6.夫の計画的犯行
翌朝、シェリーが食堂に行くとクリストファーが穏やかな顔で着席していた。
「おはよう。シェリー」
「おはようございます。旦那様。もしかして待っていてくれましたか?」
「うん、侍女に聞くと僕とシェリーは毎朝、食事を共にしていたと聞いたから」
「時間が合えばですよ。わざわざ待っててもらうことはないんです」
「僕が待ちたかったからいいんだよ」
クリストファーが言い、シェリーは困りながらも席につく。二人で朝食を食べだした。
今日は改めて家令のウィルスをクリストファーに紹介して、セレンデス家の領地のことや爵位の手続きについて話を聞いてもらう予定だ。
それを伝え、場所はクリストファーの執務室でいいかと聞くと「執務室なんかあるんだ……僕は偉くなったんだね」と目を丸くしている。
素直に驚く様は可愛い。夫には一度も感じたことない感情である。
シェリーは少しドキドキしながら「旦那様は侯爵様なんですから、執務室くらいありますよ」と返した。
食事を終え、席を立つとクリストファーは部屋まで送るとシェリーに付いてきた。そして二人になると意を決したように口を開いた。
「シェリー、昨日はごめん」
「?」
何のことか分からずに首を傾げるとクリストファーが目を伏せる。
「僕の部屋であなたに口付けをしたこと。後から考えるとシェリーは戸惑ってたみたいだったから。出会って数日なのに急すぎたよね。いや、結婚してるんだけどね、でも今の僕とシェリーはまだ出会ったばかりで、それなのに体が自然に動いてしまった。後悔はしてないけど、反省はしてる」
謝罪するクリストファーの顔をよく見ると、目が少し赤い。ひょっとするとあまり眠れなかったのかもしれない。
クリストファーは自分の小さな身動ぎに気付いていたのだとシェリーははっとした。
(そういうところに気付くのは、一緒だわ)
夫もシェリーの小さな変化に気付く人だったのだ。
クリストファーの真摯な態度に、昨日感じた口付けの違和感がじわじわと溶けてゆく。
なくなりはしないけど、薄くなった。
「気にしていないですよ」
そう告げるとクリストファーがほっと息を吐く。
「よかった……でも嫌な場合はすぐに嫌と言ってね」
伏せられた目が上げられて、控えめな笑顔を向けられた。
シェリーは目を瞬かせた。クリストファーの言動がまた夫のものと重なったからだ。
『嫌なら早めに拒め』
結婚式の後の初夜、がちがちに緊張するシェリーに夫はそう言った。それから優しく口付けされて、壊れ物にするようにシェリーに触れてきた。
契約のこともあったが、既に夫に惹かれていたシェリーは拒まなかった。
愛の囁きはなく「痛むか?」「いいえ」以外の会話はなかったが丁寧な夜だった。
シェリーはぼんやりと初夜を思い出しながら一旦自室へと戻った。
その後、当主の執務室でシェリーはウィルスとともにクリストファーに当主の仕事についてざっくりと話をした。
「けっこうな量だね……こなせる自信はないな」
一段落したところで、げんなりするクリストファー。
「現在は旦那様の叔父上、ライデン・タンデス伯爵がセレンデス家の領地管理の半分を担ってくれていますが、それについても折を見てこちらに移してもらうつもりです」
ウィルスが淡々と追い打ちをかける。
「ウィルスさん……僕を追い込まないでよ。まだ半分もあるのか、すごいな。そして叔父上はそんなにもやってくれているんだね」
「旦那様が戦争中に侯爵家を空けていた間は、伯爵がほとんどを担っておられました」
「ええっ、シェリー、今のは本当なの?」
驚くクリストファーに聞かれてシェリーは頷く。
「勤勉で真面目な方なんです。お姉様、先代の侯爵夫人に深い親愛の情を寄せてらして、我が家のことも親身に考えてくれる方です」
寄せられるライデンの情はかなり限定的で、親身になる対象にシェリーは入っていないが、それはクリストファーには関係のないことだ。
ライデンが姉の忘れ形見となったクリストファーを大切に思っていることは事実で、シェリーはその点についてはありがたいと思っている。
「うん、叔父さんの為人は知ってるよ。でもほとんどを担ってくれていたとは知らなかったな……これからは僕が頑張らないとダメだね」
クリストファーの顔が引き締まる。
「後見を外す手続きもありますし、タンデス伯爵は旦那様が落ち着いたら一度セレンデス家にお越しになる予定です。できればその時に残りの半分の引き継ぎもしたいです」
ウィルスの言葉にクリストファーはたじろぎ「が、頑張るよ」ともう一度繰り返した。
そうして、それなりに穏やかな日々が過ぎる。
シェリーは病院通いで溜まっていた帳簿の処理を片付け、クリストファーはウィルスに仕事を学びだした。
昼食はばらばらで摂ったが、朝と夜の食事は夫婦で摂るようにした。
クリストファーは一日のことや、病院でやっていたリハビリについて楽しそうに話してくれる。
夫の顔で饒舌にされるのは変な感じだったが嫌ではない。
また、シェリーはクリストファーの自分への眼差しに熱を感じる時もあった。夫からはなかったものだが、そんな風に見つめられるのも嫌ではなかった。
❋❋❋
その日、シェリーは自身の執務室で帳簿をつけ、セレンデス家の領地管理の一部の仕事をしていた。
こじんまりとした彼女の執務室は結婚の一ヶ月ほど後に夫より贈られた部屋である。
セレンデス家に嫁いできたシェリーは無事に初夜も済ませ、名実ともにクリストファーの妻となった後、やることがなかった。
シェリーに与えられた役目はクリストファーの妻として、ただひっそりと屋敷に存在するだけだったのである。
夫は時間が合えば朝食を共にしてくれたが、この時の夫は王都の騎士団に騎士として勤めていたので一緒に食べられるのは週に二回ほど。
そしてそれ以外のシェリーの予定はなかった。
行動に若干の制限はあったが、外出を禁止されてるわけではない。外に行こうと思えば行けたのだ。
だが、シェリーは元々出不精だったし、田舎の貧乏な男爵家育ちで王都には知り合いは一人もおらず街にも不案内だ。必然、屋敷に引きこもることになる。
自室で本を読んで過ごしてはいたが、一ヶ月もせずにシェリーは時間を持て余した。
そこでシェリーは侍女長に事務的な雑務を手伝いたい旨を申し出たのである。
実家の男爵家では掃除洗濯もやっていたのでそちらを手伝うこともできたのだが、体面上は女主人の自分がそれをしてはダメだろう。
シェリーは読み書きは普通にできるし、算術もできなくはない。
侍女長はシェリーの申し出に困惑していたが、手伝いはありがたいとも言ってくれた。
夫に相談してからになるとも言われて、このことはすぐに伝えられたようだ。
「君が働く必要はないのだが」
渋い顔の夫はそう言い、シェリーは頑張って暇なのだと主張してみた。とても暇だったのだ。
「本を読むのが好きだと聞いた」
これには一日中は読めないと返す。返しながら自分の趣味を知ってくれているのが嬉しかった。
「…………そうか。それなら、頼む。うちは使用人が少ないから助かる」
夫は折れてくれて、仕事は自分が教えるとも言ってきた。
そして次の日にはシェリー用にきちんとした執務室を整えてくれたのだ。
(この文箱も、旦那様が後から揃えてくれたな)
領民からの要望書や仲裁の希望書を読んで、内容を簡単にまとめて箱に仕分けしながらシェリーは思う。小さなことに気がついて準備してくれる人だった。
(そういえば、手荒れも気にしてくれてた……)
夫はシェリーに自室に用意しているクリームや香油はあなたのものだから遠慮なく使え、と懇々と諭してきた。
手が荒れていたのは、嫌がらせにより掃除のされない自室の掃除を続けていたからなので、クリームは関係なかったのだが。
「…………」
シェリーはここで、もしかしたら夫はシェリーの手が荒れていることから嫌がらせに勘づいたのかもしれないと気付いた。
「もしかして……あの突撃はわざと?」
掃除中にいきなり部屋にやって来られたのを思い出す。
シェリーは突然やって来た夫に『何をしている!』と問い詰められ、嫌がらせされているのを白状することになったのだが、あの時、夫はノックの後にこちらの返事を待たずに扉を開けて踏み込んできたのではなかったか。
(旦那様は私が掃除してるのを見計らって踏み込んだんだわ)
あれは夫の計画的犯行だったわけだ。
シェリーは一瞬、ぽかんとしてから笑ってしまった。
「ふふっ、白々しく『何をしている!』なんて言ってたのに」
演技だったのだろう。普通にシェリーに聞いてもはぐらかされると考えたに違いない。でもきっと自分は、はぐらかしただろうから責められない。
「ふっ、ふふふ」
一人でそうして笑っていると、その時のようにばあんと扉が開いてシェリーの笑顔が引っ込む。
まさか、と息を呑んで入り口を見ると、「シェリー!」と悲痛な声で叫びながらクリストファーが入ってくる。
やって来たクリストファーの顔は青白く、その目は涙目だった。




