buzz.14 観測士の帰還
ユキオは死んでいた。
正確に言うなら、歩く生ける屍と化していた。
「……一歩、あと一歩……!」
彼がそこまでボロ雑巾のようになっている理由は、背負ったリュックサックの中身にある。
難関資格『恒星域観測士』を目指す彼が、謎の風来坊・邑人から借り受けた秘密のアイテム――『銀色の箱』。
これの運搬ミッションが、とにかく過酷極まりなかった。
『いいかいユキオくん、その箱は絶対に、傾けて放置しないでくれよ。ヒンジを取り替えないとダメだ。ホームセンターで買ってくる時間もないので、そのまま取扱い注意だ』
宇宙先進文明のオーバーテクノロジーは、日本のローテクのメンテナンスが必要らしい。邑人の不吉な忠言が脳裏をよぎる。
「ナナメ厳禁、ナナメ厳禁……」と呪文のように唱えながら、上半身の水平を完全にキープしたまま、ロボットのような不自然なステップで歩き続けた結果、ユキオの肩は信じられないほどガチガチに張り切っていた。
なんとか辿り着いたのは、神奈川県「厨子」市にある実家。
(よく漢字を「逗子」と間違えられるが、ここは由緒正しき「厨子」市である)この地は三方を山に囲まれているため、坂道やすれ違いが困難な狭い道が多い。
ガチャリと玄関のドアを開けた瞬間、ユキオの緊張の糸はプツンと切れた。
バタンッ!!!
「うへぇぇぇ……」
玄関のたたきに、文字通りスライムのように倒れ込むユキオ。もちろん、背中の銀色の箱だけは、奇跡的な執念で水平を保ったままである。
その盛大な音を聞きつけて、奥からエプロン姿の母親がパタパタと足音を立ててやってきた。
「あらお帰りなさい! って、ちょっとユキオ!? なにその姿。すでにシナシナじゃないの、夕方5時過ぎの『売れ残りのレタス』みたいに!」
ユキオの母である高柳静江は近所の産直野菜販売所でパート勤務をしている。我が子の衰弱っぷりを表現するボキャブラリーが完全に生鮮野菜の鮮度指標だった。
「ただいま、お母さん……。でも、こうしちゃいられないんだ……ッ!」
ユキオは床に這いつくばったまま、息も絶え絶えに顔を上げた。その目は、疲労困憊でありながらも、16歳の蓮華高校2年生としての奇妙な使命感に燃えている。
「新学期まで残された日数は僅か、この夏休みの課題を完成させなければ、文字通り『出荷停止(留年)』になってしまう……!」
「はいはい、わかったから早く起き上がりなさいよ」
呆れる静江に、ユキオはリュックから大事に抱え直した『銀色の箱』……ではなく、もう一つの包みを取り出した。大きな包みである。
「それよりお母さん、これ。久美子おばさんから、お土産におにぎりをもらってきたんだ」
「あら、久美子さんから? しおれたレタスみたいなウチの子を面倒見てもらっただけでも申し訳ないのに。律儀ねぇ」
「ただのおにぎりじゃないよ。なんと……12個もあるんだけど」
「12個!? なにそれ、運動会でもあったの?」
「いや、とにかく食べてみて。本当に美味しくて、脳がバグるから! びっくりしてレタスみたいにシャキッとするから!」
「例えにレタスを被せてこないで頂戴…」
肩、足腰の筋肉痛に耐えながら、誇らしげにおにぎりの包みを差し出すユキオ。
こうして、謎のハイテク機器(銀色の箱)と、大量の絶品おにぎり、そしてなぜかこの後ユキオを囲むことになる「3人の少女(※中身はハチ)」という、波乱万丈すぎるユキオの夏休みの最終戦が幕を開けるのであった。
【クロマルハナバチの召喚】
「さあ、こうしちゃいられないんだ……ッ!」
玄関に這いつくばったまま、息も絶え絶えのユキオは、立ち上がって顔を上げた。その目は、疲労困憊でありながらも奇妙な使命感に燃えている。
実は、高校の夏休みの課題なら、だいたい終わっているのだ。久美子さんの古民家で、里山有機農業の記録、詳細な気候データ、美しい里山の風景写真などを大量に譲り受けてきた。レポートの初期稿はすでに、スマホの中のドキュメントにきれいにまとめてある。
ユキオがこれほどまでに血眼になって急いでいる真の理由、それは――あと「364日」しか猶予がない、超難関の宇宙資格『恒星域観測士試験』に向けて、一刻も早く学習を進めなければならないからだった。
階段を這い上がり、二階にある自分の部屋に入った。戸を閉めてリュックの中から銀色の箱を取り出す。
「ふぅ……。なんとか銀色の箱(分子共鳴転移装置)を運び込むことには成功した。さて、ここからだ」
部屋のドアを閉め、ユキオは作戦を練る。
この箱からは、邑人から借り受けた勉強のサポート役を呼び出すことができるのだが、選択肢が問題だった。
「ミェリナを出すか? それともツェンドリカ……いや、ダメだ」
二人とも人間体になると、どう見ても日本人には見えない。もし万が一、母親に見つかったら、説明が面倒くさすぎる。
その点、「クロ」なら、万が一見られても「学校の友人(地味めな同級生)だよ」と言ってごまかせるはずだ。
ユキオは銀色の箱を、まるで秘宝を扱うように両手に捧げ持った。
「クロを召喚。……衣装は、学生っぽい感じで!」
頭の中で強く念じると、カチリと音がする。
その後は、完全な無音のまま、銀色の箱の蓋が滑るように開いた。
シュアァァァ……と、部屋の中に幻想的な光の粒子が明滅し始める。SF映画のホログラムのような光の乱舞。その光が中央に収束し、物質として実体化していく――。
光が消え去ったそこに立っていたのは、どこからどう見ても日本のどこかにいそうなセーラー服姿の女子高生、クロだった。
「やっほー、生態系事業の見習いさん」
クロはのんびりとした口調で手を振った。外見は素朴な女子高生だが、その正体は「マルハナバチ」の群体であり、三畳紀からなんとなくムラ社会を運営して生き残ってきた老舗事業主(女王)である。
ユキオは彼女が召喚されるやいなや、すかさずポケットから「あるモノ」を取り出した。
「クロ、甘いものが好きなんだろ? ほら、これでも舐めて」
帰りがけにコンビニで仕込んできた、棒付きのポップキャンディーだ。
クロの目が、途端にハチミツを見つけた時のようにキラリと輝いた。
「わあ、なにこれ!」
器用にペリペリと包装を取って、キャンディーをパクリと口に含む。
その瞬間、クロの顔にじわぁぁっと至福の、とろけるような満足げな笑顔が広がった。
「おいしい……! 鼻に抜けるイチゴの香りと、喉を潤すこの強烈な甘味。人間って、甘味造りの変態さんね……。あ、これ最大級の褒め言葉だから」
「変態って言うなよ。人間の製菓事業の努力の結晶だぞ!」
ユキオは苦笑しつつも、懐柔作戦の成功に胸をなでおろす。蜜も花粉も貯えずにすぐ食べてしまう計画性ゼロのクロだが、この甘味の誘惑があれば、恒星観測士の勉強にも付き合ってくれるに違いない。
こうして、厨子市の平凡な一軒家の二階で、高校生と「女子高生の姿をしたマルハナバチの女王」による、世にも奇妙でファンタスティックな受験勉強がスタートするのだった。




