閑話 転生者、料理する
カルネスから戻って十日ほど経った頃、セラが珍しく食欲をなくした。
体調が悪いわけではなかった。熱もないし、顔色も悪くない。ただ、食堂に下りてきたセラが、出されたスープを一口飲んで、静かに匙を置いた。
「どうした」と俺は聞いた。
「別に」
「食べていない」
「食欲がないだけよ」
セラはお茶だけを飲んで、食堂を出た。
宿の主人が困った顔で俺を見た。
「セラ様、最近あまり召し上がらないんですよ。昨日の夕食も、半分残されて」
「そうか」
「何かお口に合うものがあれば、作るんですが……何がいいか聞いても、特にないとおっしゃるもので」
俺はしばらく考えた。
カルネスでの八日間、かなり消耗していた。身体的にではなく、精神的に。父親への手紙を書いて、侯爵の思惑を見抜いて、ヴェルナー家の脅しを跳ね返して、フードの人物と向き合って。帰ってからも、気を張り続けていたのかもしれない。
それが、食欲という形で出ている。
「厨房を少し借りられるか」と俺は主人に言った。
「え? ヴァン様が料理を?」
「一人暮らしをしていた」
「は、はあ……」主人は少し戸惑った顔をしたが、「どうぞ」と言ってくれた。
俺は市場に向かった。
この世界の市場は、前世のスーパーとは違う。肉は塊で売られていて、野菜は土がついたまま並んでいる。しかし、基本的な食材は前世と大きく変わらない。たまねぎに似た野菜、にんじんに似た根菜、鶏に似た鳥、豚に似た獣の肉。名前は違うが、使い方は同じだ。
俺が選んだのは、鶏に似た鳥の胸肉、たまねぎに似た野菜、にんにくに似た球根、それから香草を数種類。油と、白ワインに似た醸造酒。
この世界には、前世の「醤油」や「みそ」に相当するものがない。しかし、発酵した調味料は存在する。魚を塩漬けにして発酵させたものや、麦を発酵させたペースト状のもの。これを組み合わせれば、それに近い味が出せる。
前世で一人暮らしをしていた頃、料理は手段だった。食べなければ生きていけないから、効率よく、美味しく作る。誰かに教わったわけではない。前世の記憶の中の料理番組や、読んだ本や、試行錯誤の積み重ねだ。
厨房を借りて、作業を始めた。
まず鶏肉を切る。前世の「鶏むね肉のソテー」に近いものを作るつもりだった。ただ、この世界の食材は前世より味が濃い。香草も強い。分量を調整しながら進めた。
たまねぎを薄切りにして、ゆっくり炒める。焦げないように、弱火で、時間をかけて。飴色になるまで二十分ほどかかった。その間に鶏肉に塩と香草を揉み込んで、しばらく置く。
宿の主人が厨房をのぞいてきた。
「いい匂いがしますね……」
「もう少しかかる」
「はい、はい」
白ワインに似た醸造酒を加えて、発酵調味料を少し溶かす。鶏肉を皮目から焼いて、じっくりと火を通す。焼き色がついたら、ソースをかけて仕上げる。
最後に、香草を散らした。
プレートに盛り付けて、セラの部屋に持っていった。
「セラ」
「なに」とくぐもった声がした。
「食べろ」
ドアを開けると、セラはベッドに横になっていた。本を読んでいたらしく、手に持ったまま俺を見た。
「また持ってきたの。昨日もスープを——」
「昨日のとは違う」
セラはトレーを見た。料理の匂いが部屋に広がった。
セラが少し表情を変えた。
「……何これ」
「食べてみれば分かる」
セラは上体を起こして、トレーを受け取った。フォークを持って、鶏肉を一口切り取った。口に入れた。
しばらく、何も言わなかった。
もう一口、食べた。
また、何も言わなかった。
「……ヴァン」
「なんだ」
「これ、何?」
「鶏肉のソテーだ。この世界の言葉に当てはめると、そうなる」
「鶏肉のソテーって、こんな味なの?」
「前世の作り方だ。この世界の料理とは少し違う」
セラはもう一口食べた。それから、黙って食べ続けた。フォークが止まらなかった。
あっという間に、皿が空になった。
セラはしばらく空の皿を見ていた。
「……もう一皿ある?」
「ない」
「作れる?」
「食材が余っているからできる」
「……作ってくれる?」
「珍しいな。お願いをするのは」
「うるさいわね」セラは少し耳を赤くした。「美味しかったから、もう一度食べたいだけよ」
俺は厨房に戻って、もう一皿作った。
今度はセラも食堂に下りてきた。できあがるのを、カウンターの端で待っていた。
「あなた、料理ができるの」とセラが言った。
「前世で、一人暮らしをしていたから」
「一人暮らしって、一人で全部やるの?」
「そうだ。料理も掃除も洗濯も」
「貴族には信じられない生活ね」
「前世には貴族という概念がほぼなかった」
「ほぼ?」
「形式的にはあったかもしれないが、日常生活には関係なかった」
セラはそれを聞いて、少し考えた。
「じゃあ、前世では誰でも料理をするの?」
「する人間もしない人間もいる。俺はする方だった」
「なんで?」
「放っておくと、食べるものがなくなるから」
セラは少し笑った。
「あなたらしい理由ね」
二皿目ができあがった。セラはテーブルに座って、今度はゆっくりと食べた。一口ごとに、少し目を細めた。
「ヴァン」
「なんだ」
「これ、宮廷料理でも食べたことないわ」
「そうか」
「本当に。エルヴェイン家の料理人は、かなり腕がいいんだけど——このソースの味は、食べたことがない」
「前世の調理法だ。この世界には同じものがないから、似たものを使って再現した」
「再現、ね」セラはフォークを置いた。「あなたって、前世の記憶をよく覚えているのね」
「料理は体で覚えているから、忘れにくい」
「他は?」
「他は、薄れているものもある」
「どんなことが薄れた?」
俺は少し考えた。
「顔だ。前世で会っていた人の顔が、少しずつ薄れていく」
セラはしばらく黙っていた。
「……寂しくない?」
「寂しい、というより——もう別の場所にいるんだと思っている。前世の人たちは前世の世界で生きていて、俺は今ここにいる。それだけのことだ」
「割り切っているのね」
「割り切っている、とも少し違う。ただ、今の方が——」
「今の方が?」
「悪くない」
セラはしばらく俺を見ていた。それから、また食べ始めた。
その夜、宿の裏手の路地で、黒装束の二人組が向かい合っていた。女性の方が、上着の内側に何かを隠し持っていた。
「これ、どうしましょう」と女性が言った。
「何だ」
「市場で、ヴァンさんが買い物していたので、何を買うのか確認しようとしたら——つい一緒に買ってしまって」
男性は女性が取り出したものを見た。鶏肉と香草と、発酵調味料だった。
「……なぜ買った」
「なんとなく……いい匂いがして。あと、ヴァンさんと同じものを買えば、何を作るか分かるかなと思って」
「お前は料理ができるか」
「……できません」
男性は少し間を置いた。
「俺もできない」
「どうしましょう」
「宿の主人に頼め」
「頼めるんですか?」
「金を払えば作ってくれる」
女性は食材を見て、また男性を見た。
「あの……ヴァンさんの料理、どんな匂いだったか覚えていますか」
「覚えている」
「美味しそうでしたよね」
「……そうだな」
二人は少し黙った。
「報告書は?」とやがて男性が言った。
「書きました」
「送れ」
「はい。あと——食材、どうしましょう」
「宿に持ち帰れ」
「一緒に食べますか?」
男性はしばらく考えた。
「……主人に頼んで、何か作ってもらえ」
「はい!」
女性が嬉しそうに食材を抱えて歩き出した。男性はその背中を見ながら、小さくため息をついた。
街の夜が、静かに更けていった。




