buzz.24 境界線に捧ぐ祈り
夜気が落ち着きを取り戻した庭で、ユキオは静かに、深く息をついた。
鼻腔を突く殺虫剤の刺激臭はまだわずかに残っている。
その重苦しい空気のあたりを、三匹のアシナガバチが弱々しく飛び回っていた。
つい先ほどまで自分たちの世界のすべてであった、あの巣のあった場所を探すように、迷うように――行き場を完全に失った小さな影。
あるべき巣が、どこにもない。
命がけで持ち帰った獲物を与えるべき、愛おしい幼虫たちもいない。
ただ、生暖かい夜風と、自分たちを拒絶した人間の残り香だけが、そこにぽつんと取り残されていた。
ユキオは胸の奥がぎゅっと締めつけられるのを感じた。
ミェリナが先ほど遺した言葉が、いまだに耳の奥で哀しくリフレインしている。
『人間と、私たち群体は……まだ、本当の意味では分かり合えないのかもね』
――それでも、せめて。このまま彼らを消えさせることだけはしたくない。
ユキオは衝動に突き動かされるようにして、そっとベッドの下から小さな箱を取り出した。
かつて邑人英二から譲り受けた、小型の分子共鳴転移装置。
鈍い銀色の筐体が、雲の切れ間から差し込んだ月光を受けて、ほのかに青白く光っている。
「君たちの怒り、悲しみ……全部、ぼくにぶつけてください」
ユキオが覚悟を決めてスイッチを入れると、微かな高周波の振動が夜の空気を鋭く走った。
迷える三匹の蜂たちの体が装置と共鳴し、淡い蛍のような光の粒が周囲の空間にぽつぽつと浮かび上がる。
三匹のアシナガバチは空中でもがくようにゆっくりと形を崩し――。
次の瞬間、光の収束とともに、一人の女性がそこに静かに立っていた。
透けるように痩せた体つきだった。
どこか色褪せた淡い黄色のカーディガンを羽織り、文字通り「ささやかな日常」を象徴するような買い物袋を手にしている。
その姿はまるで、夕暮れの近所のスーパーから当たり前のように帰る途中の、どこにでもいる主婦のようだった。
だが、構成する群体の数が圧倒的に足りないせいだろう。彼女の輪郭は酷く霞み、夜風が吹くたびに、まるで壊れかけたホログラムのようにか弱く震えていた。
「たぶん……こうなることは、初めから分かっていました」
アシナガバチの化身である女性の声は、まるで遠く深い巣穴の奥から響いてくるように静かで、ひどく穏やかだった。
「それでも、この夏、私たちはこの場所で、しっかりと思い出を作ることができました。それだけで十分なのです」
ユキオは胸が詰まり、思わずその場に膝をついて彼女を見上げた。
「すみません……っ。ぼくは、人間だから……あなたたちを助けることが、どうしてもできなかった……!」
アシナガバチの女は責める風でもなく首を横に振り、ただ優しく微笑んだ。
その慈愛に満ちた微笑みは、殺虫剤の匂いが残る夜の闇を、ふわりとやわらげるような温かさを帯びていた。
「私たちの群体は、ここで途絶え、種の存続をすることはできませんでした。でも――」
夜風に溶けていくように、彼女は言葉を続けた。
「他の、まだ見ぬ群体が、きっと私たちの代わりに命を繋ぐでしょう。地球はまだ、こうして豊かな生命を育む力を持っています。その大いなる営みの中で、一部の生命が、他の生命のために場所を譲るということは……決して珍しいことではないのですよ」
ミェリナが傍らで、静かに、敬意を込めて目を伏せた。
女性の声はさらに穏やかに、まるで世界そのものへ捧げる祈りのように紡がれていく。
「大きな命の流れというものは、私たちの知らない、もっと巨大な意思で動いています。その中でただ懸命に、与えられた短い生の営みを全うする。――おそらく、それだけが、この星のすべての生命に課せられた、唯一の義務なのですから」
その最後の言葉とともに、彼女の輪郭がサラサラと音を立てるようにしてゆっくりと崩れていった。
光の粒子が細かい霧のようになり、静かな夜気へと完全に溶けていく。
やがて、光が消え去った地面には、三匹の小さな亡骸が静かに横たわっていた。
その小さな翅が、優しく降り注ぐ月の光を受けて、最期にかすかな虹色に輝いた。
ユキオは両手を固く膝に置き、震える声で呟いた。
「生き続ける者は……遺された者は、大きな責任があるんだな……」
その背中に、ミェリナがそっと歩み寄った。
そして、何のためらいも、境界線すらもなく――ユキオの涙の伝う頬に、ふわりと軽く口づけをした。
「またひとつ、大切なことを学んだわね、ユキオ」
その声は、冷えた夜の空気に溶ける蜂蜜のように、どこまでも柔らかく、甘かった。
「それだけでも…、あのアシナガバチたちがこの世界に生きて、命を燃やしてきた意味が、確かにあったのよ」
一陣の強い風が吹き抜け、庭の木々の葉がザワザワと一斉に鳴り響いた。
誰も見ていない庭の片隅で、熟しかけた柿の実が一つ、ボトリと静かに地面に落ちた。
どこまでも深く、冷たい夜の空気の中で、ユキオの胸の中には、確固たる一つの確信が刻まれていた。
――すべての命は、見えない糸で、確かに繋がっている。
そしてその生きた記憶は誰かの中で、怒りに牙を剥いたツェンドリカの中や、涙を流す自分の中で、必ず永遠に生き続けるのだと。
【高柳家のハンバーグ抗争】
しんみりとした夜の静寂を、突如としてぶち破る軽快な足音が、縁側へと近づいてきた。
「ユキオ〜! ミェリナ〜! ご飯できたよ〜!」
パタパタとスリッパを鳴らしながら現れたのは、エプロン姿のクロだった。彼女の満面の笑顔と、どこからか漂ってきたジューシーな肉の焼ける香ばしい匂いが、庭に残っていた殺虫剤の重苦しい空気を一瞬で吹き飛ばしていく。
「今日の夜ご飯はね、特大ハンバーグなんだよ! 早く来ないと冷めちゃうぞ〜」
その言葉に弾かれるようにして、ユキオとミェリナがダイニングルームへ向かうと、そこにはすでに先客がいた。
夕闇の中へ物騒に消えていったはずのツェンドリカである。いつの間にか人間の姿に戻り、何食わぬ顔でちゃっかり自分の席(しかも一番上座)について、箸を両手に持ってスタンバイしていた。
「ふえぇ……ツェンドリカ、すでに食べる気満々だねぇ? さっきまですごく怖かっ……いや、なんでもないです」
ユキオが引きつった笑みを浮かべる中、クロが焼き上がったばかりのハンバーグを大皿に盛って運んできた。
「じゃーん! 今日のハンバーグ、静江さんに教えてもらって、私がタネからこねて作ったんだよ! どうかな〜、美味しいかな〜?」
クロが期待に胸を膨らませてみんなの顔を見つめると、ツェンドリカがふんぞり返りながら一口目を咀嚼した。
「うむ。肉汁の保持、焼き加減、ソースの調合……どれをとっても我が巣の基準に達している。なかなかいい出来だ」
「やったぁ!」
無邪気に喜ぶクロの横で、ツェンドリカの金色の瞳が、隣に座ったユキオの父・正平を捉えた。
その瞬間、ツェンドリカの箸が電光石火の速度で突き出される。
――グサッ!!!
まだ手をつけていない、正平の皿の上の特大ハンバーグの真ん中に、彼女は容赦なく箸を突き立てた。そしてそのまま、まるで仕留めた獲物を回収するかのように、自分の皿へと力ずくで移し取ってしまったのだ。
「えっ? あ、あれ?」
正平が呆然と箸を浮かせていると、ツェンドリカはさらにギロリと彼を睨みつけ、低くドスの利いた声を響かせた。
「おい、人間……。今日は、これで勘弁してやる。次は……ない」
そう吐き捨てるように言うと、ツェンドリカは奪い取ったハンバーグに豪快にかぶりついた。凄まじい気迫である。
(オレ、なにかツェンドリカちゃんの気に障ることしたぁ……!? さっき隣の家で蜂の巣駆除して、ちょっと良いことしたはずなんだけどな……。というか、ツェンドリカちゃん、オレの中でユキオのお嫁さん候補ナンバーワンだったのに……)
もちろん、正平には隣の軒先で繰り広げられていた「ハチと人間の境界線」を巡るドラマなど知る由もない。ただただ、理不尽に晩飯を強奪された事実と、お嫁さん候補の凶暴化に、状況が飲み込めず涙目になっていた。
そんな険悪(?)な空気を察してか、静江が「大丈夫よ、あなた!」と、キッチンからさらに山盛りの大皿を抱えてやってきた。
「ハンバーグ、中までしっかり火が通るようにどんどん焼いてますからね! おかわりいっぱいあります!」
それを聞いたツェンドリカは、口の周りにデミグラスソースをつけたまま、ガタッと椅子を鳴らして立ち上がった。
「何っ!? それなら肉はレアがいい。オレによこせ! 全部だ! 今日は肉を食わねば腹の虫が収まらん!!」
「えぇーっ!? ツェンドリカ、もう三つ目だよ!? クロが作ったんだから、みんなで平等に食べなきゃダメーっ!」
「黙れクロ! ロジスティクス現場のトップには、多めのエネルギーを配分するのは当然のことだッ!」
わあわあと騒ぐツェンドリカと、それを必死に宥めるクロ。その横で、ミェリナはクスリと上品に微笑みながらハンバーグを口に運び、正平は相変わらず首を傾げながら、新しく配られたハンバーグを奪われないよう、ツェンドリカの様子を恐る恐る見守っている。
そんなツェンドリカの横暴(暴食)ぶりを、自分のハンバーグを咀嚼しながら見つめていたユキオは、喉の奥につかえていた塊が、ゆっくりと形を変えて溶けていくのを感じていた。
(……そっか)
ツェンドリカは、あの鋭い針を父さんに向けなかった。人間の理不尽な殺生に対して、彼女なりに激しい怒りを抱き、あんなにも激しい態度を現していたというのに。
彼女が父さんに下した罰は、「ハンバーグを一個、強奪する」という、あまりにもちっぽけで、けれどこの高柳家の食卓のルールに則った、彼女なりの可愛い『報復』だったのだ。
スズメバチの絶対的な女王でありながら、ツェンドリカはすでに、この人間の家の一員として、ギリギリのところで踏みとどまってくれている。ハチの理を胸に抱いたまま、人間の都合を、ハンバーグの肉汁ごと力ずくで飲み込んでくれた。
分かり合えない境界線はある。これからも、人間とハチはきっと戦い、排除し合っていくのだろう。
けれど、いま目の前で口の周りをソースだらけにしている女王や、隣で嬉しそうにハンバーグを頬張るミェリナ、そして一生懸命に料理を作ってくれたクロがいるこの空間だけは、確かに奇跡のような均衡で保たれている。
「……まぁ、父さんのハンバーグが犠牲になっただけで済んで、本当に良かったよ」
ユキオはぽつりと呟き、苦笑した。胸の奥に残っていたあの重い鉛のような矛盾は、消え去ったわけではない。けれど、この賑やかな日常を守りながら、これからじっくりと考えていけばいいのだと、不思議な納得が彼を包んでいた。
ハチと人間。どれだけ深い境界線や理不尽な矛盾があろうとも――高柳家の食卓は、今日もいつもと変わらない、賑やかでほんわかとした熱気に包まれていくのだった。




