シーン3
正確に言えば、本気を出すつもりはなかった。
本気を出す必要がない、というのが正しい。この程度の相手に本気を出せば、後が面倒になる。消えた、では済まない規模の痕跡が残る。それに、本気を出す理由もない。
ただ、せっかくなので、試してみたいことがあった。
詠唱、というやつだ。
この世界に来て二十年近く、一度も使ったことがなかった。必要がなかったからだ。詠唱なしで、構成なしで、結果だけが出る。それが俺の魔術の使い方だった。詠唱とは何なのか、理屈では理解していたが、実際にやったことがない。
今は誰も見ていない。失敗しても恥をかく相手もいない。
——少しやってみるか。
炎竜の口元が赤く光っている。次の炎が来る前に、やる必要がある。
俺は炎竜を正面に見ながら、記憶の中から初歩的な攻撃魔術の詠唱を引っ張り出した。以前、街の魔術師が弟子に教えているのを聞いたことがある。子供でも覚えられる、入門用の火球術式だ。確か、こんな内容だったはずだ。
俺は詠唱を始めた。
長かった。
我ながら長かった。初歩的な術式のくせに、詠唱の文言がやたらと長い。子供向けに噛み砕いて説明しているからか、「炎よ集まれ」だとか「熱を束ねて」だとか「光となりて敵を穿て」だとか、説明的な言葉が続く。詠唱している間にも炎竜はこちらを見ている。その巨大な瞳に「何をしているんだこいつは」という色が浮かんでいる気がした。
炎竜が首を傾げた。
巨大な生き物が、首を傾げた。これはこれで珍しい光景だ、と俺は詠唱しながら思った。
詠唱しながら、俺は少しだけ魔力を込めた。本当に少しだけ。詠唱に見合った出力、それ以上でも以下でもない、初歩的な火球を作るのに必要な分だけ。
詠唱が終わった。
発動した魔術は、こぶし大の火球だった。
それが炎竜の鼻先に、ぽす、と当たった。
音も衝撃もなかった。ただ、当たった。
炎竜が動きを止めた。
首の傾きが、さらに深くなった。
巨大な瞳が、俺を見た。火球ではなく、俺を。
その目に浮かんでいたのは、痛みでも怒りでもなかった。
困惑、だった。
二十メートルを超える炎竜が、こぶし大の火球を鼻先に受けて、本気で困惑していた。おそらくこの生き物は生まれてから一度も、こんな規模の攻撃を受けたことがなかったのだろう。傷つくほどの力ではない。しかしその背後にある何か——途方もない何かを、本能が感じ取っているのかもしれない。
長い沈黙があった。
炎竜が、後退した。
一歩、また一歩。巨大な体が、信じられないほど素直に下がっていく。踏み出すたびに地面が揺れていたのに、今は後退するたびに小さくなっていくように見えた。
そして翼を広げた。羽ばたきの風圧で、周囲の木々が大きくしなった。折れた枝が降ってくる。
炎竜が、飛んだ。
あっという間に、森の上空を越えて、遠ざかっていった。
静寂が戻った。
木々の揺れが、ゆっくりと収まっていく。どこかで小鳥が鳴き始めた。
俺は手を下ろした。
——初歩的な魔術でも、詠唱するとこんな感じか。
長い割に、出てくるものは随分地味だった。ただ、炎竜が逃げたのは事実だ。結果としては悪くない。詠唱の練習としては、まあまあだったかもしれない。次はもう少し短い術式を試してみてもいいかもしれない、とも思った。
倒れているセラたちを確認した。全員、呼吸は安定している。大きな怪我はなさそうだった。
俺はため息をついて、まずセラを安全な場所に移動させ始めた。




