永い終焉の始まりの日⋯⋯夏休み八月 三二日 二一時 二〇分
「被曝?」
とりかえしのつかない被曝。
デブとモジャを、与魅子はチラ見した。原子力発電所の勇者のごとく、二人とも今は元気に見えた。
「[放射能が神経細胞を、……素粒子とはまったく異なるものですが、ある種のエネルギーが結界内には満ちております。エネルギーは神経細胞を刺激し、眠れる機能を呼び覚まします。普通の人間の意識では、これに耐えられないのです]」
「やっぱり、つまり頭がおかしくなる感じですか?」
「[さようでございます]」
「なるほど……市ヶ谷って、自衛隊とかの巣窟ですよね?」
「[はい。機動隊の拠点もありますので、小型の銃で武装した数百人が発狂して暴れ出る、とお考えください]」
「な、なるほど……迎えに来ていただけませんか?」
「[難しい情勢です]」
「仁香さんに代わっていただけませんか?」
「[お待ちください]」
「降天そん、これ」
隣に立つ美沙希が予備のタブレット端末を見せた。先進視聴覚芸術同好会の会員として、こうした装備品は充実しているのだ。
画面には航空機の視界で、都市の夜景が映っている。照明された建造物の平野に、爆撃されたような闇色の穴が何個もあった。
「すっげえ暗くなってる。ハッキリわかんだね」
「さすが副会長、よく見つけた」
「バッチリじゃーん」
北隣でまだ照明されている東京ドームと比較してみれば、暗黒のマラム結界(仮称)は巨大だった。ナイアガラの滝となって流れ落ちる霧は、マラム結界が『窪んでいる』のではなく、地面から『膨らんでいる』ことを示している。
数は六。おおまかな直径は一〇〇〇メートル。球体であるなら、高さは数百メートル。マラム結界に囲まれた江戸城は霧溜まりと化し、後楽園も元赤坂も明治神宮の東公園も、そうなりかけている。
「これって生?」
「生配信タグついてる」
「[こんばんは。与魅子さん]」
与魅子が耳に当てていた美沙希の利口電話から、落ち着いた女の声が言った。
涅黎財閥の次期総帥、涅黎 仁香。
小学生の頃から銭転がしにいそしみ、資本家として早くも成功を収めたチー転なろう女。その現有資産は三〇億とも一〇〇億円とも囁かれる。涅黎パパが「自らあくせく働くチー転なろう女など二流!」ということで資産運用もまかせられる有能な腹心をつけてくれたのだとしても、そうした人物を惹きつけておける魅力が仁香には確かにあった。有象無象にちやほやされながら信奉者に勤労奉仕もさせてこそ、一流のチー転なろま~ん。
そして三〇億円は仁香個人の資産額にすぎず、涅黎家全体の資産は桁がいくつか増える。
財閥総資産は兆の桁であろう涅黎家は、しかし、奇妙なまでに血縁者が少ない。仁香には兄弟姉妹も従兄弟姉妹もいない。涅黎パパも一人っ子で、嫁入りしたママもそうらしい。
涅黎ジジ(パパのパパ)には同世代の近しい親戚が何人かいる。
涅黎ジジのパパ(仁香の曾祖父)が、敗戦の焼け野原で財閥を興した初代総帥だ。
涅黎ママは一〇年以上前に死去。葬儀は故郷のアメリカ合衆国 アイダホ州で内々におこなわれた。
涅黎ママの両親(仁香の母方祖父母)は消息不明。アイダホの大自然にポツンと建つ実家は、葬儀から数年後の調査時には無人となっていた。私立探偵の調査では、涅黎ママの他の親戚については行方を追えなかった。ブラッドフォード家の人々は多くが故郷を去り、改名したらしい。
涅黎ババ(パパのママ)も外人で、三〇年前の震災により行方不明。
仁香に異母(パパの後妻とか)弟妹、傍流のオジ・オバがいるとしても、涅黎本家の存命者はたった数人。一世代後には衰滅する降天家と、人数だけなら良い勝負だ。
これらは、与魅子が仁香に聞きほじって得た情報ではない。『涅黎 秘密』『涅黎財閥 一族』『涅黎財閥 事件 闇』『涅黎家 死因』といった直接的検索では出てこない暗号化アングラサイトを、もちろん自宅回線ではなくフリースポットから辿り、拾った資料に記されていたことだ。
資料の著者または編集者はアノンQ億人。『生きて帰れないかもしれないから、ここにアンデッド一族の資料を置く』。とのコメをつけて、六年前にウプっていた。彼のカキコは、それが最後だった。
「[ごきげんよう。とは申しづらい日和になってしまいましたが、あなたの仁香に、なんの御用でしょう?]」
「秋葉原にいるんですけど」
与魅子は邪悪な同級生に答えた。
仁香もその執事も、今日の東京でおきた異常事態についてあれこれを知っている。二二年と三五五日前、ニューヨークでなにがおきるかを少なからぬ投機屋が事前に知っていたようにだ。
「権力のクソ奴隷どもが下劣な本性モロ出しにして襲ってくるらしくて困ってるんです(オタ特有の早口)。なんとかしてね! すぐでいいよ!」
「ちょっおい、降天そん?」
「[それは困りましたね]」
仁香は頬笑みを湛えているかのような口調で、優雅に応じた。
「[わかりました。避難所を開きましょう]」
「避難所? できれば秋葉原から、歩いていける距離でオナシャス」
「[出入口は駅から一キロもありません]」
「避難所って言った? ……ああー、消える。電気ついてく」
一つだけ少し離れたところにあるマラム結界が光を通し始めた。
秋葉原駅の西、電気は通っている御茶ノ水学園街と神保町。
この一〇〇〇メートルを隔てて直径一〇〇〇メートルの暗黒円。靖国神社や日本武道館がある区画だ。どちらも与魅子は行ったことがないし、興味もない。
さらに二〇〇~三〇〇メートルを隔てた南西に、市ヶ谷結界なのだろうもう一つの暗黒円。その秋葉原から遠いほうが、津波が引くように収縮しつつある。
二つのマラム結界に挟まれ、ひときわ高く滞留していた霧が雪崩れ落ちる。
希薄な水蒸気にすぎないとしても、飯田橋から四ツ谷にそびえる濃霧はロサンゼルスのスカイラインより大きい。消える結界を追って、霧雪崩が西側のビル群を吞みこむ。
新宿方面にいる、画像平滑化ゴミのような人ゴミがモゾモゾと動く。自動車が一ドットか二ドットの大きさだった。
「スペクタクルってるお」
「希薄な霧……それを通さないだけの密度や気圧がマラム結界にはある。……実体はない、エネルギー? 光を完全にさえぎる力場?」
「[……さて、道案内の地図を送りましょう]」
「どんな機械で、そんな……? 役所はともかく、東京駅に大規模な秘密工作をどうやって」
「[……]」
「……仁香さん。ビルの爆破解体を飛行機の仕業だと言い張るだけの薄らボケどもに、マラム結界を作れるとは思えない」
「[マラム?]」
違うの? あのチー牛、自信満々に言いやがって。
「今、消されたあれです。あれ」
与魅子はタブレットの全画面表示を通常表示に戻した。
航空機からの生配信は他に見当たらない。ここもネオソビエトが投稿した仁香のサイト、脳缶天国だった。
「[市ヶ谷のことですか]」
自衛隊と在日アメリカ軍は、横須賀港につづけて厚木・横田・入間などの空軍基地を焼かれた。民間人からの大量報告で、これは世界全域にバレてしまっている。ジェット機やヘリコプターの墜落を伝える動画投稿は、諸サイトの最新層を埋めつくす勢いだった。
「アメリカの最精鋭部隊がUFOの力場みたいな結界を解除したとか?」
「[そのようですね。マラム結……、界とは?]」
「あっそれはスルーでいいです、すません」
ネオソビエトのUFOは、ロサンゼルスへ行ったあれ一隻とは限らない。テレビ屋はヘリコプターを飛ばしていないし、軍隊も鳴りを潜めていた。
覚将とショタコン氏も、「日本とアメリカは何十機も落とされて、ミサイル艦も失った。関東の制空権をUFOに奪われた状態だ」と言う。
UFOの出現場所については、やはりこれも目撃報告がたくさんあるのだが、UFO本体の映像つきは数件。真贋を判定できない単独映像は除外して、横浜都心が多数、東京湾北部が複数、荒川岸にある謎の廃墟も複数。この三ヵ所は、それぞれ録画された時刻が一致していた。覚将調べ。
「[我が家は軍産複合体などに友人がございまして、そうした情報も入るのです]」
仁香は与魅子の望みどおり華麗にスルーして説明した。
「[次の結界をアメリカ軍が襲う可能性もあります。お急ぎになるほうがよろしいでしょう]」
「ありがとう、そうします……これ?」
「これ」
美沙希が自分で操作したタブレットに、サイトのメールと添付地図を表示していた。神田川沿いの一区画に矢印。なにかの暗証番号らしい数字記号列。物部氏が送ってくれたのだろう。
「[地図で示した場所に、石門閣という名前のビルがあります。避難所へは奥の業務用エレベーターより]」
「地下ですか?」
「[はい。古い雑居ビルで、ほぼ無人ですから、そのままお入りください……エレベーターの使いかたは御存じと思います]」
「? ええ、知ってます」
「[異世界へ行こうとしてはなりません]」
「なるほど、そうですね」
数字と記号の意味がわかった与魅子は、笑って答えた。
「[懐中電灯をお忘れなく。秋葉原避難所は未完成で、設備が動くかわかりません。不便ならば車道や鉄道を東へ、ネオ東京と書いてある方向へ向かわれるとよいでしょう]」
「ネオ東京?」
「[一九六〇年代に構想されたアクアラインです。我々が作った実物は、東京湾の秘密基地になってしまったのですが]」
「……基地? アーミーがいたりとかは?」
「[秋葉原の北側、荒川方向にはいます……そちらは侵入を咎められるでしょうね]」
荒川の謎廃墟。ネオ東京。そして横浜都心。この三ヵ所は、アノンQ億人が自スレでこだわっていた場所だった。




