閑話 転生者、気づかないフリをする
その日、俺たちはいつも通り依頼をこなして、夕方に宿へ戻る途中だった。
依頼の内容は街の外れに出た小型魔獣の駆除で、セラが詠唱し俺が処理するいつもの流れだった。帰り道は大通りを避けて、細い路地を歩いていた。人目が少ない方が、俺としては都合がいい。
大通りから一本入った路地を歩いていると、後ろからかすかな気配がした。
黒装束の二人組だ。今日は八百屋の荷台の陰に隠れているらしい。女性の方が荷台に積まれた大根を一本引っかけて、盛大な音を立てた。
セラが振り返った。
「今の音、なに」
「大根が落ちたんじゃないか」
「……そう」
セラは特に気にした様子もなく歩き出した。俺はその後ろに続きながら、視線だけを後方に向けた。
荷台の陰で、女性忍者が大根を必死に元の位置に戻していた。男性忍者がその隣で、額に手を当てながら周囲を確認していた。目が合いそうになったので、俺はさりげなく視線を戻した。
——今日は何回目だろう。
俺が数えている限り、今日だけでもう四回失敗している。朝は宿の軒先から落ちかけ、昼は市場で変装がずれてセラと目が合いそうになり、午後は路地の水たまりに盛大に足を突っ込んだ。その度に男性忍者がカバーしていたが、今回の大根はさすがに間に合わなかったらしい。
しかし俺は気づかないフリをする。
それが、この奇妙な均衡を保つための、俺なりのやり方だった。彼らが何者で何の目的で動いているかは、だいたい察しがついていた。ただ、気づいていると知られれば話が複雑になる。気づかないフリをしている方が、お互いにとって都合がいい。
宿に戻ってしばらくすると、セラが部屋から出てきた。
「ちょっと買い物に行くわ。ついてきなさい」
「分かった」
街の市場に向かう途中、俺は忍者コンビの気配を感じた。今度は果物屋の軒先に積まれた木箱の陰だ。女性忍者の黒装束の袖が、木箱の隙間からわずかに見えている。男性忍者の方はもう少し上手く隠れているが、靴の先だけが木箱の端から覗いていた。
セラが果物屋の前で足を止めた。
「この林檎、いくつ入り?」と果物屋の主人に聞いた。
その瞬間、木箱がガタリと揺れた。
女性忍者が体勢を崩したらしい。木箱がひとつ、ゆっくりと傾いた。その中の林檎が、ころころと地面に転がり出した。一つ、二つ、三つ。林檎は石畳の上を跳ねながら、思い思いの方向に散らばっていった。
セラが振り返った。
「林檎が落ちているわよ」
「風が強いな」と俺は言った。
「風、ないけど」
「気のせいだ」
果物屋の主人が慌てて林檎を拾い始めた。俺はさりげなく木箱の方に近づいて、傾きかけていたもう一つの木箱をさりげなく手で支えた。中の林檎がこれ以上こぼれないように、そっと押さえる。
木箱の陰から、女性忍者が小さな声で「ありがとうございます」と言った。
俺は聞こえなかったフリをして、セラの隣に戻った。
「なにしてたの」とセラが言った。
「木箱が倒れそうだったから」
「従者が余計なことをするものじゃないわ」
「すみません」
セラは林檎を三つ買って、満足そうに歩き出した。
その後も買い物は続いた。布屋で生地を見て、薬草店で消耗品を補充して、書店で魔術関連の本を一冊手に取った。その間ずっと、忍者コンビは後ろをついてきた。
書店の前で、女性忍者が本棚に肘をぶつけて本を数冊落とした。男性忍者が素早く拾い集めたが、一冊だけ棚の奥に転がり込んでしまった。書店の主人が不思議そうに棚の奥を覗いている間、二人は入口の柱の陰に身を潜めていた。
セラが「この本、どう思う?」と俺に聞いてきた。
「悪くない」と俺は答えた。
セラは本を買った。
夕方、宿の近くの広場を通りかかったとき、事件は起きた。
広場の中央に、小さな噴水がある。その縁に、黒装束の女性が腰かけていた。変装もなにもない。完全に黒装束のまま、噴水の縁に腰かけて、何かの書類を読んでいた。日が傾いた広場に、黒装束は非常によく目立った。
セラが足を止めた。
「……あの人、なんで真っ黒な格好をしているの」
俺は考えた。
「流行じゃないか」
「そんな流行、聞いたことないわよ」
「この街では流行っているらしい」
「……そう」
セラは首をひねりながらも歩き出した。
俺は広場を通り過ぎながら、噴水の方をちらりと見た。
女性忍者は書類を読みながら、完全に周囲への警戒を忘れていた。書類の内容に集中しているらしく、顔を近づけて一行一行を指でなぞっている。その隣に、いつの間にか男性忍者が現れて、小声で何かを耳打ちした。女性忍者がはっとして立ち上がり、書類を抱えたまま慌てて物陰に走り込んだ。
二人が消えた後に、書類が一枚、噴水の縁に残っていた。走り込む際に落としたらしい。
俺は立ち止まった。
「どうしたの」とセラが振り返った。
「少し待ってくれ」
俺は噴水に近づいて、書類を拾い上げた。ちらりと内容を確認する。
転生者リストの一部だった。名前と思われる文字が並んでいて、いくつかに印がつけられている。俺の名前がそこにあるかどうかは確認しなかった。する必要もなかった。
俺は折り畳んで、上着の内側にしまった。
「なにそれ」とセラが聞いた。
「落し物だ。後で届ける」
「親切ね」
「まあ」
宿に戻った夜、俺は書類を封筒に入れて、宿の主人に渡した。
「広場で拾った落し物です。黒い服の方が忘れたようで」
「黒い服……?」宿の主人は首をかしげたが、受け取った。「分かりました。心当たりを探しておきましょう」
部屋に戻ると、セラがお茶を飲みながら俺を見ていた。
「あなたって、拾い食いならぬ拾い物が多いわね」
「落ちているものは拾う性分だ」
「前世でもそうだったの?」
「そうだ。ゴミが落ちていれば拾った。財布が落ちていれば届けた。人が困っていれば手を貸した」
「……なんで?」
「放っておくと気になるから」
セラはお茶を一口飲んで、窓の外を見た。
「……変な人ね」
「そうかもしれない」
「でも」セラは少し間を置いた。「そういうところは、嫌いじゃないわ」
俺は特に何も言わなかった。
翌朝、宿の入口に黒装束の二人組が立っていた。宿の主人から封筒を受け取っているらしい。女性忍者が封筒を開けて中身を確認し、男性忍者に何かを見せた。男性忍者が小さくため息をついた。
俺はその様子を二階の窓から眺めながら、朝食のパンをかじった。
——まあ、困らない程度には続けてくれていい。
誰かに見られているというのは、悪くない気分だった。前世では、誰にも見られていなかった。今は少なくとも、二人だけは俺を見ている。
目的が何であれ、それはそれで、悪くなかった。




