buzz.18 蜂はオレの嫁ではない
9月を迎えた厨子の街は、およそ「近づく秋の気配」とは名ばかりの、容赦ない残暑に包まれていた。
高柳家の庭には、まばゆい朝日を浴びてパタパタとはためく洗濯物と、そこに立つ一人の少女の姿があった。
ツェンドリカ、16歳(見た目)。
朝の陽射しを浴びながら、ツェンドリカは真っ白なシーツを両手いっぱいに広げた。
ぱあっと布が空気を含み、柔らかな洗剤の香りが庭先へふわりと広がる。
「そうそう、そのくらい揃えると綺麗に乾くのよ」
静江が笑いながら答える。
「なるほど……洗濯って気持ちいいですね」
ツェンドリカは感心したように目を細め、物干し竿へ丁寧にシーツを掛けていく。朝風がその裾をさらさらと揺らし、陽の光を透かした白布が、青空の下でゆったり波打った。
洗い立てのタオルはまだ少しだけ冷たく、指先に清潔な湿り気を残している。
籠から一枚ずつ取り出し、皺を伸ばして干していくたび、庭の空気まで明るくなっていくようだった。
「外で干すと、太陽の匂いになりますね!」
嬉しそうに振り向くツェンドリカに、静江も思わず頬を緩める。
「ふふ、本当に働き者なのねぇ」
「はい。洗濯ってこんなに気持ちいい作業だとは思いませんでした」
カーテンが風にふくらみ、洗濯ばさみが小さく鳴る。
土曜日の朝は、ゆっくりと、心地よく乾いていった。
階下のキッチンから見上げる静江の顔は、すっかり綻んでいる。ツェンドリカが「今日はお手伝いがしたいのです!」と高柳家の門を叩いたのは、なんと朝の6時。そこから朝食の味噌汁の出汁をとり、手際よく配膳まで済ませてしまったのだ。
リビングのソファでは、父親の正平が淹れたてのコーヒーを片手に、呆然とベランダを眺めていた。
「……なぁ静江。あの子、本当にユキオの嫁に来てくれないかな。最高すぎるだろ……」
一方、当のユキオはといえば、リビングの隅で何とも言えない複雑な表情を浮かべていた。今日は高校の理科クラブの活動があるため、早く起こしてもらったのは素直にありがたい。ありがたいのだが……。
我が物顔で家の中を甲斐甲斐しく歩き回るツェンドリカの姿を、ユキオは忌々しげな、それでいてどこかハラハラした目で見追うしかない。
そんな息子の心中など露知らず、正平がトーストを齧りながら暢気に話しかけてくる。
「ユキオ、お前幸せ者だな。ガールフレンドのあんな家庭的な働きぶりを見せられたら、将来の温かい家庭の様子が嫌でもイメージできるだろう?」
(イメージできるわけないだろ……!)
ユキオは心の中で激しくツッコミを入れた。
もし。もしもイメージするとしたら。
普通の一般家庭の部屋の中に、彼女の「真の姿」――すなわち、巨大なスズメバチの群体がブンブンと凄まじい羽音を立てて飛び回っていたら、一体どんな修羅場になるというのだ。
間違いなく、その家から発せられる悲鳴は向こう三軒両隣にまで響き渡るはずだ。
『ちょっとあなた! 土曜日だけど、市役所の害虫駆除の係に電話つながるかしら!?』
『バカ言え、警察だ! 110番でいい! 死人が出てからじゃ遅いんだぞ!!』
そんな怒号が近所に飛び交い、防護服を着た大人たちが血相を変えて押し寄せてくるに違いない。
客観的に見れば、現在の高柳家は「獰猛なスズメバチが容赦なく家の中に侵入している」という、文字通りの非常事態なのだ。
それなのに、当の高柳夫妻ときたら、未来の息子夫婦との生活のまぼろしを見ているかのような優雅な休日の朝を過ごしている。
「ホント、朝からこんなに働いてもらっちゃって申し訳なくて……。でも、すっごく助かるわぁ」
静江は、息子が連れてきた(と思っている)「理想のお嫁さん候補」に、完全にハートを射抜かれて感激しきっている。
すると正平が、コーヒーカップをテーブルにトンと置き、父親としての威厳を(見当違いな方向に)発揮してユキオを指差した。
「ユキオ、お前の嫁さんはツェンドリカちゃんに決定だ。お父さんはもう、異論は認めん!」
「いや、だから、付き合ってもいないってば……」
頭を抱えるユキオの耳に、庭から「ふふん」と鼻を鳴らすような、女王としての自信に満ちたツェンドリカの軽い笑い声が聞こえたような気がした。
ーーー
「ちょっと来い!」
ユキオは、干し終えたばかりの洗濯籠を抱えたツェンドリカの手首を掴むと、問答無用で二階へと引っ張っていった。
「わっ、な、何だ? 乱暴だな!」
「いいから来いって!」
どたどたと騒がしく階段を駆け上がる。その様子を、一階のキッチンから見ていた母・静江は、おたまを片手に頬を染めて微笑ましそうに見送っていた。
「あらあら、朝から仲が良いことねぇ。若いっていいわ」
(違う。まったく違う!)
ユキオは心の中で全力の否定を叫びながら、自分の部屋へと飛び込み、勢いよくドアを閉めた。
ガチャリ、と鍵をかける。ようやく確保された完全な密室。
「……で、一体どうしたんだ?」
ツェンドリカは抱えた洗濯籠を小脇に抱え直し、きょとんとした顔でユキオを見つめている。その、人間の女子高生にしか見えない無邪気な顔を見るたびに、ユキオの頭痛はひどくなる一方だった。
「どうしたじゃない!」
ユキオは膝をつき、ベッドの下へと這いつくばった。奥の方へ手を伸ばし、ガサゴソと音を立てて銀色の金属箱を引っ張り出す。
大きさは、ちょうど大きめの弁当箱ほど。だが、その表面には細い青白い光の線がまるで生き物の脈動のように走り、見たこともない複雑な幾何学紋様が浮かび上がっている。
これこそが、邑人から借り受けた秘密のアイテム――『分子共鳴転移装置』。ネットやメディアで発表したら、世界を変えてしまうほどのガジェットだ。
ユキオは箱を両手で持ち、耳を近づけて軽く振ってみた。
カタカタ。
「……異常なし、か」
彼は真剣な顔で床を見つめ、深刻そうに呟いた。
「なぁ、なんでこれ、勝手に開いちゃったのかな……。ベッドの下が、微妙に水平じゃなかったんだろうか?」
するとツェンドリカが、冷ややかな視線を落として言った。
「いや、そもそも女王である俺をそんな狭いところに閉じ込めるな!」
「閉じ込めてたんだよ!どうして出たんだ?」
ユキオは勢いよく立ち上がり、びしっとツェンドリカを指差した。
「お前、自分が何者かわかって言ってるのか!? 普通の一般家庭に、巨大なスズメバチが威風堂々と屹立してる時点で、本来なら大事件なんだぞ!」
言われたツェンドリカは、ふん、と鼻を鳴らして腕を組んだ。怒られる理由がさっぱり分からないといった風に、むしろ不満げに口を尖らせる。
「失礼なことだな。俺はただボーッとしているわけではない。今朝だって、お前の母親のために手伝いを完璧にこなしたぞ。だし巻き卵の味付けも完璧だったはずだ」
「そこが問題なんだよ! 馴染みすぎなんだ!」
「だが、静江さんもとても喜んでただろう」
「母さんは順応しすぎなんだよ! 人間の女の子だと思って完全に勘違いしてるんだ!」
ユキオは天を仰ぎ、大きく深呼吸をした。
落ち着け、自分。ここで感情的になったら負けだ。
まずは、この目の前の「女王様」に人間社会のルールを叩き込むことが必要だ。それから、どうにかしてこの金属箱の中へ戻ってもらわなければならない。今日はただでさえ、夏休み明けの理科クラブの活動があるのだ。これ以上、家でも外でも騒ぎを大きくされたら、自分の平穏な高校生活(と人生)が完全に終わってしまう。
「いいか、ツェンドリカ。人間社会にはだな、見た目で当然にその行動が推定される――」
ユキオは人差し指を立てて、渾身の説教を始めようとした。
だが、ツェンドリカはそんなユキオの言葉などどこ吹く風。すでに興味を失った様子で、豊かな髪を揺らして、楽しそうに窓の外の青空を眺め始めていた。




