05. お返事
そっと唇を離すと、フローラ様が瞼を持ち上げました。
透き通った瞳が、まっすぐに私を見ています。
「あ……」
叱られる――そう思いました。
当然です。メイドの分際で、主人を組み敷くだけでは飽き足らず、唇までも。
興奮していた頭の熱が一気に引くと同時に、手の先が冷たくなっていきます。
「フローラ様、私……っ」
「……それがあなたの気持ち?」
問う声は、驚くほど静かでした。
「…………はい」
絞り出すように答えると、フローラ様は一度だけ、ゆっくりと瞬きをされました。
「そう。わかったわ」
フローラ様のお返事は、たったそれだけでした。
声の調子も、いつもと何も変わりません。
フローラ様の声に乗るどんな感情も、聞き分ける自信がありました。
けれど、怒りも、戸惑いも――どこにもありませんでした。
ただ、私の言葉をそのまま受け取ったのだという事実だけが、そこにありました。
どうしたらいいのかわからず、私は固まってしまいました。
「……そろそろ降りてくれるかしら? 朝食の時間だから」
「は、はいっ……」
私は慌てて身体を起こし、寝台の縁から降りました。
足が少しもつれます。
フローラ様はそのあとから、ゆっくりと上体を起こされました。
乱れた髪が、肩から零れ落ちます。
「……リサ」
「はい。フローラ様、あの……」
「リサ、髪が乱れてしまったわ。直してくれるかしら」
ごく当たり前の、日常のお願いの声でした。
「……はい、すぐにっ」
私は再び鏡台の前に座ったフローラ様の後ろに立ち、櫛を手に取りました。
さっき整えたばかりの髪を、もう一度梳いていきます。
震える手を必死に動かしました。
さらりと髪がほどける音が、さっきと同じようでいて、まったく違って聞こえました。
私の想いは受け入れられたのでしょうか。
それとも、一時の気の迷いだと流されてしまったのでしょうか。
鏡の中のフローラ様は、いつも通りの静かな顔で、目を閉じていらっしゃいます。
そこからは、何も感じ取れません。
長年そばにいて、どんな小さな変化でもわかると思っていたのに、今は少しもわからないのです。
髪を結い直し、花の髪飾りを留め直すと、フローラ様はそっと目を開けました。
「ありがとう。朝食に行きましょう」
「フローラ様、私は……」
「何かしら?」
振り返った瞳は、あまりにもいつも通りでした。
ああ――私の言葉は、この方には、何も響かなかったのでしょうか。
そう思うと、喉の奥がきゅうと狭くなります。
けれど、それを確かめる言葉は、どうしても口から出てきませんでした。
「……いいえ。何もありません」
私は朝食に向かうフローラ様の後ろで、ただ黙って歩くことしか、できませんでした。
...oо○ ○оo...
朝食の席で、フローラ様はいつも通りにお食事を召し上がっていました。
白磁の皿に並んだ焼きたてのパンと、季節の果実。
王族のみなさまと他愛ない会話を交わしながら、小さく頷かれる。
その仕草のひとつひとつが、いつもと寸分違いません。
私は後ろに控えて、お茶のおかわりの頃合いを見計らい、給仕をします。
ここにあるのは、いつも通りの専属メイドと、いつも通りの姫君でした。
――あれは夢だったのでしょうか。
けれど唇には、まだあの柔らかな感触が残っていました。
...oо○ ○оo...
食事のあと、フローラ様は公務の支度を整え、町の視察へ向かわれました。
私は外套をお掛けし、手袋をお渡しして、玄関の回廊までお供しました。
石造りの回廊には、朝の光が長く伸びていました。
馬車の前で、フローラ様は一度だけ私を振り返られます。
「行ってくるわ、リサ」
「……いってらっしゃいませ、フローラ様」
深く頭を下げると、衣擦れの音が遠ざかり、馬車の扉が閉まる音が続きました。
車輪が石畳を踏み、規則正しい蹄の音が、少しずつ小さくなっていきます。
顔を上げたとき、馬車はもう門の向こうへ消えていました。
回廊には、私ひとりが残されました。
風が吹いて、庭の花々が静かに揺れています。
何も変わらない、穏やかな朝の景色です。
それなのに、私の足元だけが、さっきまでとはまるで違う場所に立っているようでした。
フローラ様はいつも通りだったのに。
自分ひとりだけが、何もかもが変わってしまったように感じる。
私は、そっと自分の唇に指先を当てました。
まだ、あの人の温もりが、ここに残っているのです。




