buzz.15 無制限の糖質ワールド
「さあ、生態系の勉強だ! クロ先生、ご指導よろしくお願いします!」
ユキオが気合十分にノートを開くと、セーラー服姿のクロは、棒付きキャンディーを口の中で転がしながら、心底めんどくさそうにパチパチと瞬きをした。
「えー……。ここにはレンゲ畑もないし、キャンディ舐めてたほうがいいわー」
「やる気出してよ! レンゲ畑はないかもしれないけど、おもしろい植物ならたくさんあるんだ。ほら、近くの島には浜木綿っていう白い花が咲いてるし。三浦半島は温暖だからさ、ハイビスカスなんかもあるんだよ。もしこの辺を探検するっていうなら、僕がいくらでも案内するし!」
熱弁するユキオを、クロはジト目でじっと見つめた。
そして、おもむろに椅子から立ち上がると、部屋の窓をガラッと大きく開け放つ。
心地よい潮風が室内に流れ込んできた――と思った次の瞬間だった。
クロはユキオの目の前にふらりと戻ってくるなり、自分の口に咥えていた棒付きキャンディをすぽんと引き抜き、それをあろうことか、ユキオの開いた口へダイレクトに突っ込んできた。
「うっ……!?」
突然のイチゴ味の襲撃に、ユキオの目が丸くなる。その場でヘタり込む彼を見下ろしながら、クロは事もなげに言った。
「それ、溶かさないようにちゃんと取っておいてよ!」
「え、ちょっと、何を――」
言いかけるユキオの手を、クロがその小さな手でぎゅっと握りしめた。
その瞬間、部屋の空気が一変した。
窓から吹き込む風の音がかき消え、空間そのものが細かく震え始める。
"ブーーーーン……。ズズズズズ……。"
それは、人間の耳にはかすかに聞こえる程度の、微細で、それでいて五感の奥深くに直接響く不思議な振動。クロの背後に広がる目に見えない領域から、おそらく百匹は下らないであろう「働き蜂」たちの生命の鼓動が、一斉にハミングを始めたのだ。
その羽音は、まるで極上の子守唄。脳の緊張を完璧に解きほぐし、深い眠りへと誘う特殊な周波数だった。
旅の疲れと肩の張りがピークに達していたユキオは、抗う術など持っていなかった。
「あ……れ……?」
急速に視界が天井板の木目に吸い込まれていく。ユキオはガクンと膝から崩れ落ち、ベッドの脇にうずくまるようにして、そのまま深い意識の底へと沈没した。
床に丸くなったユキオの寝息を確かめると、クロは満足そうに「ふぁあ」とあくびを噛み殺した。
そして、セーラー服のスカートも気にせず、ユキオのふかふかのベッドへ仰向けにダイブする。
「やっぱり、ふかふかな巣が一番ね……」
呟きながら目を閉じると、彼女自身もまた、あっという間に心地よい微睡みの世界へと堕ちていった。
ベッドの上のクロと、ベッドの脇で丸くなったユキオはしっかり手を握ったままであった。
ーーー
目の前が暗転して、意識を失ってから間もなく、ユキオは、ふっと奇妙な感覚と共に目を覚ました。
体が、軽い。信じられないほど軽い。
それどころか、いつも見慣れているはずの自分の部屋が、まるで巨大な大聖堂のようにそびえ立っている。机の脚は巨大な大黒柱のようで、視界はなぜか何千ものモザイクが合わさったような不思議な広がりを見せていた。
「な、なんだこれ……!?」
声を出そうとしたが、喉は鳴らない。代わりに、背中で"ブブブッ"と激しい音が響いた。
自分の体を恐る恐る見下ろす。そこにあったのは、ふさふさとした黒と黄色の毛並み。丸っこくて愛らしい、しかし紛れもない「クロマルハナバチ」の肉体だった。
(これは……まさか、あの銀色の箱の力じゃないな!?)
ユキオには覚えがあった。以前、ミツバチのミェリナが彼に施した超常現象だ。分子共鳴転移装置で物質化するのではなく、眠っているユキオの脳から「意識」だけをハッキングして取り出し、自らのネットワーク下にある働き蜂の個体にリンクさせたのだ。
つまり今のユキオは、一匹のマルハナバチとしてこの世界に存在していた。
『おーい、目が覚めた? 見習いさん』
すぐ目の前で、一匹のクロマルハナバチが空中静止しながら、ユキオに念波を送ってきた。
間違いない。気だるげで、でもどこか威厳のあるこの雰囲気。クロの意識が憑依している、別の働き蜂だ。
『ちょうどいいわ。さっき言ってたハイビスカスだかハマユウだかってやつ、案内してもらいましょうか。連れてってくれたら、生態系のお勉強、ちょっとだけ手伝わせてあげてもいいよ』
小さな羽を力強く羽ばたかせながら、クロ(蜂)が窓の外の青空を指し示す。
人間サイズでは味わえない、圧倒的なスケールで広がる厨子市の自然。16歳の少年と、三畳紀から続くハチの女王による、文字通りの「目線を変えた」生態系ツアーが、今ここから始まろうとしていた。
ーーー
人間が精製した糖分は、時に生物の生存本能を狂わせる。
イチゴの香料を纏った棒付きキャンディー。それは、二億年の歴史を持つハチの女王の脳を一時的に麻痺させるほど、暴力的で、過剰で、濃密な人工の「罠」だった。クロが漏らした「変態」という言葉は、ハチという種の限界を超えた糖度を生み出した人間への、畏怖に満ちた賛辞にほかならない。
だが、ハチの肉体に意識を同調させた瞬間、その天秤は容易に覆る。
ハチの複眼が捉える世界において、花々は単なる植物ではない。紫外線によって浮かび上がる花弁の導線は、まるで闇の中に浮かび上がる光源のように、強烈にその存在を主張する。そして、触角をかすめる浜木綿やハイビスカスの芳香は、彼らの遺伝子に直接語りかける「本物の報酬」だ。
キャンディが脳を騙す一過性の麻薬であるならば、大自然の蜜は生命の維持と生殖に直結した正統なるエネルギー。純粋な糖質の塊を前にして、どちらを選ぶかなど、ハチの形をした精神にとっては問いにすらならない。
クロがユキオの口にキャンディーを突き返したのは、気まぐれでも親切でもない。人工の糖質を人間の肉体という「器」に保存させたまま、自らは野生のより上質な糖質を貪りに行くという、冷徹なまでに合理的な判断だった。
ハチにとって、糖質とは生きることそのものだ。
一匹の少年と一匹の女王は、ただ甘味という名の絶対的な報酬に突き動かされ、厨子の空へと羽ばたいていく。そこにあるのは、人間と昆虫の奇妙な友情などではなく、糖質という名の絶対的な支配者に対して、ただ忠実に従う生物たちの姿であった。
【ハチ合わせの対話】
「ユキオー、おにぎりほんとにおいしいわ。あなたも食べたら?」
母・静江は、手におにぎりを持ったまま、ユキオの部屋の扉をそっと開けた。
その瞬間、彼女の目に飛び込んできたのは、思わず息を呑むような光景だった。
ベッドの上には、見慣れない少女が仰向けに寝ている。そしてベッドの脇では、ユキオが恭しくその少女の手を握りしめたまま、うずくまるようにして眠りこけていた。
静江はパニックになりそうな心をぐっと堪え、足音を忍ばせて恐る恐る二人に近づいた。
耳をすますと、二人からは規則正しい、穏やかな寝息が聞こえてくる。
「お友達が来ているなんて、聞いていなかったのに……」
息子の部屋に女の子がいるのを見るのは、ユキオが小学生の時以来のことだった。しかも、その女の子は息子のベッドに仰臥し、お互いに手を握り合っている。
衣服は乱れていない。なにか間違いが起こったわけでもなさそうだ。ただ、少女の衣服の裾からは、若々しいおへそが小さく覗いていた。
「寝冷えしちゃいけないわ」
静江は母親らしい優しさで、少女のおへそが隠れるように、ベッドの端にあったタオルケットをそっとかけてやった。
ユキオは本当に疲れて眠っているようだ。このまま二人を寝かしておいてあげましょう――静江が音を立てないように立ち上がろうとした、その時だった。
「優しい方ですね」
鈴の鳴るような声が、静かな部屋に響いた。
驚いて静江が振り向くと、そこにはいつの間にか、眩しいほどの金髪をなびかせた女子高生が立っていた。ユキオが部屋に残していった銀色の箱から、勝手に出てきたミェリナである。
「初めまして、ミェリナといいます。寝ているこの子は、クロといいます。私たちはユキオさんの、とっても仲の良いお友達です」
あまりの突然の登場に静江が硬直する間も、ミェリナは完璧な所作で小さく一礼してみせた。その佇まいには、どこか一国の女王のような気品すら漂っている。
「二人とも、少し根を詰めすぎて疲れて寝てしまったようです。すぐ起きるでしょうから、クロは後で私が連れて帰りますね。突然のことで驚かれたことでしょう。とりあえず私がここで二人の様子を見守っていますから、どうぞご心配なさらないでください」
静江は、眼前の金髪の少女の言葉遣いと、あまりにも落ち着いた態度に深く感心してしまった。
(こんなに気品があって言葉遣いもしっかりしているお嬢さんが、あのユキオのお友達だなんて……)
日頃、我が子を「しおれたレタス」などと揶揄していた母親にとって、これは奇跡に近い出来事だった。あまりの感動と恐縮さから、静江は思わず背筋を伸ばし、丁寧な敬語で応じていた。
「お、お飲み物持って参りますわ。何がよろしいでしょうか?」
「どうぞお構いなく」
ミェリナは静かに微笑み、静江の緊張を優しく解きほぐすように首を横に振った。
「今日は久しぶりにお家に帰られたユキオさんの様子を見に、少し立ち寄っただけですので。私たちはすぐに帰ります。今はどうか、あの二人を少し寝かせてあげてください」
「そう……それじゃあ、お言葉に甘えて」
その理路整然とした大人の対応にすっかり安心した静江は、これ以上邪魔をしないよう、満足げな笑みを浮かべて静かに部屋を後にした。
扉が閉まる。
部屋に残されたミェリナは、ベッドの上のクロと、ハチの意識にリンクして床に転がっているユキオを見下ろし、ふっと小さくため息をついた。
「やれやれ……。私の完璧な外交手腕がなければ、今頃どうなっていたことか。しっかり勉強しなさいよ、見習いさん」
金髪の女王は誇らしげに胸を張ると、人間の少年が必死に守り抜いた「銀色の箱」の傍らで、静かにその帰りを待ち始めるのだった。




