閑話 転生者、作法を学ぶ
その朝、セラはいつもより早く起きていた。
食堂に下りると、すでにテーブルの上に羊皮紙が広げられていた。セラが何かを書き込んでいる。朝の光が窓から差し込んで、銀髪を白く照らしていた。俺が椅子を引いて座ると、セラは顔を上げずに言った。
「ちょうどよかった。話があるわ」
「なんだ」
「あなたの振る舞いについてよ」
俺はパンを手に取った。
「振る舞い?」
「そう」セラはペンを置いた。「来週、この街の有力商人たちが集まる席がある。私も招待されているわ。当然、あなたも従者として同行することになる」
「分かった」
「分かった、じゃないわよ」セラは羊皮紙を俺の方に向けた。「これを見なさい」
羊皮紙には、細かい文字で何かが書かれていた。
従者の礼儀作法、と題されたそれは、立ち位置から歩き方、主人への呼びかけ方、食事の席での立ち居振る舞いまで、事細かに書かれていた。しかも、余白には赤い文字で注意事項まで書き加えられている。昨夜のうちに準備していたらしい。
「……これを全部やれということか」
「当然よ。あなたは今まで最低限しかできていなかった。主人の一歩後ろを歩く、それくらいは知っているでしょうけど、それ以外が全然足りていない」
俺は羊皮紙を眺めた。
確かに、俺の従者としての振る舞いは「それらしく見える最低限」だった。目立たなくていい、という俺の方針と、従者として格下に見られるというセラの方針が一致していたので、これまで問題はなかった。依頼をこなす分には、それで十分だった。
しかし今回は違うらしい。
「有力商人の集まりに、みすぼらしい従者を連れて行くわけにはいかないでしょう」とセラは言った。「私の格を落とすことになる」
「みすぼらしいとは思っていなかったが」
「思っていなかっただけで、そう見られていたのよ」セラはきっぱり言った。「いいから、今日一日付き合いなさい。全部教えてあげるから」
「分かった。何をすればいい」
「まず歩き方から教えるわ。立って」
俺は立った。セラも立った。朝食のパンはまだ半分残っていたが、それを指摘するのはやめた。
こうして、俺の礼儀作法特訓が始まった。
最初の課題は歩き方だった。
「従者は主人の一歩後ろ、半身分左にずれて歩く。それは知っているわね」
「知っている。最初に教わった」
「では歩いてみなさい」
俺は歩いた。セラの一歩後ろ、半身分左。
セラが足を止めた。
「……なんで自然にできるの」
「最初に教わったから」
「もっと格下らしくしなさい。背中を少し丸めて、視線を下げて。存在感を消すように」
俺は背中を少し丸めた。視線を下げた。肩の力を抜いて、足音を小さくする。
セラが俺を見た。しばらく黙っていた。
「……なんで似合うの」
「どちらがいい」
「格下らしい方よ」とセラは言った。「でも……なんか腹が立つわね」
「なぜ」
「あなたが格下に見えると、なんか損した気分がするのよ。私が格下の従者を連れているみたいで」
「それが目的だったのでは」
「うるさいわね」
俺は特に何も言わなかった。
次の課題は呼びかけ方だった。
「主人を呼ぶときは『セラ様』。それは合っているわ。でも、もっと恭しくしなさい。例えば用件がある時は、いきなり話しかけない。まず少し後ろで待って、私が気づくのを待つの」
「つまり、気づいてもらえなければずっと待っているということか」
「そういうことよ。主人の都合を優先するのが従者というものでしょう」
「分かった」
俺は少し後ろで待った。
セラは羊皮紙を眺めながら、次の課題を考えていた。俺は待った。セラの視線が羊皮紙からペンに移った。俺は待った。セラが窓の外を見た。俺は待った。
一分ほど経った。
「……何か用があったんじゃないの?」とセラがようやく振り返って言った。
「用件を伝えるタイミングを待っていた」
「早く言いなさい」
「セラ様、次の課題はなんでしょうか」
セラはしばらく俺を見ていた。何か言いたそうな顔をして、結局ため息をついた。
「……腹が立つわね」
「なぜ」
「完璧にやられると、教える側が間違っているみたいじゃない。もっとできなくていいのよ、最初は」
「できることをできないように見せるのは難しい」
「あなたが言うと嫌みに聞こえるわ」
俺は特に何も言わなかった。
昼を過ぎた頃、食事の席での作法に差し掛かった。食堂のテーブルを使って、実地練習をすることになった。
「食事の席では、主人より先に座ってはいけない。主人が席についてから、一歩後ろに控える。それと、主人に何か必要なものがあれば、先回りして用意しておく。飲み物が減ってきたら補充する、食事が終わったら片付ける、そういうことよ」
「分かった」
「では実際にやってみなさい。私が席につくから、あなたは従者として動いて」
セラが椅子に座った。
俺はすぐに飲み物を用意して、セラのグラスに注いだ。セラがパンに手を伸ばそうとする前に、パン切りナイフを近くに置いた。セラが羊皮紙を見ようとしたとき、すでに手の届く位置に移動させていた。セラが少し体を傾けて何かを取ろうとした瞬間、それを先に手渡した。
セラは何も言わずに数分間過ごした。
やがて口を開いた。
「……なんで全部先回りできるの」
「観察していれば分かる」
「気持ち悪いわ」
「悪い意味で?」
「……悪い意味ではないけど、なんか気持ち悪い。私が何かしようとする前に全部終わっているのよ。自分が人形になったみたいで落ち着かない」
「改善するか?」
「しなくていいわよ! 実際の席では役に立つんだから」
俺は返事をしなかった。
その後も特訓は続いた。お辞儀の角度、扉の開け方、来客時の対応の仕方、主人が話しているときの立ち位置、荷物の持ち方。どれも俺は一度見本を見せてもらえば、すぐにできた。二度目を要求されたことがなかった。
日が傾いた頃、セラは椅子に座り直して、腕を組んだ。疲れたような顔をしていたが、教えた側ではなく、教えていた側が疲れているのは少し不思議だった。
「……あなたって、本当になんでもそつなくこなすのね」
「目立たないようにしていれば、自然と身につく」
「じゃあ今まで手を抜いていたということ?」
「必要な分だけやっていた。それ以上は目立つ」
セラはしばらく黙っていた。
「……腹が立つわね」
「それは何度か聞いた」
「うるさいわね」
翌週、商人たちの集まりが開かれた。
開催場所は街の中心にある貴族の館だった。広間には十数人の商人と、その従者たちが集まっていた。どの従者も、それなりに訓練を積んだ様子で、きびきびと動いていた。
セラは会の中心に近い席に案内された。エルフの貴族令嬢、という肩書きは、こういう場で効果的だ。周囲の商人たちが自然と礼儀正しくなる。
俺はセラの一歩後ろ、半身分左に立った。背中をわずかに丸めて、視線を下げて、必要なときだけ動く。
会の間、セラは堂々と振る舞っていた。商人たちと話し、笑い、時折意見を述べた。その横顔は自信に満ちていて、少し前まで特訓で俺に腹を立てていた人間とは思えなかった。
俺は黙って控えていた。セラのグラスが減れば補充した。書類が必要になれば手渡した。それだけだ。目立たず、静かに、必要な分だけ動く。
会が半ばに差し掛かった頃、隣の席の商人が俺を見た。
「セラ様の従者は、なかなか見事な立ち居振る舞いですな」と商人は言った。「どちらで修行を?」
セラが俺より先に答えた。
「私が直々に仕込みましたの。それくらいできなければ、私の従者は務まりませんから」
「さすがでございます。やはりセラ様は細かいところまで目が届いておいでで」
「当然よ」
俺は黙っていた。
直々に仕込んだのは昨日だけだ、という事実は、口に出さなかった。
帰り道、夜の石畳を二人で歩きながら、セラが前を向いたまま言った。
「……まあ、合格点はあげるわ」
「ありがとうございます、セラ様」
セラが少し歩みを早めた。
「その言い方、やめなさい。なんか腹が立つから」
「どうすればいい」
「普通に話しなさい。二人のときは」
「分かった」
石畳に、二人分の足音が響いていた。夜風が少し冷たかった。
「……あなたって」とセラが言った。
「なんだ」
「本当に、損な性格よね」
「損か」
「できるのに、目立とうとしない。それって、損じゃないの」
俺は少し考えた。
「目立つことに価値を感じていない」
「私は感じているわ」
「知っている」
セラはそれ以上何も言わなかった。
足音だけが、夜の石畳に続いていた。




