪山へ赴き、雪崩と熊の大群に挟まれて、仮死状態のまま生き残るという実践教育だった。
盛大なため息をついたツェンドリカは、手持ち無沙汰に首を傾げた。
「仕方がねぇ。少し厚着して、巣の外をぶらつくか」
静江から借りたお気に入りのマフラーを首に厳重に巻き、ツェンドリカは玄関の扉を開けた。
冬の空気が、頬を刺すように冷たい。
「……ふん、冬の人間界も悪くねぇな。巣の外の空気ってのは、どこの世界でも身が引き締まる」
ゆっくりと歩き出す彼女の背中には、孤高の女王としての威厳と、人間の少女としての柔らかさが不思議と同時に宿っていた。
冬駅前商店街の夕方。
冷たい風が吹きすさぶ中、ツェンドリカがマフラーに顔を埋めて歩いていると、どこからか鼻腔を猛烈にくすぐる香りが漂ってきた。
「……ぬ。なんだ、この芳醇な香気は」
それは、炭火の香ばしい匂いだった。焼き鳥の甘辛いタレと、じわじわと落ちる脂が爆ぜる音が、冬の澄んだ空気に混じって食欲をダイレクトに刺激してくる。
「……ほう、実に美味そうじゃねぇか」
本能の赴くまま、ツェンドリカは赤提灯が揺れる居酒屋の暖簾をガラリとくぐった。
1.店主の壮大な勘違い
「いらっしゃ――っておおっ! 来てくれたのか、救世主!」
暖簾をくぐったツェンドリカを見るなり、店主のオヤジは地獄で仏に会ったような満面の笑みを浮かべた。
「スキマバイトで応募してくれた子だろ!? 助かったよ、マジで全席埋まってて死にそうだったんだ!」
「は? 俺は客として――」
「あ、いいからいいから! とりあえずスマホ出して!」
言い終わる前に、オヤジはツェンドリカのスマホをひったくるような勢いで操作し始めた。
「はい、アプリ入れて……登録して……よし完了! 今日は華金(ハナキン)で超混みだ、頼むぞ!」
「お、おい待て、俺は飯を――」
「17:00~20:00の3時間。制服とエプロンこれね! はい、焼き場は一任した!」
「…………」
気づけばツェンドリカは、もうもうと煙が立ち込める焼き場の前に直立不動で立たされていた。
【ミニ解説:スキマバイトとは?】
スキマバイト(ギグワーク)とは、「空いた時間にスマホで即登録 → 即勤務 → 即日払い」ができる、現代人間界の極めて効率的な働き方のことである。
アプリで本人確認さえ済ませておけば、店側の「今すぐ来て!」という悲鳴のような募集にその場で即応。勤務終了後にはアプリ上で報酬が即座に支払われる。飲食店やコンビニなど、慢性的な人手不足に悩む現場で爆発的に広がっているシステムなのだ。
ーーー
2.ツェンドリカ、戦場(焼き場)を統べる
「……まあいい。焼き鳥の匂いは嫌いじゃねぇからな」
ツェンドリカは不敵に微笑むと、目の前の炭火を鋭く睨みつけた。
火加減、湿度、空気の対流、煙の流れ――。
「ふん、すべてはハチの巣の温度管理や、我が家(高柳家)の家事と同じだ。児戯に等しい」
【ミニ解説:即戦力化の仕組み】
スキマバイトの仕事内容は、基本的に「簡単で誰でもすぐ動けるもの」が多い。しかし、それゆえに「家事スキル」や「マルチタスク能力」が高い人材が来ると、現場においては無双状態と化す。
特にツェンドリカのように「常に巣の管理に命を懸け、家事万能」なインフルエンサー女王タイプは、戦場と化した飲食店の厨房と恐ろしいほど相性が良いのである。たまに店主の勢いに押されて「気づいたら働いていた」というケースもあるが、彼女の運命やいかに。
ーーー
「お姉ちゃん! ネギマ三本追加ね!」
「了解だ、親父! 席の客に『大人しく待て』と伝えておけ!」
ここからのツェンドリカの動きは、まさに神速、いや「蜂速」だった。
絶妙なタイミングで串を返し、美しくタレを塗り、肉の弾力を指先で確かめる。限界まで焦げる手前のコンマ数秒を読み切り、焼き上がる隙間で山積みの皿洗いを一瞬で消化。そしてまた何事もなかったかのように焼き場に戻る。
「お、お前……新人のくせに、なんでそんなに無駄なく動けるんだ……!?」
ビールサーバーを泡だらけにしながら、店主のオヤジが驚愕の声をあげる。
「俺を誰だと思ってんだ? スズメバチの女王だぞ。数万の兵を統べる巣の管理は、常に命がけなのだ。これしきのマルチタスク、造作もないこと…」
【ミニ解説:現場で求められる3大能力】
スキマバイトで神と崇められるのは、「段取り力」「同時進行力」「気配り」の3つ。
「焼き鳥を焼きつつ皿を洗い、注文を聞きながら盛り付けを終え、店主のボロをフォローする」。こうした家事の延長線上にある超実戦的スキルは、忙しい金曜夜の飲食店において「神の降臨」に等しい扱いを受ける。
ーーー
「すみませーん、レバー塩で!」
「はいよ、レバー塩一丁! 最高の焼き加減で出してやる!」
「ビールおかわり!」
「了解! オヤジ、ビール一丁だ! もたもたするな、客の喉が乾いているぞ!」
ツェンドリカは焼き場とテーブルを縦横無尽に往復し、怒号のように飛び交う注文をすべて頭脳にインプット、かつ正確無比に捌ききっていく。
彼女が厨房を完全に制圧したおかげで、パニック寸前だった店主はレジ打ちと接客に完全専念できていた。
「ツェンドリカちゃん……いや、ツェンドリカさん……あんた、もしかしてどこかのプロの職人か……?」
「ふん、俺はプロの『女王』だ」
格好良すぎるセリフに、カウンターの常連客たちが「おおお……」とざわつき始めた。
3.華金の夜、完全制圧
店は完全に満席、熱気は最高潮。だが、厨房には一分の隙もない。
「おーい! ネギマさらに三本追加!」
「了解だ、親父さん! 火力が乗ってきた、一気に焼き上げるぞ!」
ツェンドリカは魔術師のように炭火を操り、鶏肉をタレに潜らせ、鮮やかに串を返す。その完璧な仕事ぶりに、客たちのざわめきは称賛へと変わっていた。
「おい、今日の焼き鳥、いつもよりジューシーでめちゃくちゃ美味くねぇか?」
「焼き加減が神がかってるぞ……外はカリッと、中はフワフワだ……」
「あの新しいバイトの女の子、一体何者なんだ……」
コソコソと囁く客たちに、ツェンドリカはふっと不敵に笑う。
「当然だ。この俺が直々に魂を込めて焼いたのだ。有り難く胃袋に収めるがいい」
そして勤務終了の時間が訪れた。金曜夜という名の戦場を、ツェンドリカは見事に完全制圧したのだった。
4.戦功報酬の獲得
「助かった……本当に助かったよ、あんたがいなきゃ店が崩壊してた……!」
店主の親父は、まるで本物の女王に謁見するかのように深々と頭を下げた。そして、バイト代の入った茶封筒と、厳重に梱包された焼き鳥のパックを6つ、恭しく差し出してきた。
「これが今日の給料の5000円だ。それと……これ、まかないね。いや、あんたが自分で焼いた『一級品』だけどさ。……あ、あのさ! もしよかったら、ツェンドリカさん……正社員として、うちの店に来てくれないか!?」
月給提示すら辞さないオヤジの必死のプロポーズに、ツェンドリカはフッと鼻で笑った。
「断る。おれは誰かに雇われる一般兵士じゃねえ。……まあ、気が向いたらまた前線基地に遠征してやらんこともない。焼き鳥、ありがたく貰っていくぞ」
「そ、そうですか……。でも、また絶対来てくれよ! あんたみたいな働き手、滅多にいないんだから!」
名残惜しそうに手を振るオヤジに見送られ、ツェンドリカは焼き鳥の包み6袋を誇らしげに掲げて店を出た。
「5000円……これが人間界の『対価』というやつか?」
正直、まだ人間の貨幣価値はよく分からない。だが、自分の労働の成果として勝ち取った、ほかほかの焼き鳥6パックは素直に嬉しかった。
「……これだけあれば、正平さんの晩酌の最高のアテになるな」
そう思った瞬間、彼女の足は自然と高柳家への帰路を急いでいた。
冬の冷たい夜風が、火照った体へと心地よく吹き抜ける。
「……悪くねぇな。人間界の『スキマバイト』ってやつも」
ツェンドリカは焼き鳥の袋を愛おしそうに抱え直し、女王の足取りで、静かな住宅街を颯爽と歩いていった。




