03. 身支度
すうっと、ネグリジェの胸元の紐を引きます。
肩に手をかければ、薄いネグリジェはふわりとあっけなく床に落ちました。
衣擦れの音が静かな世界にやけに大きく響きます。
肌着のシュミーズだけになったフローラ様の、透き通るように白い肌。
触れたら溶けてしまいそうなほど滑らかなそれは、朝の光の中で神々しくすら感じます。
幾度となく見てきた肢体。
着替えも、湯浴みの介添えですら、この十数年ずっと私の役目でした。
もしフローラ様がご結婚なさったら――この素肌に、自分以外の誰かが触れる日が来るのでしょうか。
そんな考えが頭をよぎった瞬間、指先がわずかに強張りました。
「……コルセットをお着せいたします」
フローラ様の後ろから、コルセットを身体に回します。
フローラ様は何も言わず、いつものように腕をわずかに上げました。
私の指の震えは伝わっていないようです。
柔らかな髪を片側へ寄せると、ふわりと立ち上る花の香り。
フローラ様が好んで使われるヘアオイルの匂いです。
甘すぎず、どこか涼しい――この香りを誰よりも慣れ親しんでいるのは、きっと私でしょう。
背中の紐を一本ずつ通し、ゆっくりと引き絞っていきます。
「苦しくはありませんか」
「問題ないわ」
目の前で静かに上下する、しなやかな背骨の線。
フローラ様の呼吸に合わせて、紐の張りが微かに変わります。
それを感じ取りながら、結びを整えていきます。
幾度となく繰り返してきた動作。
何も考えなくても、紐の先がどちらにあるのか、通す穴がどこにあるのか、身体が覚えています。
それゆえに、思考が分散していきます。
フローラ様がご結婚なさるのなら、いつか式が挙げられるのでしょう。
純白のウェディングドレスを、私がこの手で着せて、髪を結って整える。
それは誰のためなのか。
フローラ様と――この方の伴侶になる、まだ知らない誰かのために。
想像した瞬間、胃の底から何か冷たいものが逆流してくるような感覚がありました。
私は気づかれないよう、静かに唾を飲み込みます。
落ち着きなさい――そう、自分に言い聞かせます。
フローラ様がどこか遠くへ行ってしまうわけではありません。
フローラ様は、いずれこの国の女王となられる御方なのですから。
現女王陛下にも、幼少期からずっと同じ専属メイドが仕えています。
女王様がお妃様を迎えたときも、その関係は変わりませんでした。
だから私も、きっとそうなるでしょう。
そう、理解は、しているのです。
そんな思考をなんとか落ち着かせながら、コルセットの紐をきゅっと結びました。
「……フローラ様、こちらに脚を」
淡い色の布を広げ、足元を通していただき、身体に合わせて引き上げます。
幾重にも重なったスカートが、水を含んだ花びらのようにふわりと揺れ、ゆっくりと落ち着いていきます。
ひらりとした袖に腕を通し、背中の小さな留め具を、上から順に留めていきました。
ひとつ、ふたつ。
小さな金具が噛み合うたび、ドレスがフローラ様の身体のかたちになっていきます。
フローラ様は、感情をあまり表に出されません。
嬉しいときも、少し困っているときも、顔色はほとんど変わらない。
けれど、わずかな違いはあります。
目を伏せる長さや、息の吐き方。
声の高さがほんの少し変わること。
眠いときは瞬きがゆっくりになり、機嫌のいいときは、指先が裾を軽く弄ぶこと。
私にはそれらが全てわかります。
けれど――これから伴侶になる方は、果たしてそれをわかってくださるのでしょうか。
何も言わないフローラ様が、何も感じていないと誤解されたりしないでしょうか。
寂しいときに寂しいと声に出して言わないから、気づいてもらえないかもしれません。
そんなことを思うと、いてもたってもいられない気持ちになってしまうのです。
私の勝手な想像なのに。
これは、フローラ様のことを思ってこそ、心配しているだけの思考なのです。
そのはずなのに――なぜでしょうか。
よき伴侶を迎えたフローラ様を想像しても、胸のざわめきが消えません。
私はそれに気づかなかったことにするように、最後の留め具を留めました。
「お髪を整えますね」
鏡台の前に座っていただき、櫛を手に取ります。
淡い髪の束を掬うと、絹糸のように指のあいだをすり抜けていきました。
根本から毛先まで、ゆっくりと梳いていきます。
さらりと髪が解けていく音だけが、部屋に満ちていました。
鏡の中のフローラ様は、目を閉じて、されるがままになっています。
私を信頼しきった、無防備な顔。
この顔を、知らない誰かも、いつか見るのでしょうか。
櫛の動きが、ほんのわずかに乱れました。
(いけません。集中、集中……)
髪を整え終えると、小さな白い花を象った髪飾りを、耳の上あたりに留めます。
銀の細工が朝の光を受けて、花びらとともに淡くきらめきました。
「お靴をどうぞ」
最後に、足元に跪いて、靴を手に取ります。
花の意匠で飾られた、上品なやわらかい革の靴。
足首を支えて、そっと足先を滑り込ませます。
留め具を留めて、もう片方も同じように。
顔を上げれば、長いドレスのスカートの向こうで、フローラ様がこちらを見下ろしていらっしゃいました。




