8.葉巻
クリストファーが退院してから二週間が経った。
少し前に見つけられた婚姻の契約書は、クリストファーが家令と相談して新しいものに変えた。
新しいものには、セレンデス家がシェリーの実家に援助をしたことと見返りは求めないこと、夫婦はお互いに尊重しあうことだけが書かれたものとなった。
シェリーは、契約書の書き換えはクリストファーの記憶が戻ってからにしようと抵抗したのだがクリストファーによって押し切られてしまい、サインをした。
そしてクリストファーの記憶が戻る気配は今のところない。
シェリーは家令と侍女長以外の、セレンデス家の事情を知らない侯爵家の使用人達が明らかに性格が変わった当主を拒絶するのではと心配していたのだが、それは杞憂に終わった。
彼らは驚きはしたが、今のクリストファーを受け入れてくれていた。
皆、クリストファーの記憶が十六歳前後までしかないということから、十五歳で起こった両親と兄の死、その後の当主としてのプレッシャーなどからクリストファーは十代の後半で大きく性格が変わったのだと納得したのだ。
少年時代のクリストファーは、離れで乳母とほぼ二人きりで暮らしていたので、大抵の人は昔のクリストファーを知らない。自分達の当主は幼少期は無邪気で明るい方だったのだと思ったのである。
シェリーもその内の一人だった。
いや、そうだったらいいと願う一人だった。
シェリーはクリストファーが夫とは違う人のように感じるのは気のせいだと思いたかった。
記憶をなくしているだけだと。
クリストファーと夫には似通った部分がある。かけられる言葉やこちらを見つめる目の温度は違うが、どちらも誠実で優しい。
シェリーを想ってくれているのも同じだ。夫が憐れな妻への思いやりだったのに対して、クリストファーからは熱情のようなものを感じてはいるが。
だからきっと記憶が戻れば、元の夫が気恥ずかしそうに「迷惑をかけた」と言うのだろう。
そしてもし、記憶が戻らなくても自分は徐々に新しい夫に馴染んでいくのだろう。
そうであってほしいと、願っていた。
それでもシェリーは時々、自分の知っている夫のクリストファーと目の前のクリストファーが別人だと感じてしまった。
本日もそう感じてしまう日だった。
昼下がり、クリストファーの執務室の前を通ったシェリーは激しく咳き込む音を聞いた。
執務室の中からで、えずいてもいるようだ。
「旦那様っ!?」
驚いたシェリーはノックもせずに扉を開けて、執務室に駆け込む。
そこには涙目でうずくまるクリストファーがいた。
「げほっ……あっ、シェリー、ごほっ、ごめ、びっくりしたよね」
現れたシェリーにクリストファーはすぐに謝ってきたので、どうやら大事ではないようだ。シェリーの体から力が抜ける。
クリストファーの右手には火のついた葉巻が握られていた。
「葉巻を吸ってむせたのですか?」
「ごほっ、ごほっ、……うん。部屋にあったから昔の僕は吸ってたのかなって吸ってみたんだけど、僕には早かったみたいだ」
シェリーはクリストファーに椅子を進め、葉巻を受け取ると火を消して灰皿に置く。
それから窓を開けた。
「ありがとう」
まだ涙目のクリストファーが弱々しく微笑む。シェリーが水差しからコップに水を注いで渡すとそれをごくごくと飲んだ。
「はあ……酷い目に遭ったよ」
「慣れない方には刺激的らしいですよ」
「今、それを身をもって体験したところ。ひょっとしてこれは叔父さん用? 僕は吸っていなかったのかな」
「…………いえ、たまにですが、吸ってました」
シェリーの心臓がドキドキと音をたてた。
シェリーは数回、夫が葉巻を咥えているのを見たことがある。そして夫をよく知るファレルがやって来た時、ファレルは必ず葉巻を吸った。
ファレルはシェリーの前でも構わずに吸ったが、夫はシェリーが来ると「君か」と言ってすぐに消していた。シェリーが葉巻の煙が苦手だと知っていたのだ。
「吸ってたの? それなら耐性はあるはずなんだけどなあ、記憶がないからって耐性までなくなったのかな」
クリストファーが怪訝な顔で灰皿の中の葉巻を見る。
シェリーも記憶喪失ならば、耐性までなくなるとは思えなかった。
頭の中をぐるぐるとセレンデス家の侍医グイードの言葉が回る。
『食事の好みが変わったり、能力に差が出ることもあります。分かりやすい事例では、右利きのはずが左利きになったりもするようです』
結婚前にライデンによって引き合わされた医師は、クリストファーの病についてシェリーにそう説明してくれた。
「…………久しぶりですし、瀕死の怪我を負われてもいたからではないでしょうか?」
自分に言い聞かせるようにシェリーはそう言う。
「そうだね。まだ本調子じゃないのかもしれないね。屋敷の階段くらいなら息切れもしなくなったんだけどな」
「無理はなさらないでください。葉巻が吸えなくても問題はありませんし、私も……葉巻の煙は苦手です」
「そうなの? じゃあもうやめておくよ」
クリストファーが穏やかに言い、シェリーは何とか微笑んだ。
シェリーはいびつな笑顔を隠すために、開けた窓に近寄って外を眺めるふりをする。
久しぶりにかぐ葉巻の煙の匂い。
シェリーは夫が一瞬だけ見せる葉巻を吸う様を色っぽいと思っていた。
そして夫が自分に気付いてすぐにそれを消してくれるところが好きだった。




