エピローグ
夜が静かだった。
宿の窓から、街の灯りが見えた。酒場の喧騒が遠くに聞こえて、どこかで犬が吠えた。それだけだ。特別なことは何もない、普通の夜だった。
俺は椅子に腰を下ろして、窓の外を眺めていた。
前世でもこういう夜があった。アパートの窓から街の灯りを見て、何も考えずにただ座っている夜。誰とも話さず、誰にも必要とされず、それでも特に不満もなく、ただ静かに時間が過ぎていく夜。
今も、静かだ。
ただ、少し違う。
隣の部屋に、誰かがいる。
壁越しに、かすかな気配がある。セラだ。おそらく今頃、明日の依頼の確認でもしているか、あるいはもう眠っているか。どちらでもいい。ただ、そこにいる。
それだけで、この夜は前世の夜と少し違った。
俺はこの世界に来て二十年近く生きてきた。転生者であることを隠して、目立たず、静かに、誰にも必要とされないまま生きてきた。それで十分だと思っていた。前世と同じように、静かに過ぎていけばいい、と。
ところが今、俺には従者という肩書きがある。
脅迫から始まった。それは事実だ。セラに正体を見られて、条件を出されて、気づいたらこうなっていた。自分から望んだわけではない。
ただ。
——悪くない。
誰に言うでもなく、そう思った。
噴水の前でセラが言っていた言葉を、俺はまだ覚えていた。「あなたのことを、信用している」。あの夕暮れの光の中で、プライドの鎧を脱いで、真剣な目で言っていた。
脅迫から始まった関係が、いつの間にか、そういうものになっていた。
俺には、それがよく分からなかった。人を信用するとはどういうことか、信用されるとはどういうことか、前世ではあまり縁のない話だった。ただ、悪い気はしなかった。むしろ。
——放っておけない、か。
セラが言った言葉を、俺は少し違う角度で考えた。
放っておけない人間、と言われた。それは俺がセラに対して感じていることでもあった。強がりの仮面の下に必死さを隠して、弱さを見せたら終わりだと思いながら、それでも前に出る。そういう人間を、俺は放っておけない。
前世でもそうだった。ゴミが落ちていれば拾った。誰かが困っていれば手を貸した。褒められたかったわけじゃない。放っておくと気になるから、それだけの理由で。
セラも、同じだ。
放っておくと気になる。それだけのことが、いつの間にか「自分が守ると決めた人間」になっていた。自分でも気づかないうちに。
窓の外で、街の灯りが一つ消えた。
深夜になってきた。誰かが眠りについたのだろう。
俺は立ち上がって、窓を閉めた。
明日も依頼がある。セラが詠唱して、俺が処理して、周囲がセラの手柄として受け取る。それだけのことだ。特別でも何でもない、いつも通りの一日になるだろう。
ただ、一つだけ変わったことがある。
この生活が、悪くないと思い始めている。
前世では、こういう気持ちを持てなかった。今日が悪くない、と思える日が、こんなに続くとは思っていなかった。転生者として隠れて生きる毎日が、こんなふうになるとは。
——まあ。
俺は蝋燭を吹き消した。
暗闇の中で、街の灯りだけが窓ガラスに滲んでいた。
静かな夜だった。
ただ、前世の静かさとは、少しだけ違う静かさだった。




