06. お掃除
フローラ様が町の視察に出ておられる頃。
私は主のいない部屋で、いつものようにお掃除をしていました。
窓を開けると、朝よりも少し温もりを増した風が、レースのカーテンをふわりと膨らませます。
花瓶の白い花は、一晩のうちに花びらの端がわずかに色褪せていました。
古い水を捨て、冷たい水に替えて、悪くなった花びらをそっと摘みます。
ぷちん、という小さな音とともに、部屋に生花の青い匂いが立ちのぼりました。
棚の上のほこりを、柔らかな羽根のはたきで絡め取っていきます。
フローラ様が幼い頃に集めた硝子細工の小鳥、旅先の土産だという小さな貝殻の小箱。
ひとつずつ持ち上げては拭いて、もとの位置へ戻す。
ほんの少し角度を違えただけで、あの方は気づいてしまわれるので、しっかり元通りにします。
鏡台の鏡を、乾いた布で磨きました。
ついさっきまで、この鏡の中で、あの方の髪を梳いていたのです。
鏡面に映る自分の顔は、ひどく強張っています。
私は目を逸らすように、布を動かす手を速めました。
そうして、ひとつずつ片づけていって、最後にひとつだけ残りました。
――寝台です。
今日はそれを、ずっと後回しにしていました。
他のことは問題なくできるのに、そこだけがなんとなく手をつけられなかったのです。
観念して長い息を吐き、乱れたままのシーツを剥がします。
皺の寄ったそれを抱えて、洗濯籠へ。
そして別の籠から新しいシーツを取り出し、ばさりと広げました。
糊のきいた真っ白な布が、空気を孕んで大きく膨らみ、ゆっくりと寝台の上に降りていきます。
端を引いて、四隅を折り込み、掌で皺を伸ばしていく。
幾度となく繰り返してきた作業です。
けれど、白い布の上に掌を滑らせた途端、手が止まりました。
今朝はあの白い布の上に、フローラ様がいたのです。
淡い髪が広がって、透明な瞳が、まっすぐ私を見上げていました。
腕の中の柔らかな身体。
花の香り。
指先に触れた頬のひんやりとした感触。
そして、重ねた唇の——。
「っ……」
私は思わず、シーツの上で手を握りしめました。顔が、耳の先まで一気に熱くなります。
なんで、あんなことをしてしまったのでしょう。
あの方は、私の主です。
五歳のときから仕えてきた、大切な、何よりも大切な主人。
その方を組み敷いて、抱きしめて、あまつさえ、唇を――。
「なんで、わたし……っ」
主人に恋心を抱くなんて、メイド失格です。
きっと私は解任されるでしょう。
――いいえ、わかりません。
フローラ様はあの後、何事もなかったかのようにお過ごしになられている。
あのことはなかったことにするおつもりなのかもしれません。
フローラ様はお優しい方ですから、私に情けをかける可能性はあります。
けれど――そうであるならば、私は自ら身を引くべきなのではないでしょうか。
フローラ様も、自分によからぬ想いを抱いているものを側に置いておくと、落ち着かないでしょうから。
「……あ、うぅ……っ」
寝台の縁に手をついたまま、私は頭の中で何度も同じ考えを巡らせました。
今すぐに辞職願を書く。
荷物をまとめる。
そしてこの城を――いや、この国を出ていく。
そうすればフローラ様は、新しい専属メイドを迎えて、元通りの穏やかな日々を過ごされることでしょう。
――新しい、専属メイド。
これからはその人が、あの髪を梳くのでしょうか。
あの背中の紐を結んで、あの足に靴を履かせて――。
喉の奥で、ひゅっと嫌な音が鳴りました。
息ができなくなって、寝台のそばにすとんとしゃがみ込みます。
シーツを握りしめた指が、白くなっていました。
「いや、です……っ」
五歳の頃から、ずっとそばにいました。
髪を梳くことも。
服を整えることも。
湯浴みの介添えも、熱を出された夜の看病も。
毎日の暮らしのすべてを、私が支えてきました。
眠たげに寝台の上で欠伸をなさる姿も、紅茶の湯気に目を細める横顔も、他の誰にも見せない無防備な顔も、全部、私が――私だけが知っています。
それを手放すなんて、本当は、考えられません。
でも、それでも。もう私は、ここにいてはいけないのです。
――私だけのフローラ様でいてほしい。
気づいてしまった、抱くことは決して許されない、呪いのような感情。
それが、私の居場所に、確かな亀裂を生んでいました。




