4.妹を守る。ラノベなら常識だろ
《写し》を初めて意図的に使ったのは、帰り道だった。
路地を歩いていたとき、足元を野良猫がよぎった。なんとなく右手を伸ばしたら、指先が淡く光って——猫の背中に、ふわっと何かが触れた。
次の瞬間、石畳の感触が全身に流れ込んできた。冷たくて、でこぼこしていて、爪の間に砂が入る感じ。視界が低くなって、匂いが鋭くなって、風の方向がわかる。
猫の感覚だ。
「…………」
猫が走り去ると同時に、全部消えた。俺はしばらく自分の手を見ていた。
「なに突っ立ってるの」
ナツが三歩先で振り返っている。
「《写し》、使えた」
ナツの目が少し丸くなった。それからすぐ元に戻って、「そう」とだけ言った。でも歩き出すまでに、一瞬だけ間があった。
◆ ◆ ◆
翌日、一人で街をぶらついていたときだ。
「よ、ファンザ!」
背後から声がかかったと思ったら、右腕に何かが絡みついた。
正確には、誰かが。
気づいたら腕を組まれていた。肩に寄りかかるような体勢で、柔らかい感触が腕に当たっていて——俺は完全に固まった。
「生きてたじゃん! 心配したんだけど!」
声の主は、ショートカットの少女だった。活発そうな目が俺をまっすぐ見上げている。名前はリコ。ファンザの幼馴染で、よく一緒に依頼をこなしていたらしい——街の人から聞いた話だ。
いつもは男友達みたいなノリで絡んでくる子、だとも聞いていた。
なるほど確かに、そういうノリだ。腕を組むことへの迷いが一切ない。
でも俺は山田健二だ。二十年間一人っ子で育った、女慣れとは程遠い男だ。
「あ、いや、その——」
「どした? なんか顔赤くない?」
リコが首を傾けて、顔を覗き込んでくる。距離が近い。腕がまだ絡まったままで、体の距離が全体的に近い。
「……ちょっと、近い」
「え? いつもこんな感じじゃん」
「いや、それは——」
「……あれ」
リコが動きを止めた。俺の顔を見て、自分の腕を見て、また俺の顔を見た。
それから、ゆっくりと腕を離した。
頬が、うっすらと赤い。
「……なんか、そういうノリで来られると、私の方まで照れるんだけど」
「そっちが絡んできたんだろ」
「わかってるけど!」
リコが自分の胸の前で腕を組みなおした。目が泳いでいる。
「……ファンザ、なんか変わった?」
「記憶がちょっとない」
「あー、聞いた。でも——記憶なくても、私のことは覚えといてよ。リコ。幼馴染」
「……覚えた」
「よし」
にっ、と笑った。さっきの照れが引っ込んで、またいつものリコに戻りかけた。
その瞬間。
「おにい!!!」
雷みたいな声が降ってきた。
振り返ったら、ナツが路地の角に立っていた。目が完全に据わっている。手がすでに構えている。
「な、ナツ——」
「《ファイアボール》」
「待て待て待て!!」
火球が耳元をかすめた。背後の壁が焦げた。リコが「うわっ」と飛びのいた。
「おにいのくせに! 女の人と腕組んでるとかどういうこと!!」
「腕組んできたのはリコで——」
「どっちでもいい!!」
「ナツちゃん落ち着いて! 私が絡んだだけだから!」とリコが割って入ったが、「リコも悪い!!」と一緒に怒られていた。
リコが耳打ちしてくる。「妹ちゃん、前よりパワーアップしてない?」
「パワーアップしてんのかよ!」
「《ファイアボール》!」
「だから待て!!」
◆ ◆ ◆
そのときだった。
地面が、揺れた。
一度じゃない。二度、三度——規則的に、重く、地鳴りが続く。
ナツの手が止まった。リコの表情が変わった。俺も石畳の振動を足の裏で感じながら、空を見上げた。
城壁の向こうから、それが現れた。
巨大だった。ざっと見て、城壁の高さを優に超えている。四本足で、体表が黒い鱗に覆われていて、頭部から二本の角が伸びている。口を開けるたびに熱気が波のように押し寄せて、石畳が罅割れた。
「魔物だ」とリコが低い声で言った。「あのサイズ、Aランク以上——っていうか、あれ、《ヴァルガ》じゃ」
「ヴァルガ?」
「帝国の北域にいる上位魔獣。こんな街中に出るはずない種類。何かに誘導されたか——」
街の人間が悲鳴を上げて走り出した。露店が倒れ、子どもの泣き声が響いた。
俺は振り返った。ナツを見た。リコを見た。
「逃げろ」
二人が、同時に俺を見た。
「は?」とナツ。
「二人は下がれ。俺が時間を稼ぐ。逃げろ」
沈黙。
一秒。
二秒。
「……またおにいが無茶して!!」
ナツが声を荒げた。俺への怒りと、あの巨体への恐怖が、ぐちゃぐちゃに混ざったような顔だ。
「無茶じゃない。俺はBランクで——」
「あれはAランク以上って今リコが言ったでしょ!!」
「だから二人には危ない。なのに一緒に戦わせるわけにはいかない」
「なんで! なんでおにいだけ!」
俺は、少し黙った。
なんで、か。
うまく言えない。でも体が先に答えを知っている気がした。
「……俺は妹とか、そういうのよくわかんねーけど」
ナツの目が、わずかに揺れた。
「けど。お兄は、妹を守るもんだろ」
「…………」
「俺の読んでたラノベの主人公は、少なくとも全員そうだった」
ナツが、口を開けたまま固まった。
「な、何言って——」
「いいから下がれ。《写し》で止める」
俺は前に出た。
ヴァルガが、こちらに向いた。
◆ ◆ ◆
《写し》を叩き込んだ。
ヴァルガの体表に触れるように魔力を飛ばして、感覚を写し取る——そして自分の感覚をヴァルガに流し込んで、攪乱する。視界をひっくり返す。平衡感覚を狂わせる。
効いた。
一瞬だけ、効いた。
ヴァルガがよろめいて、頭を振った。だが次の瞬間、魔力の壁みたいなものが俺の《写し》を弾き飛ばした。跳ね返った魔力が腕に叩きつけられて、俺は膝をついた。
「くっ——」
ランクが違う。単純に、格が違う。《写し》が通じる相手じゃない。
「やっぱり無理じゃん!!」
ナツの声が後ろから飛んできた。
「下がってろって言ったろ!」
「うるさい!!」
ナツが並んできた。両手を構えて、目が怒っている。怖いくせに、逃げていない。
「《ファイアボール》!!」
でかい火球が飛んだ。ヴァルガの側面に直撃して、鱗が数枚吹き飛んだ。
「効いてるじゃないか」
「鱗の下は柔らかいの! 弱点! でも届く距離に近づいたら——」
ヴァルガの尾が薙いだ。
俺は飛び退いた。ナツは——間に合わなかった。
尾の先端がナツの脇腹を直撃した。鈍い音がして、ナツの体が石畳を転がった。
「ナツ!!!!」
叫んで駆け寄った。ナツは顔を歪めて起き上がろうとしていたが、腕に力が入っていない。
「立て、ナツ——」
「……ごめ、」
ナツの目が、閉じかけた。
「ナツ!」
「私が!」
リコが滑り込んできた。ナツを抱えて、確認するように体を見る。
「骨はいってないけど内臓にきてる。動かしたくない——ファンザ、逃げよう」
「逃げ——」
「今リューネにAランク戦士はいない! ギルドマスターも遠征中! あれ相手に私たちじゃ話にならない、逃げるしかない!」
リコの目が真剣だ。間違ったことは言っていない。
俺はヴァルガを見た。また石畳を踏みしめながら、こちらに向かってくる。
「……ファンザ」
「わかってる」
「早く——」
「わかってる、って言った」
俺はリコを見た。
「リコ、ナツを頼む」
「は?」
「俺は残る」
リコが絶句した。
「何言ってんの!? 早く——」
「もしかしたらこれ、夢かもしれないし」
「……は?」
「別に一回死んでるから、怖くない」
リコが、俺を見た。意味がわからない、という顔と、でもこいつは本気だという顔が、同時に浮かんでいた。
「……何言ってんの、あんた」
「わからなくていい。ナツを頼む」
リコはしばらく俺を見ていた。それから舌打ちして、ナツを抱え直した。
「——絶対に死ぬな」
「努力する」
リコが路地に駆け込んでいった。ナツを抱えたまま、一度だけ振り返った。その目が、何かを言いかけて、言わなかった。
俺は前を向いた。
ヴァルガが、口を開けた。熱気が押し寄せる。
◆ ◆ ◆
正面から行った。
《写し》を撃ちながら間合いを詰める。弾かれる。また撃つ。また弾かれる。
でも気づいたことがある。
弾くたびに、ヴァルガの動きが一瞬だけ止まる。
《写し》を処理するのに、魔力を使っているんだ。
攻撃にはならない。でも——隙は作れる。
その隙に踏み込んで、石を拾って鱗の隙間に叩き込む。ヴァルガが頭を振る。その勢いで俺が吹き飛ぶ。石畳に叩きつけられる。立つ。また行く。
消耗戦だ。どう考えても俺が先に尽きる。
わかっていても、足が止まらなかった。
「……やめとけ」
低い声が、横から聞こえた。
路地の陰から、黒いローブの男が出てきた。前髪が目にかかっている。
「ヤノミソ」
「一人でやることじゃない」
ヤノミソが前に出た。両手に魔力を練り上げて——構えが、綺麗だった。無駄がない。こいつ、やれる。
ヴァルガに向かって、鋭い魔法の刃を放った。
一直線に飛んで——ヴァルガの鱗に当たって、きれいに弾かれた。
ヤノミソが吹き飛んだ。
壁に激突した。
「……ヤノミソ!?」
「……問題ない」
立ち上がってきた。服が破れている。でも表情は変わっていない。
「……すまんヤノミソ。今の、全力か?」
「……俺はDランクだ」
「え」
俺は二秒ほど沈黙した。
「……なんでここにいるんだよ」
「お前が死にそうだったから」
それだけ言って、ヤノミソはまた構えた。ヴァルガがこちらに向いた。
「俺は囮になれる。しぶとさだけが取り柄だ」
「…………」
「お前が《写し》で何かしろ。俺には考えつかない」
俺は右手を見た。
《写し》。攻撃にならない魔法。でも——隙を作れる。感覚を写せる。状態を写せる。
状態を、写せる。
俺は考えた。三秒、考えた。
「ヤノミソ」
「なんだ」
「お前のダメージ、俺に写せるか?」
ヤノミソが俺を見た。初めて表情が動いた気がした。
「……《写し》でそれができるのか」
「やってみる。お前はとにかく当たり続けてくれ。俺がお前のダメージを受け取る。それをヴァルガに写す」
「お前が死ぬ」
「いやお前こそ下手したら死ぬだろ」
間があった。
「……好きにしろ」
ヤノミソが飛び出した。
正面から突っ込んで、魔法を撃って、弾かれて、でも立ち上がって、また突っ込む。Dランクとは思えない根性だ。
俺はヤノミソに《写し》を繋いだ。
ヤノミソへのダメージが俺に流れ込んでくる。痛いなんてもんじゃない。腕が軋む感覚、肋骨に響く感覚、全部来る。でも——ヴァルガはヤノミソを追い続けている。
俺はその隙に、回り込んだ。
鱗の隙間。ナツのファイアボールが吹き飛ばした部分。そこの下は柔らかい、とナツが言っていた。
そこに《写し》を叩き込む。
今度は攪乱じゃない。俺の感じた激痛を、ヴァルガ自身に写す。
体の内側に流れる熱源を、傷口に直接集める。
ヴァルガが、初めて悲鳴に近い声を上げた。
内側から焼かれている。自分の熱で、自分が燃えている。
俺はそのまま《写し》を押し込んだ。腕が震える。ヤノミソへのダメージが同時に流れ込んでくる。視界がぐらつく。
でも、止めない。
ヴァルガの動きが鈍った。足がもつれた。巨体が、ゆっくりと傾いた。
そして——どうっ、と石畳に崩れ落ちた。
地響きが街に広がった。
俺は膝をつき、追いかけるように身体の表側すべてを地に突っ伏した。「ぐぅっ……」腕が痛い。肋骨が痛い。足が痛い。全部、ヤノミソのダメージだ。
「終わったか」
ヤノミソが隣に立っていた。服がぼろぼろで、額から血が出ている。でも表情は変わっていない。
「……なんとか」
「よく効いたな写し。てっきり弾かれるとーーー
「ナツが弱点教えてくれてた」
「……そうか」
ヤノミソはそれだけ言って、壁にもたれた。
俺も軋む身体を無理やりふるわせ、石畳に座り込んだ。
空が夕暮れ色に変わり始めていた。ヴァルガの巨体が、静かに横たわっている。煙が細く上がっている。
どこかで、ナツの声がした気がした。
「……お兄か」
ぼんやり思った。
よくわからない。まだよくわからない。
でも——ラノベの主人公は全員、妹を守っていた。
それだけは、確かに覚えている。




