9.叔父、グイード医師
「私はだなぁ、お前の辺境騎士団への配属は望んだが、ちゃんと前線に出ないように手を回したんだぞ。それを無視してお前は前線に出ていたんだ。全く、戦争中は生きた心地がしなかったよ。無事に終わって本当によかった。もちろん、若いが故に使命感に燃えるのは素晴らしいことだがね。お前は姉さんの息子でセレンデスの正式な後継者なんだ。他とは違うという意識はいつでも持っていて欲しい」
ライデンの大きな声が応接室から廊下まで漏れている。
内容は小言だが、声の調子は明るい。それにこれはライデンがクリストファーに会う度に言う内容でいつものことだ。
中からはクリストファーが丁寧に応えているのが微かに聞こえてくる。
「ああ、私はいつでもクリストファーを思っているよ。それだけは頭に留めておいて欲しいね。しかし今回の出征も無理をしたんじゃないか? 瀕死の重傷だと聞いた時は肝が冷えた。もう後は退団して姉さんの家を守っていくだけのはずだったお前が瀕死の重傷だぞ、勘弁してくれよ。私がお膳立てしてやった結婚が水の泡になるところだった……ん? ああ、そうだな。確かにお前が死んでいればシェリー夫人も辛い思いをしただろうからな」
最後に出てきた自分の名前にシェリーはどきりとする。
ライデンはシェリーのことは路傍の石程度にしか考えていないから、自らシェリーについて言及したとは思えない。
きっとクリストファーが「シェリーのためにも無理はしません」とか言ったのだろう。
ライデンの前でシェリーを持ち上げると彼の機嫌が悪くなるかもしれない。
シェリーはひやひやした。
現在のシェリーは淑女にはあるまじき盗み聞きの最中である。
葉巻の件からしばらく経った今日、セレンデス家にはライデンが訪れているのだ。そして現在、応接室でクリストファーが対応中である。
シェリーは記憶をなくし性格の変わったクリストファーをライデンがどう扱うのか不安で、廊下の絵の角度について考える振りをしながら応接室のやり取りに耳をそばだてている。
因みにシェリーの横には、同じく絵の角度について悩んでいる様子の侍女長がいた。
「ところで記憶をなくしたんだってな。はっはっはっ、気にするな、気にするな。私は昔の可愛いお前にまた会えて嬉しいよ。姉さんの死後は塞いでいた時期もあったからな。当主の仕事は問題なさそうなんだろ? そうだよな、ウィルス?」
応接室には家令のウィルスも入っている。ウィルスは問題ないと答えたようだ。ライデンの上機嫌な笑い声が再び響く。
シェリーは安堵した。どうやらライデンは現在のクリストファーに抵抗はないらしい。
シェリーからすると曲者のライデンだが、クリストファーにとっては心強い庇護者だ。
ライデンは身分だけで人の価値を決める人だが、その分貴族の職務には忠実だし、ある意味ではとても常識的だ。
セレンデス家としてはこれからも上手く付き合っていきたい人物である。
以前の夫も、シェリーとの結婚を強引に進めたライデンに思うところはあったようだが、ある程度は信頼していたように思う。
でなければ会ったこともない下級貴族の年上の女と結婚なんかしないだろう。
「伯爵にはお茶のお代わりをお持ちしてあげましょう。念の為に、お酒も添えて選べるようにするのがいいと思います。ないと気が利かないと仰るだろうから」
そろそろ立ち去ろうと思い、隣の侍女長に対応を伝えると侍女長が心得ていると頷く。
「そういたします。タンデス伯爵は侍女には厳しい方ですから」
いつも粛々と仕事をこなす侍女長にしては珍しく含みのある言い方だ。
シェリーは少し前に侍女長が親身な言葉をかけてくれたことを思い出し、こちらもいつもはしない質問をした。
「侍女長、もしかしてあなたも伯爵が苦手なのかしら?」
「私も得意ではございませんね」
にやりと笑う侍女長。
その様子にシェリーも笑ってしまい、二人で笑みを交わしてから、シェリーは自分の執務室へと戻った。
ライデンは爵位の手続きに署名して、二時間ほどクリストファーとウィルスと話し込んでからセレンデス家を後にする。
シェリーは執務室の窓から二人に見送られるライデンを眺めた。
(もしかして伯爵なら、今の夫が本物なのか分かるのかしら……?)
ライデンは離れで十五歳のクリストファーを発見し、その状態に気付いた最初の人物だ。当時のクリストファーの全てを目撃していた。侍医のグイードでも見たことのないらしいクリストファーの全てを。
追いかけて聞いてみようかという考えが浮かび、足が動きかける。
「…………」
でもシェリーは一歩も動かずに頭を横に振った。
その行動はライデンを逆なでするだけだ。
ライデンはクリストファーの病を知っているが、認めてはいない。今の状態も記憶喪失のせいだと断言して終わるだろう。
ライデンの愛した完璧な姉の息子は、心身ともに健康で完璧なはずなのである。
グイードが、クリストファーをなかなか診察させてくれなかったライデンには困ったと言っていたのを思い出す。
グイードは結局、一番混乱していたはずの十代のクリストファーは二度しか診れず、戦争終結後にやっとまともな診察ができたらしい。
シェリーは視線をライデンから彼を笑顔で見送るクリストファーに移すとため息を吐いた。
今はもう、こちらが望めばグイードに相談できるのだが、シェリーはまだ今回のクリストファーのことを話せていなかった。
理由は分かっている。
(私、逃げてるのよね……いい加減、はっきりさせないと)
クリストファーを見つめていると、ぱっと彼が顔を上げた。
「……あ」
見ていたのがバレてしまった。
クリストファーは嬉しそうに笑うとシェリーに手を振る。
シェリーも小さく振り返した。
「…………」
クリストファーは素敵な人だと思う。夫と似ているとも思う。
でも、愛せるかは自信がなかった。
❋❋❋
「今の段階では何とも言えませんね」
落ち着いた声色で眼鏡の医師が言う。
ライデンの訪問があった二日後、シェリーは一人でグイードを訪ねていた。
温かみのある診察室にはシェリーとグイードだけだ。
「“クリス”とも“ファレル”とも別の人格の可能性もあるし、どちらかが記憶をなくしているだけの可能性もあります」
グイードはそう言ってから立ち上がると、奥へと引っ込みお茶を淹れて戻ってきた。
「不甲斐ないことに、私は彼から全ての人格を教えてもらっていませんからね。あやふやな答えですみません」
申し訳なさそうにそう言ってお茶を勧めてくる。シェリーはカップに口をつけた。ふんわりと独特の香りが広がる。
「気持ちが落ち着くハーブティーです。今の夫人はとても不安そうですね」
「顔に出ていますか?」
クリストファーや屋敷の者達にもバレていただろうかとシェリーは慌てた。自分はあまり気持ちが表情に出ないはずなのだ。
「いいえ、出ていない方だと思います。僕は仕事柄、鋭いんですよ。よければ話してください。少しは楽になるかもしれません」
グイードが微笑む。
「それも、そうですね……ええ、不安です」
「彼の記憶が戻らないかもしれないのが不安ですか? それとも新しい人格の登場が?」
問いかけられて、シェリーはぎゅっと拳を握った。
シェリーがクリストファーと病院で対面してから恐れていることは一つだ。
ずっと、たった一つなのだ。
「…………」
「夫人?」
「私は、今の彼が本人格であることを恐れています。もしかすると、私が愛した人は幻のようなものだったのではと」
絞り出した自分の声は驚くほど小さかった。




