7.契約書
「シェリー、こんなものが僕の自室にあったんだけど、これはどういうこと!?」
クリストファーが責めるようにそう言って、机の上に一通の紙を置いた。
“契約書”と書かれたそれはシェリーのよく知っているものだ。自室にはこれの控えも持っている。
「婚前に交わした契約書です」
シェリーは穏やかに説明した。
「貴族同士の結婚ではよく結ばれるものです。書面に残すのも一般的です」
「それくらいは知っているよ、契約書のことを聞いてるんじゃないよ。中身のことだ……これ、あなたは了承したの?」
クリストファーが悲しげな顔で聞いてくる。指で中身を指し示されてシェリーも契約書に目をおとした。
そこにはまず、この婚姻によってセレンデス家がシェリーの実家の男爵家に経済的な援助を行うことが書かれている。
そして男爵家からセレンデス家への見返りについては求めていない。ただし嫁いできたシェリーへは幾つかの条件を課していた。
侯爵家のことを口外しないこと
婚姻を結んだ経緯を口外しないこと
次期侯爵夫人として節度ある行動をすること
実家を含めて外部とはできるだけ交流しないこと
後継ぎを産むよう可能な限り努力すること
要約するとそんな感じだ。シェリーが契約を違えた場合は援助額の倍の違約金が発生する。そしてクリストファーの側には何の条件もない。
「こんな、これじゃあまるで…………僕はあなたを金で買ったの?」
悲痛な声と表情。
クリストファーがひどく傷ついているのが分かった。
シェリーは思わず立ち上がってクリストファーの肩にそっと触れた。クリストファーがびくりと震える。
「い、家同士の都合の婚姻だって言ってたじゃないか」
「家同士の都合です」
「絶対に違う。実家は男爵家だったよね? 経済的に困っていたんじゃないの? そこにうちがつけ込んだんだよね? 顔合わせと一度の外出後にすぐ結婚だったなんて変だと思ってたんだ。僕はあなたを無理矢理……」
「それは違います」
きっぱりと否定してから、シェリーは口ごもる。
実家で弱りきった父からこの婚姻の話を聞かされた時、シェリーは確かに強引だと感じて戸惑ったのだ。
「…………その、断れない状況ではありましたが、旦那様は無理矢理に私をどうこうしたわけではありません」
夫は顔合せの時からずっとこちらの様子を窺ってくれていた。
それにこの婚姻はクリストファーの叔父ライデンによって計画されたことである。夫の方も戸惑っただろうし、でも拒否はできなかったのだ。
「我が家が困窮していたのは事実です。なのでとても助かったんです」
微笑んでみたが、クリストファーの顔はますます歪んだ。
「でもこんなの変だよ。これではシェリーは友人も作れない…………まさか、シェリーが買い物にも行かないのはこれのせいだったの?」
愕然とするクリストファーにシェリーは首を横に振った。
「違います。契約書ではそこまで禁止はされていません。それに旦那様はこの内容は気にせずに家族への手紙は出せと仰ってくれました。友人との交流も控えなくていいと。でも私は田舎の出身なのでこちらに友人はそもそもいなくて」
「僕はそれも見越していたんだろう。禁止するまでもなく何もできないと」
シェリーの言葉を遮ってクリストファーが言う。
シェリーは返事に詰まった。クリストファーはともかく、ライデンはそれを見越していたからだ。
「最低じゃないか、優しくする振りをして笑ってたんだ。それにこんな契約書があっては……」
クリストファーはよろよろと部屋のソファに座り込んだ。
「旦那様……」
「シェリー、ごめん。綺麗で優しいあなたに浮かれてた僕は馬鹿みたいだったね。シェリーからすると、何を今更って軽蔑したよね?」
項垂れるクリストファー。
シェリーは慌ててその隣に座った。
「してないです。あの、確かに私は、最初はこの結婚には気が進みませんでした。でも結婚前の二回の対面であなたを少しだけだけど知って、ちゃんと惹かれたんです。だから結婚は嫌じゃなかったし、その後のこちらでの生活も苦ではありませんでした」
「……本当に?」
クリストファーは潤んだ瞳をシェリーに向けた。
「本当です。私達は結婚後に少しずつ距離を近付けたとも思います。少なくとも私はそう思っていて、それで私は旦那様を好きになって……あ」
言ってからこれでは告白みたいだとシェリーは気恥ずかしくなった。
シェリーはゆっくりと夫を好きになったのだ。
気持ちはじんわりと確実に大きくなった。
初対面で夫の静かな佇まいと控えめな優しさに触れた時から、好きになることは決まっていたように思う。
記憶喪失前の夫にこの気持ちを告げたことはない。
お飾りの妻にこんな気持ちを抱かれては迷惑だろうと、心の奥底にしまっていたのだ。
それなのに落ち込むクリストファーを見てうっかり告げてしまった。
「ほ、本当に?」
クリストファーはみるみる顔を赤くして聞いてきた。
この問いはきっと“好きになりました”についての問いだ。シェリーはクリストファーから顔をそらして、それでも何とか肯定の返事はした。
「本当です」
クリストファーからじわじわと喜ぶ雰囲気が伝わってきて、シェリーはますます恥ずかしくなった。
「シェリー、こっちを向いて」
「…………」
そっと顔を戻すと、頰を染めたクリストファーと目が合う。
「へへ、嬉しいな、嬉しいよ。昔の僕もきっとシェリーが好きだったと思う。もしかしてさ、実は僕はシェリーにこっそり恋をしてたんじゃない? それで婚姻を申し込んだのかな。やり方はどうかと思うけど、それならまだ」
「それは違うと思います。旦那様は仕方なく私と結婚したはずなんです」
ここは夫のためにもと思い、シェリーはきちんと否定しておいた。
ライデンの後押しもあっただろうが、夫は名目上の妻が欲しかっただけなのだ。
辺境から戻った若き次期侯爵。冷たい様子だが騎士服姿は凛々しく戦争では活躍もした美丈夫。
王都の社交界ではかなり目を引いただろう。おまけに婚約者も恋人もいないとなると、縁談の話は散々舞い込んだはずだ。
実際、結婚してしばらく経ってから参加した城の戦勝パーティーで夫はたくさんの注目を浴びていた。
だが夫はそういった社交を続けることは難しかったのだ。だからさっさと何も言わない従順な妻が必要だった。
それだけだ。
「仕方なく? それは口外するなとあった侯爵家のことや結婚の経緯に関係あるの? ねえシェリー、口外してはいけないことって何?」
「それは、口止めされてますし」
「僕は本人だよ。口止めの対象じゃない」
「…………」
「シェリー、教えてほしい」
クリストファーがじっとシェリーを見てくる。
確かにクリストファーは当事者だ。
しかし、セレンデス家の事情はクリストファーの個人的なことに直結していて、それを記憶がない状態の彼に話すのは得策ではないとシェリーは考えた。
驚いて混乱し、もっと悪い状態になる可能性はある。
シェリーは迷った末に嘘ではない一部の事柄だけを伝えることにした。
「旦那様は、女性が苦手だったのです」
これは本当のことだ。
シェリーの答えにクリストファーはきょとんとする。
「そうなの? 今の僕は女の人は平気だよ」
「苦手になった理由までは知らないのですが、とにかく苦手とされてました」
夫の女性不信について、シェリーはその原因を予想はできていたが確認はしていないので、これも本当のことだ。
「騎士を目指されたのは、そのせいもあったと聞いています。騎士団には女性が少ないので」
「そうなの? その辺はあまり覚えてないな」
「何か辛いことがあったのかもしれません。忘れているなら無理な詮索はしなくてもいいかと思います。自然に思い出すのが一番ですから」
「……そうだね、手酷い失恋でもしたのかな。それにしても女性が苦手なのを口外しないって大げさだね」
「そうですね。でも知られたくないことは人それぞれですから」
「ふーん、そんなものかな」
クリストファーはとりあえずは納得したようだ。
シェリーは小さく息を吐く。
「次期侯爵ともなると、結婚しないわけにはいきません。周囲からの縁談の話も多く困っていたのでしょう。それで仕方なく私と……」
「立場の弱いシェリーを利用したんだね」
「そういう言い方はどうかと思います。家同士の都合です」
「でも女性が苦手だったなら、できるだけ僕の前に顔を出すな、とか言ったんじゃないの?」
「幸い、私に嫌悪はなかったようで旦那様は最初から優しくしてくれました」
「……それでだんだん僕もシェリーを好きになったのかな」
クリストファーはしばらく思案して自分の中で折り合いをつけたようだ。やがてとろりとシェリーに微笑んだ。
「女性が苦手だったなんて変な感じだけど、でもそのおかげでシェリーと会えたなら僕は嬉しいよ」
甘く優しい笑顔。
夫からは向けられたことのない甘い顔にシェリーは何とも言えない気持ちで微笑み返した。




