4.乳母
病院で行われた知能テストによると、クリストファーの知能は十分に大人と言えるものらしい。また貴族のマナーについても問題ないという。
ただ、社交界についての知識には抜けが多くかなり曖昧なようだ。
これらを踏まえ、医師は年齢の退行についての断言はできないが、適切なサポートを受ければ当主としての責務は果たしていけるだろうとシェリーに伝えた。
シェリーはひとまずは安心してクリストファーの病室へと向かう。今日は退院の日でこれから二人でセレンデス家へと帰るのである。
「やあ、シェリー」
部屋に現れたシェリーにクリストファーが笑顔を向けてきた。
この二日で、夫の顔から繰り出される慣れない柔らかな笑顔にもずいぶんと慣れている。
「荷物はまとめておいたよ。後は出るだけかな? ごめんね退院の処理とかを任せっきりにしてしまって」
「いえ、旦那様はリハビリやテストをこなすのにお忙しかったのですから当然の」
「シェリー」
クリストファーが硬い声でシェリーの言葉を遮る。
「はい」
クリストファーに向き直ると彼は悲しそうともとれる険しい顔をしていた。
「前から聞きたかったんだけど、僕は、君に……使用人のような態度を強いていたのだろうか?」
「えっ?」
「君は二人きりの時も僕のことを“旦那様”と呼ぶよね? もちろんそういう夫婦もいるとは思うんだけど、ずっと敬語だし、僕に気後れしているようにも思えて」
クリストファーの眉がどんどんと下がる。シェリーは慌てて説明した。
「そんなことはありません。あなたから何かを強要されたことはないんです。これは私の癖というか、遠慮というか、ほら、私達は家同士の都合による結婚でしたから」
「そうか、よかった……………はっ、もしかして、僕もシェリーに対して敬語だったのかな? ご、ごめんね、いきなり馴れ馴れしかった? びっくりしてたんじゃない?」
今度はクリストファーが慌て出す。シェリーから自然に笑顔がこぼれた。
「大丈夫ですよ。旦那様は私に対して敬語ではありませんでした」
「そうなの?」
「ええ、少し偉そうでしたよ」
夫はいつもシェリーを“君”と呼んだ。部下に対する“君”の呼び方で。
でもシェリーはその呼ばれ方が嫌いではなかった。続く言葉は“寒くないか”や“不自由はないか”でいつもシェリーを気遣ってくれていたからだ。
「えっ、偉そうだったの? それはどうかと思うな。シェリーの方が年上なんだよね?」
「……思い出したのですか?」
シェリーの心臓が跳ねる。
シェリーはクリストファーより二つ歳が上だが、それを記憶喪失の後に話したことはないはずなのだ。
「いや、そんな気がしただけ。シェリーはとても落ち着いているからそうかなって」
「そう……ですか。当たっていますよ。二つ上なんです」
「姉さん女房だったのかあ」
「私が頼ってばかりでしたけど」
帳簿のことや家の差配について丁寧に教えてくれたのは夫だ。
シェリーがつけた帳簿を後ろから覗き込んで教えてくれる時は、何とも言えずドキドキしていた。
「そうなんだ。記憶については確約はできないけど、当主としては早くに勘を取り戻して、シェリーに頼ってもらえるように頑張るよ」
クリストファーが言い、二人はセレンデス家へと戻った。
❋❋❋
「あれ? 本屋敷? あ、そうか」
侯爵家の馬車止めで馬車を降り、屋敷を見上げたクリストファーが呟く。
「どうかしましたか?」
「ごめん。離れに帰ると思ってしまっていたんだ。僕は十五歳まで離れにいたから。あ、暗い事情じゃないよ。兄の体が弱くてね、小さな子どもって加減を知らないし、いろんな汚れを持ち込むだろ、だから安全を期して僕は離れで暮らしてたんだよ」
「聞いています」
シェリーはそう応えた後、念の為にこう聞いた。
「その、ご両親とお兄様のことは知ってますか?」
「大丈夫。病院でもそれを心配されたよ。両親と兄が亡くなっていることはきちんと覚えているんだ。あまりにいろいろあってショックも大きかったからおぼろげなんだけど」
クリストファーはセレンデス家の次男である。
嫡男である兄は生まれつき体が弱く、肺の病も患っていた。頻繁に発作を起こす兄に侯爵夫妻は付きっきりでクリストファーは離れで乳母によって育てられたのだ。
そしてクリストファーが十五歳の時、兄の病状がますます悪化し両親は兄とともに空気の澄んだ田舎で過ごすことを決める。長男の最期の時をできるだけ安らかに迎えさせてやりたいとの思いからだった。
だが、不幸なことに行きの馬車が事故に遭い、三人は一度にあっけなく亡くなってしまったのである。
父の侯爵は一人っ子で縁者も少なく、一番近い頼れる大人はクリストファーの母方の叔父のライデンという男だった。駆けつけたライデンによって仮の爵位の手続きがなされ、クリストファーが次期侯爵となった。
その事情を考えたシェリーはここで、クリストファーは本当に記憶喪失なのかもしれないと思った。
(もしかしたら旦那様は本来はこんな風な性格だったのかも……環境の激変で性格が変わったのかしら)
シェリーの胸に希望の火が灯る。
「僕は天涯孤独の身で、だからシェリーが奥さんになってくれて本当に嬉しい。結婚した時の僕もきっと同じ気持ちだったと思うよ」
クリストファーが温かな笑顔でシェリーを見つめた。シェリーも笑顔を返すとクリストファーはそっとシェリーを抱き寄せる。
シェリーは夫はちゃんと戻ってきたのかもしれないと、その腕に身を任せた。
「突然ごめんね。そろそろ屋敷に入ろうか」
やがて身を離したクリストファーが言う。
「ライデン叔父さんとハイデ先生は家の中かな? まず挨拶しないとね」
歩き出したシェリーは続けられた夫の言葉にぎょっとした。
ハイデとはクリストファーの乳母の名前だが、クリストファー自身の口から乳母の名前を聞くのは初めてだ。
「えーと、お二人は……」
「あ、ごめん。間違えたね。ハイデ先生は実家の都合で辞めちゃったんだった。叔父さんは僕の騎士団入団と同時にご自分の家に戻られたんだよね」
クリストファーがえへへと笑う。
「そうです」
「少し寂しいな。特にハイデ先生は僕にとっては母親みたいな人だったから。両親と兄の死は悲しかったけど、ハイデ先生がいたから乗り越えられた……手紙を出してみようかな。僕は先生に手紙を送ったりしてた?」
問いかけられて背中がひやりとしたが、シェリーは何でもないように答える。
「どうでしょう。旦那様は昔のことはあまり話さなかったし、個人的なお手紙のやり取りは私では分かりません。家令なら知っているかもしれないので、聞いておきますね」
「家令?」
「ウィルスという人です。頼れる方ですよ」
伝えながらシェリーは、後で家令とハイデのことについて口裏を合わせておくべきだと考えた。
当たり障りなく音信不通になっていることにした方がいいだろう。
そしてそう考えながらシェリーは、やはり目の前のクリストファーは夫とは違うと感じてしまっていた。
夫から乳母の話を聞いたことは一度もないのだ。
「ウィルスさん、名前は知っている気がする」
「先代の侯爵様の時から仕えられている方です」
「それはかなり心強いな」
「明日、きちんと面談の時間を取りましょう。今日はゆっくり体を休めた方がいいと思うので」
「ありがとう。正直、体力は戻ってないみたいで今日のちょっとの移動だけでへとへとなんだ。休めるのは嬉しいよ。不甲斐ない夫で申し訳ない」
苦笑しながらクリストファーが言う。
クリストファーのその言葉にシェリーの頭の中で結婚式直後の夫の言葉が甦った。
『こんな欠陥品な夫ですまない。それなのに君の気持ちを考えないで利用する俺は、自分でもひどい男だと思う』
そう言った夫は皮肉な笑みだった。
その瞬間、シェリーはクリストファーが記憶喪失であることを強く願った。
記憶喪失なら目の前の男とシェリーが知る夫は同じ人物だ。そうであってほしいと願い、その願いに自分で驚く。
シェリーはぎゅっと手を握りしめた。




