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女王蜂に育てられた俺~宇宙最難関資格に挑む  作者: 和子


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buzz.23 秋の陽射しとアシナガバチ


 九月の終わり、あれほど賑やかだった蝉の声がぷつりと途絶えたあとも、昼間はまだ肌が汗ばむほどの暑さが残っていた。


 庭の隅にある柿の木は、葉の端から少しずつ朱色に染まり始めている。

高柳家の縁側では、ユキオの父・正平が、お隣の旦那さんと熱心に話をしていた。

挿絵(By みてみん)

「大丈夫、私がやってあげますよ」


 正平はいつものように、近所でも評判の穏やかな笑みを浮かべた。

お隣は九十を過ぎた老夫婦だ。聞けば、軒下に大きな蜂の巣ができてしまい、刺されるのが怖くて数日前から外に出られないのだという。


 断る理由もなかった。正平は物置から市販の殺虫剤の缶を取り出すと、淡々と準備を始めた。

麦わら帽子の上から園芸用の細かいネットを被り、首元を紐でしっかりと縛る。さらに厚手の作業着を着込み、袖口を手袋の中へ押し込み、ズボンの裾はゴム紐で靴下の中に封じた。

それは、一分の隙もない完全防備の姿だった。


 その様子を、ユキオの部屋のある2階の窓から、身を乗り出して見ていたツェンドリカが、あきれたように鼻で笑った。


「ずいぶん大げさな()()()()(ドレス)だな。おいユキオ、お前の親父がこれからやろうとしている相手は、ただのアシナガバチだぜ?」


 彼女の鋭い金色の瞳が、残暑の風の向こうにある隣家の軒先を射抜くように光る。


「俺たちスズメバチみたいに気が荒いわけじゃない。巣を激しく揺らしでもしなきゃ、あいつらは滅多に襲ってこない。人間ってやつは、本当に何でもかんでも怖がるのな」


 その隣で、ミェリナは静かにうつむいていた。透き通るような金色の髪を悲しげに震わせ、きゅっと胸元を焦燥はがゆそうに抑える。


「……殺さないと、ダメなの? あの子たち、人間の畑を荒らす青虫やイモムシを、一生懸命に食べてくれるの。『益虫』のはずなのに」


 ユキオは二人の言葉を背中で聞きながら、複雑な思いのまま、ただ立ち尽くしていた。

庭の向こうでは、父が脚立を立て、慎重に隣家の軒下を見上げている。

灰色の、お椀をひっくり返したような形をした巣。その無数の穴からは、小さな翅の影がいくつも出入りしていた。


 ――あの巣の中には、春から必死に命を繋いできた女王がいて、彼女を信じて働く働き蜂たちがいる。

ひとつの群れが持つ秩序、使命、そしてささやかな営み。

それは、ユキオがかつて夏の夜、邑人英二から見せられた蜂の精神世界、あの尊くも美しい“蜂の記憶”そのものだった。彼らにとって、あの巣は世界のすべてなのだ。


「お隣さんはね、九十歳のご夫婦なんだ」


 ユキオはぽつりと、自分自身に言い聞かせるように呟いた。


「もし刺されたら……たとえ毒性の低いアシナガバチでも、高齢の二人にとっては命に関わるかもしれないんだ。だから、父さんは」


 ミェリナはその言葉を聞いて、はっとしたように、それから諦めたように少しだけ目を伏せた。

ツェンドリカは、唇の端を吊り上げて笑ったが、その不敵な笑みはほんの一瞬、西日から落ちた影のようにかげりを帯びた。


 人間は、愛する者を守るための「恐れ」から殺す。

 蜂は、愛する巣を守るための「本能」から刺す。


 どちらも悪ではない。ただ、互いの領域が重なってしまったがゆえに生じる、逃れようのない衝突。ふたつの異なることわりは、交わることそのものが痛みとなる命として、斜めから差し込む秋の光の中で、冷たく息を潜めていた。


 やがて、静寂を破るように激しい噴射音が響いた。

白い霧が冷酷に舞い上がり、美しい青紫の空へ向かって放たれる。その直後、羽を狂わせた小さな影たちが、ばらばらと地面へ向かって落ちていく。


 ツェンドリカは感情の読めない目で、ただその光景をじっと見つめていた。

ミェリナの瞳には、ひとつの小さな文明が、人間の手によって一瞬で消える瞬間が映っていた。


 その日の夕方、燃えるような夕焼けが町を真っ赤に染め上げた。

駆除を終えた高柳家の庭の片隅に、剥がし取られたアシナガバチの巣がひとつ、静かに転がっていた。中からこぼれ落ちた、まだ白い幼虫の繭が、夕日に照らされて悲しく光る。


 ミェリナはその巣の欠片をそっと手のひらにすくい、誰にも聞こえないほどの小さな声で囁いた。


「……ごめんなさい。でもね、あなたたちのこと、私はずっと忘れないから」


 背後で、ツェンドリカがふぅと肩をすくめ、踵を返して歩き出した。


「人間ってのは、本当に厄介で、身勝手な生き物だな。他者を守る理由も、他者を壊す理由も……その両方を、同じくらい正しく持っていやがる」


 冷たさを帯び始めた秋風が、二人の間を吹き抜けていく。

その風の音の中に、ユキオはかすかに、もうここにはいないアシナガバチたちの幻の羽音を聞いた気がした。


 あの残暑の夕暮れ、光の中で見た黄金色の群れの記憶が、少年の胸の奥で、いつまでも切なくざわめき続けていた。


 夕暮れの庭に、白い殺虫剤の化学的な匂いが重く淀んだまま残っていた。

草むらの奥からは、命の灯火が消えかけるような、羽をもがれた微かな音が、カサ……カサ……と不規則に響いている。

役目を終えた高柳正平は、剥ぎ取った巣をゴミ袋に収め、スプレー缶を片付けると、「よし、これで一安心だな」と呟いて家の中へ戻っていった。人間の世界には、再び平穏が戻ったのだ。


 しかし、残されたのは、ユキオと二人のハチの女王――ミェリナとツェンドリカだった。

陽が急速に傾いていく縁側で、ツェンドリカが肺の底から鋭く息を吐き出す。


「どうだ、ひとつの群体を跡形もなく抹殺した気分は? ――人間様よ!」


 その声には、いつもの鷹揚な尊大さでコミカルに振舞っていたとき面影は微塵もなく、ただ冷たい金属の響きだけが混じっていた。


 ユキオは何も言えなかった。ただ、あの精巧に作られた小さな巣の中にいた、無数の命の記憶が脳裏を離れず、喉の奥が引き攣るように熱い。


 ツェンドリカは苛立ちを隠そうともせず腕を組み、不穏に燃える西の空を見上げる。


「胸クソ悪いから、そこらを少しぶらついてくるぜ。……感情のコントロールが効かねえな。もしかしたら、その辺にいる人間を2〜3人、気まぐれに『抹殺』しちまうかもなあ」


 唇の端を歪めて物騒な言葉を言い放つと、彼女の身体が小刻みに、激しく震えた。

その輪郭が一瞬、強烈な陽炎のように揺らぐ。彼女の背後から、スズメバチの獰猛な翅の記憶が、怒りの振動波となって周囲の空気へビリビリと滲み出していく。スズメバチの姿、その目は赫々と光っていた。


「ツェンドリカ!」


 ユキオは本能的な恐怖を覚えながらも、思わず大声で叫んでいた。

だが、彼女は決して振り向かない。

軍靴を踏み鳴らすような足取りで、背中を見せると、急速に夜の帳が降りる路地へと消えていった。残光のような警戒色の甲殻が、最後の夕焼けに溶けてゆく。


 庭には、息が詰まるほどの沈黙が落ちた。


 ミェリナはしばらくの間、ツェンドリカが消えた空の果てを見つめていた。

茜色から群青色へと染まりゆく雲の向こうで、先ほど散ったアシナガバチたちの、群れの記憶がかすかに蠢いている。


 仲間を守り、必死に泥をこねて巣を築き、ただ純粋に命を繋ごうとしていた彼女たち。人間を襲おうとしたわけではない。彼らにとって、「刺すこと」は悪意ではなく、ただ「生きること」の一部であり、大切な家を守るための唯一の手段だったのだ。


「人間と、私たち群体は……まだ、本当の意味では分かり合えないのかもね」


 ミェリナのその声は、消え入りそうな羽音のようにか細かった。

それはユキオを責めるものではなく、変えられない世界の理に対する、深い諦念のようでもあり、風に溶けるようにして消えた。


 ユキオは、どうしても返す言葉を見つけられなかった。

お隣のおじいちゃんとおばあちゃんを守るために、父さんがしたことは決して間違っていない。だけど、胸の奥に鉛のように広がるのは、理屈では割り切れない圧倒的な重さだった。

“守るための殺生”という、あまりにも一方的な人間の都合の矛盾。


 庭の隅の、踏み荒らされた草むらに、見落とされた壊れた巣の欠片がひとつだけ落ちていた。

その濃い影の下で、一匹のアシナガバチの透明な羽が、最後の夕陽を反射して鈍くきらめいている。

小さな、壊れた鏡のように光りながら。それはまるで、冷たい地面に伏しながらも、まだ人間に向かって何かを必死に訴え続けているようだった。

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