エピローグ
決着がついたのは、その夜のことだった。
フードの人物の情報通り、ヴェルナー家の術師は複数の方向から同時に魔獣を送り込んできた。北と南と東、三方向から同時だった。規模は昨夜よりも大きく、衛兵たちが対処できる限界を超えていた。
しかし俺たちには、準備があった。
セラが北の方向で詠唱を始めた。俺が三方向を順番に処理した。南、東、北。普段より少しだけ出力を上げた。それでも、本気とは程遠い。川から水を両手で掬う程度だ。
十五分ほどで、三方向の魔獣は全て消えた。
街が静かになった。
衛兵の隊長が呆然とした顔で近づいてきた。
「せ、セラ様……三方向を同時に……」
「問題ありません」とセラは言った。涼しい顔だった。「これで終わりのはずです」
終わり、というのはその通りだった。
翌朝、ヴェルナー家から使者が来た。内容は、魔獣に関する一切の関与を否定する声明と、ガーランド家との交渉再開の申し出だった。直接的な手段が通じないと判断して、路線を変えたのだろう。
侯爵が俺たちに報告に来たとき、その顔には安堵の色があった。
「……本当に、ありがとうございました」と侯爵は言った。「セラ様がいなければ、この街はどうなっていたか」
「依頼を受けた以上、やり遂げるのは当然です」とセラは言った。「ただ、侯爵。今後は最初から全ての情報を共有してください。それが、依頼をうまく進める上での条件です」
「はい。肝に銘じます」
ヴェルナー家の術師——もう一人の転生者——は、その夜のうちに姿を消したという。フードの人物からの短い伝言が届いた。
「あいつは去った。今は追わない。いずれまた会うだろう」
それだけだった。
カルネスを去る日の朝、街の人々が宿の前に集まっていた。
特に呼びかけたわけではなかったが、噂が広まったらしい。市場の露天商、酒場の主人、子供たち、老人。昨夜の件が一夜で伝わって、感謝を伝えに来てくれていた。
「セラ様、本当にありがとうございました」と野菜屋の女性が言った。「これでまた、街道が使えるようになりますね」
「使えるようになります」とセラは言った。「ただ、街道が安全になっても、貴族間の争いはまだ続くかもしれません。ガーランド侯爵をよく支えてください」
「はい!」
子供が一人、セラの前に走ってきた。小さな花束を差し出した。
「セラ様、これ」
セラは少し驚いた顔をして、それから屈んで花束を受け取った。
「ありがとう」
子供が嬉しそうに走って戻っていった。
セラは花束を持ったまま、しばらくその場に立っていた。俺はその一歩後ろで、黙って待っていた。
馬車に乗り込む前に、セラが振り返った。
「ヴァン」
「なんだ」
「この花、どうしよう。馬車の中に持っていくのも、なんか」
「持っていけばいい」
「枯れるわよ」
「今だけ持っていればいい」
セラは少し考えてから、花束を胸に抱えて馬車に乗り込んだ。
馬車が動き出した。街の人々が手を振っていた。
セラが窓から手を振った。俺は窓から外を見ていた。
カルネスの街が、ゆっくりと遠ざかっていった。
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帰りの街道は、来たときより明るく感じた。
行きは曇りがちで、馬車の中も重い空気があった。今日は晴れていて、街道の両側の草原が緑に輝いていた。
セラは窓の外を見ながら、膝の上に花束を置いていた。来たときと同じ向かいの座席に座って、同じように窓の外を見ている。でも、来たときとは何かが違った。
「ヴァン」
「なんだ」
「今回の依頼、どうだった?」
「複雑だった」
「そうね」セラは花束を少し持ち直した。「でも、やってよかったと思っている。自分の名前で、自分の判断で動けた」
「そうだな」
「父親への手紙、届いているかしら」
「もう届いているだろう」
「返事が来るかしら」
「来るかもしれないし、来ないかもしれない」
「正直ね」
「怒るかもしれないし、怒らないかもしれない。ただ——」
「ただ?」
「お前が送ったことに意味がある。返事があるかどうかとは、別の話だ」
セラはしばらく俺を見ていた。
「……あなたって、たまに」
「なんだ」
「うまいことを言うのよね」
「そうか」
「褒めているのよ」
「そうか」
セラはため息をついて、また窓の外を見た。
しばらく沈黙が続いた。馬車の車輪が街道を踏む音と、馬の蹄の音が規則正しく続いていた。
「ヴァン」
「なんだ」
「フードの人物——あの人は、どこに行ったと思う?」
「分からない。ただ、また会うような気がする」
「なぜ」
「そういう人間だから。答えを探している人間は、同じ場所に戻ってくる」
「答えって、転生の仕組みのこと?」
「それだけじゃないかもしれない」
「何か他に?」
俺は少し考えた。
「守りたかった相手のこと。それが、まだ片付いていないんじゃないかと思っている」
セラはしばらく黙っていた。
「……そうね」と彼女は静かに言った。「片付いていないことは、人を動かし続けるものよ」
「お前もそうだ」
「私?」
「父親との関係が、まだ片付いていない。だから動き続けている」
セラは少し間を置いた。
「……そうかもしれない」と彼女は認めた。「でも、前より少しだけ、楽になった気がする」
「何が変わった」
「父親のためじゃなく、自分のために動けたから」セラは窓の外を見た。「それだけで、随分違うのよ」
俺は何も言わなかった。
馬車は街道を進み続けた。丘を越えると、遠くにメルガンの街の輪郭が見え始めた。
「あ、見えてきた」とセラが言った。
「そうだな」
「ただいま、って感じがするわね」
「そうか」
「あなたはそう思わないの?」
俺は少し考えた。
「思う」
「珍しいわね。素直に答えるなんて」
「答えを持っていれば答える」
「じゃあ、答えを持っていないことは答えない?」
「そうだ」
「答えを持っていないことって、どんなこと?」
俺はしばらく考えた。
「自分がこれからどこへ向かうのか、とか」
「……それは、私も分からない」とセラは言った。「でも」
「でも?」
「当分は、同じ方向に向かっていると思う」
俺は何も言わなかった。
セラも何も言わなかった。
馬車の窓から、メルガンの城壁が見えてきた。
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街に戻った日の夜、俺は宿の窓から街を眺めていた。
メルガンの夜の街。見慣れた灯りが、一つ一つ点いている。酒場の賑やかな声が遠くに聞こえて、どこかで犬が吠えた。カルネスで過ごした八日間が、もう随分前のことのように感じた。
いや、そんなことはない。まだ昨日のことだ。
ただ、何かが変わった気がした。
俺自身が変わったのか、周りが変わったのか、それとも俺の見え方が変わったのか。うまく言葉にできなかった。
ドアをノックする音がした。
「入っていいか」とセラの声がした。
「開いている」
セラが入ってきた。手に、例の花束を持っていた。カルネスの子供にもらった花束だ。だいぶ萎れていたが、まだ形は保っていた。
「これ、どうしようかと思って」
「水に挿せばいい」
「宿に花瓶なんてないわよ」
「主人に頼めばある」
「……そうね」セラは花束を見た。「捨てたくないのよ。なんか」
「捨てなければいい」
「あなたって、本当にシンプルね」
「複雑に考えても仕方がない」
セラは窓際に来て、俺の隣に立った。街の灯りを眺めた。
「ただいま、って感じがするわ」と彼女は言った。
「行きの馬車でも同じことを言っていた」
「もう一度言いたくなったの」
俺は何も言わなかった。
「ヴァン」
「なんだ」
「次の依頼は、どこかしら」
「まだ分からない」
「でも、また一緒に行くわよね」
「お前が行くところに、俺はついていく」
「それって、契約だから?」
俺は少し考えた。
「最初は契約だった」
「今は?」
「……お前が決めたことなら、ついていきたいと思っている」
セラはしばらく俺を見ていた。
「それって」
「なんだ」
「契約とは、別の話ね」
「そうかもしれない」
セラは窓の外を見た。耳の先が、少し赤くなっていた。
「……まあ、いいわ」と彼女は言った。「明日から、またよろしく」
「分かった」
「敬語を使わなくていいわよ、二人のときは」
「それも前に言っていたな」
「また忘れているの?」
「忘れていない。ただ、言い慣れていない」
セラは少し笑った。
「練習しなさい」
「努力する」
セラは花束を持ったまま、部屋を出ていった。ドアが閉まる前に、一度だけ振り返った。
「おやすみ、ヴァン」
「おやすみ」
ドアが閉まった。
俺は窓の外を見た。
メルガンの夜は、静かだった。ただ、以前の静かさとは、少し違う静かさだった。
——悪くない。
誰に言うでもなく、そう思った。
その夜、遠い本部の一室で、老人が報告書を読んでいた。
白い眉毛の下の目が、細くなった。カルネスからの報告書だ。娘の報告と、もう一人の部下の報告が一緒に届いていた。
「……カルネスで、転生者関連の動きがあったとな」
隣に控えた若い部下が「はい」と答えた。
「セラ・エルヴェインの動向は?」
「引き続き活動中とのことです。カルネスでの依頼を成功させて、メルガンに戻ったと」
「ふむ」老人は報告書をめくった。「転生者リストとの関連は?」
「直接の関連は確認できていませんが、カルネスでの件に転生者が絡んでいた可能性があるとの報告です」
「可能性、か」老人はため息をついた。「相変わらず、娘の報告は歯切れが悪い」
「……はい」
「それと」老人は別の羊皮紙を手に取った。「この従者——ヴァンとやら。また名前が出てきているな」
「はい。カルネスでも、セラ・エルヴェインの従者として同行していたようです」
「従者、か」老人は羊皮紙を見た。「従者にしては、妙に存在感がある。娘の報告にも、もう一人の部下の報告にも、名前が出てくる」
「気になりますか」
「気になる」老人は羊皮紙を置いた。「ただ、従者については証拠がない。今は様子を見るしかない」
「はい」
「娘に伝えよ。引き続きセラ・エルヴェインを追え。そして——」老人は少し間を置いた。「従者についても、記録しておくようにと」
部下が去った後、老人は一人で報告書を眺めていた。
従者、ヴァン。姓はない。素性不明。セラ・エルヴェインの影のように動く人間。
老人の視野の中で、その存在が少しずつ輪郭を持ち始めていた。
しかしまだ、その輪郭は霞んでいた。
——こうして、転生者は今夜も、誰にも気づかれないまま、静かな夜を過ごしていた。




