5.違う口付け
それは、一年と少し前ーー
「金で買われた女でしょ」
小さな囁き。でもシェリーに聞こえるぎりぎりの大きさだ。
結婚式と披露宴を終え、セレンデス家にやって来たシェリーが玄関ホールで言われた言葉。夫はちょうど出迎えた家令に部屋についての確認をしていて少し離れた所にいた。
その誰かの囁きは、シェリーにだけ聞かせるためにされたものだった。
(大丈夫、分かっていたことだわ)
シェリーはふうと息を吐き、顔に微笑みを張り付けて夫と家令が話し終わるのを待った。
❋❋❋
クリストファーとともに屋敷に入ると、家令のウィルスと侍女長、数人の侍女達とコック、フットマンと庭師が迎えてくれた。
「おかえりなさいませ。旦那様、奥様」
温かみを感じる声。一年と少し前にシェリーがここに来た時とは明らかに違う。
クリストファーが記憶喪失だということは前もって伝えているのでシェリーはクリストファーにそれぞれを簡単に紹介してから、彼を二階の当主の部屋へと案内した。
「何だか、馴染みはないなあ……ここで過ごした記憶はあるはずなんだけどね」
部屋をきょろきょろと見回したクリストファーは、浴室や窓からの眺めを確認する。
「シェリーの部屋はどこなの?」
「私の部屋はこの階の東の端の部屋です」
「隣じゃないの?」
「隣は気を遣ってしまうだろうと旦那様が配慮してくれたのです。私達は顔合わせと一度の外出だけで、すぐに結婚だったので」
「そう……東の端って、どんな部屋?」
クリストファーがシェリーの顔を窺いながら聞いてくる。
「広くて素敵なお部屋ですよ。朝日も入りますし、元々は一番よい客室だったようです」
「本当に? 変な話なんだけど僕は昔の僕がシェリーを冷遇してたんじゃないかと疑っているんだよ」
「ふふ、本当に良い部屋ですよ。見に来てもらっても構いません」
真面目な顔のクリストファーにシェリーが笑いながら言うと、クリストファーは「それなら」とシェリーの部屋を見に来た。
日当たりがよく、女性らしい内装で統一された部屋を確認したクリストファーは安心したようだ。
「ちょっと昔の僕を見直したよ。ちゃんとしてたんだね」
「ええ、優しくしてくれました」
「ひょっとしたら、昔の僕はシェリーに意地悪してたのかと勘ぐってたんだ。ほら“お前を妻とは認めない、使用人として働けー”とかさ」
クリストファーは“使用人として働けー”の部分は悪役ぶった声色にしておどけた。
「そんなこと、言われてませんよ」
「うん。安心した。ところで屋敷の使用人はさっきの出迎えの人達で全員なんだよね、少なくない? 特に侍女が数人ってやっていけるの?」
「……先代の侯爵夫妻の時はもっと人数がいたのですが、私達夫婦二人だけになってからは侍女は最小限なんです」
シェリーは内心、侍女の少なさを指摘されてどきりとしながらもすらすらと答えた。
セレンデス家の侍女の人数は確かに少ない。侯爵という位を考えると異例の少なさだ。
先代が亡くなった時に辞める人が多かったのと、それを積極的に補うことをしなかったせいである。クリストファーの叔父のライデンはセレンデス家の事情を考慮して、人を増やしたがらなかったのだ。
加えて、元々少なかった侍女をクリストファーがシェリーとの結婚の二ヶ月後に数人解雇した。
解雇された者達はシェリーへ不遜な態度を取り、嫌がらせをしていたのである。
されていた嫌がらせは、シェリーの部屋の掃除をしなかったり、風呂の湯の用意をしなかったりといったもので、実家で自分の身の回りのことはやっていたシェリーにとっては痛くも痒くもないものだった。
夫の不在時に部屋で食事を摂ろうとすると、とても食べられないようなものが運ばれてきた時は少々参ったが、それだって家令や侍女長の目のある食堂に行けば解決したのでそんなに苦でもなかった。
あとは小さな悪口だ。
一連のことに心に苦いものは溜まったが、それだけだった。
だからシェリーは特に告げ口もせず淡々と過ごしていたのだが、ある日、夫がシェリー自らベッドリネンを変えて部屋を掃除している時に入ってきたのである。
窓を開け、シーツをはがし、気合を入れて拭き掃除までしていたので誤魔化しようはなかった。
「どういうことだ。説明しろ」
すごい気迫で問い詰めてくる夫。夫があんなに怒ったのを見たのは初めてでとても怖かった。
「洗いざらい、吐け。嘘や誤魔化しは許さない」
完全に尋問口調の夫に震え上がったシェリーはされていた嫌がらせを全て伝えることになる。
人物名は憶測になるので勘弁してほしいと懇願して免除してもらったのだが、そこはさすがの騎士。
夫はあっという間に犯人の侍女数人を突き止め、とても冷ややかに彼女達に解雇を告げて紹介状も出さなかった。
侍女長と家令を厳しく叱責するので、シェリーが慌てて止めると苦い顔で「俺も同罪だな、すまない」と謝られた。
その後、抜けた侍女の補充は見送られた。
元々、信頼できる者達しか雇用していなかったのに、その信頼していたはずの侍女達が今回のようなことを起こした。夫も家令も侍女長も新規の採用には非常に慎重になったのだ。
人は減ったが、シェリーにとっては実に平和な日々が訪れた。
嫌がらせがなくなり思っていたよりもずっと気持ちは楽になった。同じ屋根の下で一方的な悪意を向けられることはしんどいことだったようだ。
減った人数分の仕事については、侍女長と業務の見直しをして仕事自体を減らした。
使用していない部屋のリネンの交換をしていたり、屋敷中の花瓶に花を飾っていたりと無駄も多かったのだ。
そういうこともあって、今も人員の補充はされていない。
でもその一連の流れを今のクリストファーに説明するのはやめておきたかった。
そもそも、先代の死後に人を補充しなかったセレンデス家の事情について触れていいのか分からなかったし、シェリーへの冷遇を疑って胸を痛めているクリストファーにこれ以上、余計な心配はかけたくない。
「大人二人では世話することもないでしょう?」
笑いかけるとクリストファーは納得してくれたようだ。
「確かに僕は離れでの生活が長かったから、全部自分でできるしね」
うんうんと頷く。
「それにシェリーも手がかからなそうだ」
微笑みながら付け足すクリストファー。
「もちろん、かかりませんよ。私だって立派な大人です」
胸を張って返すとクリストファーの笑みが深まった。
「ふふ、それもそうだけど、シェリーはあんまり着飾ったりもしなさそうだよ。“あの帽子を持ってきて”とか“このドレスの丈を調整してちょうだい”とか言わないんだろう?」
「言いませんね」
「買い物もほとんどしない?」
「得意ではないです」
「お茶もあんまりしないんじゃない? 僕には分かるよ、あなたはきっと一人で本とか読むタイプだ」
「ご名答ですね」
過去に嫌がらせをしていた侍女達は、できることが少なかったに違いないとも思う。
「僕はまだシェリーとは数日の付き合いだけど、シェリーのことが何となく分かるんだ。そしてシェリーのそういう所を好ましいと思っている」
クリストファーは切なそうに目を細めた。
「この部屋を見ると、過去の僕もシェリーを好きだったみたいで安心した」
「それは、分かりませんけど」
遠慮がちに否定したシェリーをクリストファーが覗き込む。
「記憶が戻れば断言してあげられるんだけどな、でもたとえ記憶が戻らなくても僕はシェリーを好きになると思う」
青い瞳がシェリーを射抜いた。
まっすぐに想いを伝えられてシェリーはドキドキした。顔が赤くなるのが分かる。
「可愛い」
クリストファーの顔が近づく。唇にそっと柔らかいものが触れて、口付けされたのだと気付いた。
それは夫からのものではなく、知らない人からの行為のように感じて、シェリーはほんの少しだけ身動ぎした。
その後、再びクリストファーの部屋へと戻り不自由がなさそうなのを確認する。
夕食はお互いに部屋で簡単に摂りましょうと提案すると快諾された。疲れているのだろう。
シェリーは一人で自分の部屋へと戻った。
「…………ふう」
一人になったシェリーはぼんやりと窓際の書き物机に座って頬杖をついた。
あまり行儀はよくないが、ここ数日はかなり目まぐるしかったから大目に見てほしい。明日からもしばらくは忙しそうだ。
(……旦那様は私を好きだったかしら?)
ふと、部屋を見回して先ほどのクリストファーの言葉を思い出す。
ここは夫が用意してくれた部屋だ。自分への配慮は伝わってくるが、好意はどうだろうか。
思いやりの対象ではあったと思う。
顔合わせで「君はただ、与えられた役割をこなしてくれればいい」と冷たく言い放たれた時と比べれば、結婚して一年経った頃の夫はかなり変わっていたとも思う。
最後の出征の際には、不安そうな顔をしてしまったシェリーを優しく抱きしめてもくれた。
「すぐ終わる。必ず戻る」
そうも言ってくれたのだ。
「…………」
シェリーは鼻の奥がつんとしてくるのを感じた。じわりと視界がにじむ。
「…………必ず戻るって言ったじゃないですか」
自分の小さな声が部屋に響いた。




