シーン3
出発前夜、俺が部屋に戻ろうとすると、廊下でセラと鉢合わせた。
珍しいことに、セラの方から声をかけてきた。廊下の壁に背を預けるようにして立っていて、俺に気づくと少し背筋を伸ばした。
「ヴァン」
「なんだ」
「少し、いい?」
廊下に他の宿泊客はいなかった。夜の宿は静かで、どこかの部屋から寝息が聞こえていた。
「お父様が、私の活動を知ったらしいわ」
俺は立ち止まった。
「いつ」
「最近よ。メルガンでの件が伝わったみたい。炎竜の話も、どこかから聞いたらしい」セラは廊下の壁をぼんやりと見ながら言った。「まだ何も言ってきていない。手紙も来ていないし、使いも来ていない。ただ、知っている、ということだけは分かった」
「どこから分かった」
「エルヴェイン家と付き合いのある商人から、それとなく聞いた。父が私の動向を聞き回っているらしいと」セラはため息をついた。「父は、直接聞くより、先に情報を集める人なの。何かを言ってくるとしたら、十分に状況を把握してからよ」
俺はその情報を整理した。
「カルネスは、エルヴェイン家と縁がある街なんだったな」
「そう。向こうの貴族と、父は昔から付き合いがあるわ。ということは、今回の依頼を受けることは、父の耳に確実に入る。もう入っているかもしれない」
「それで、断るか?」
「断らない」セラは即座に言った。声に迷いはなかった。「ただ……面倒なことになるかもしれないと思って。あなたには言っておこうと思っただけ」
「なぜ俺に」
セラは少し間を置いた。
「……あなたは私の従者だから。一緒に動く人間には、知っておいてほしかった」
それだけか、と思ったが、口には出さなかった。
「分かった」と俺は言った。
「それだけ?」
「それだけだ」
「……何か言いなさいよ」
「何を言えばいい」
「例えば、大丈夫とか、何とかなるとか」
「大丈夫かどうかは分からない。何とかなるかどうかも分からない」
セラはしばらく俺を見ていた。それから、小さく笑った。
「あなたって、本当に嘘をつかないわね」
「つく必要がない」
「……まあ、いいわ。おやすみなさい」
セラは部屋に戻った。
廊下に一人残された俺は、しばらくその場に立っていた。
セラが自分から話しかけてくるのは珍しい。しかも、家族の話を。何かを整理したかったのか、あるいは誰かに話を聞いてほしかったのか。それとも、単純に不安だったのか。
どれかは分からなかった。ただ、俺に話してきたということに、何かしら意味があるような気がした。
自分の部屋に入って、窓を開けた。夜風が入ってきた。街の夜の音が聞こえる。酒場の喧噪が遠くにあって、どこかで犬が吠えた。
前世では、誰かに話しかけられることが少なかった。仕事の連絡はあった。でも、こういう話——悩んでいることや、不安に思っていること、誰かに聞いてほしいこと——を話しかけられることは、ほとんどなかった。
それが今は、ある。
——悪くない。
誰に言うでもなく、そう思った。




