3.上司と家令と侍女長
クリストファーは記憶障害のこともあり、あと二日入院するらしい。
ぽつぽつと治療のことや身の回りで必要なものを聞いてから、シェリーはまた明日来ると約束して病室を後にした。
「クリストファーの奥方だろうか?」
廊下に出たところで声をかけられる。壁に背を預けて騎士の身なりをした中年のいかつい男がシェリーを見ていた。
「……はい、シェリー・セレンデスです。あなたは?」
騎士ということは夫の職場関係者なのだろう。シェリーが警戒しながらもそう答えると男は破顔した。
「突然すまない。いやあ、会えてよかった。俺はゼフィルスという。辺境騎士団では副団長を務めていたんだ。今の所属は王都の事務方だが、クリストファーと同じく今回のことでは出征もしていた。この度はクリストファーがこんなことになり、奥方殿は戸惑っておられるだろう。心中お察しする」
ゼフィルスが嬉しそうに名乗る。知った名前だったのと、その笑顔が温かな様子だったのでシェリーはほっと力を抜いた。
「いいえ、生きて無事に帰ってきてくれただけで喜ばしいことです。ゼフィルス様には大変お世話になっていると先生より聞きました。ありがとうございます」
ゼフィルスの名前は先ほど夫の口からも聞いたが、医師からも聞いている。
記憶喪失らしいクリストファーを気遣って何度か足を運んでくれており、騎士団での諸々の手続きーー予定されていた退団のことや、今回の怪我への慰労金のこと、をクリストファーに変わってやってくれているらしい。
面倒見のよい上司だったようだ。顔はいかついが人柄は明るいようである。
「当然のことをしたまでだ。ところで少しよろしいだろうか。騎士団の書類で幾つか確認していただきたいところがあるのだ。その、今のクリストファーは何というか……」
ゼフィルスが言い淀む。シェリーは無言で頷いて場所を変えることを提案し、二人で病院の談話室へと向かった。
談話室で向かい合って座り、差し出されたのは退団に関する書類だった。
退団の処理や退職金のことに加えて、記録に残される経歴や授与された褒章等の確認。貸与中の騎士服の扱いなど細かく書かれている。
「クリストファーにこれらを見せても混乱するのではと思ってなぁ」
言いにくそうにするゼフィルスにシェリーは気にしていないのが分かるように頷いた。
「ええ、短い対面でしたが幼い印象を受けました。ゼフィルスさんもですか?」
「うーん……それはそう思う。だが俺は彼の仕事上の顔しか知らないからなあ。今回も、こんなに笑う奴だったのかとびっくりしたんだ……なんだか俺からすると別人のようで戸惑ったのだが、奥方の前ではいつもあんな感じだったのかな?」
ゼフィルスは悪戯っぽく軽い感じで聞いてきたのだが、シェリーは発せられた“別人”という言葉にどきりとした。
つい先ほど自分が感じたのと同じである。
「…………」
「あれ、違うのか? 出征中に奥方からの手紙を読んでいるあいつの顔は少し柔らかかったから、てっきり家ではデレデレしているのかと」
「そんなことは……もちろん、優しい人ではありますが」
シェリーはもごもごと答えた。
夫のクリストファーは確かに優しかったと思う。
分かりやすい優しさではなかったし、誰かに話せば「それって普通じゃない?」と言われそうだが、少なくともシェリーはそう思っているからこれは嘘ではない。
初めての顔合わせでセレンデス家の庭を歩いた時、慣れない靴に足を痛めてしまったシェリーに、クリストファーは無言で腕を差し出してくれた。
結婚前の一度だけあった外出中、ゴロゴロと鳴りだした空にシェリーが小さく肩をすくめると「雷が苦手なのか」とすぐにカフェへと入ってくれた。
結婚式の宴会でシェリーにお酒を注がれた時は、こちらを見ずに「酒は平気か?」と聞いてきた。シェリーが平気だと答えると夫は微かに頷いた。
どれも些細なことだ。クリストファーは無表情で労りや気遣いの言葉はなかったし、その行動はシェリーの失態を防ぐためだけのものだったとも取れる。
でもあちらからすれば、シェリーは押し付けられた鬱陶しい女であったはずで、だからそんな自分を気にかけてくれたのが素直に嬉しかったのだ。
それにシェリーは、クリストファーの態度や声にわずかな温もりも感じた。
冷めきったものになると考えていた結婚生活がそんなにひどくならないのでは、とほっとしたのをよく覚えている。
「ふーん、優しいか、そうか、そうか。やはり奥方の前では違うんだな。クリストファーは家同士の結婚だなどと言っていたが、仲が良いようでよかった」
ゼフィルスは満足そうだ。シェリーが歯切れ悪くなったのを恥ずかしがっていると取ったらしい。
無理に正すことではないので、シェリーは曖昧に笑っておいた。
それからゼフィルスは生死の境を彷徨ったような騎士で一時的に年齢の退行が起こった例を話してくれて、クリストファーの状態についても一度医師に相談をしておいた方がいいとアドバイスをくれた。
シェリーは礼を言い、書類の確認をした後は医師とも面会をして侯爵家へと帰った。
屋敷に戻ってすぐにシェリーは家令と侍女長を自室に呼ぶ。
セレンデス家の事情を全て知っている二人にクリストファーの様子を伝え、諸々の相談をした後、今後のことも話し合った。
「グイード先生に相談しますか?」
家令が長くセレンデス家の侍医をしてくれてる医師の名前を出す。
「そのつもりです。でもまずは旦那様に家に戻ってゆっくりしていただき、様子を見てからがいいと思っています。いきなりいろいろ告げると混乱するかもしれませんし」
シェリーが答えると家令は頷いた。
それから三人でまずやるべき処理について確認した。
クリストファーは今は母方の叔父、ライデン・タンデス伯爵の後見付きでの仮の爵位を持っているのだが、騎士を辞めた後はその後見を外すことにもなっていた。
そちらについては予定通り進めることで三人の意見は一致した。
ライデンへの連絡は家令が行ってくれることとなる。
シェリーは自分のことを駒扱いしているライデンは苦手なので、これはありがたい。ライデンの方でもただのお飾りの妻より信頼できる家令の方が満足するだろう。
これには侍女長もすぐに賛成してくれた。
この家令と侍女長は、金で買われた形で嫁いで来たシェリーに対してもずっと礼儀正しく接してきてくれた人達だ。
クリストファーが最後の遠征に出かけた際は、三人で侯爵家のことを切り盛りもしてきたので、シェリーは二人に対しては信頼できる上司や同僚のような心持ちでいる。
二人と話している内に、今回のことでじんわりと感じていた不安が和らぐのが分かった。
少なくとも、爵位の手続きや仕事に関しては何とかなりそうだ。
「侍女達を含め使用人には、旦那様が記憶喪失であるときちんと言い含めておきます」
いつも姿勢正しい侍女長が断言する。
「領地のことは私にお任せを。旦那様のご様子をみて少しずつ慣れていただきましょう」
ベテランの家令は淡々と言った。
シェリーは領地のことは今まで通り自分も手伝うと伝えた。
そうして解散となったのだが、部屋を去り際に侍女長が足を止めて振り返りシェリーを呼んだ。
「奥様」
「はい」
何か漏れがあっただろうかと緊張しながら返事をすると、侍女長は少し逡巡した後、気遣うような声でこう聞いてきた。
「大丈夫ですか?」
「え?」
シェリーは戸惑う。
侍女長の顔は心配そうに揺れてもいて、彼女のこういう顔は珍しい。
「お顔色が冴えないようです」
「ああ、ごめんなさい。女主人としてしっかりしてないといけないのに」
「いいえ、旦那様がこんなことになり動揺されるのは当然です。あまり気落ちされませんように。私は旦那様が旦那様であることに変わりはないと思っています」
侍女長はシェリーをまっすぐに見ながら続ける。
「旦那様と奥様の築かれた関係も、変わりはないでしょう」
シェリーはびっくりして侍女長を見返した。
かなり歳上の彼女は自分に対して礼儀は守ってくれているが、どこまでも事務的な関係だった。
こうして踏み込んでくるような発言は初めてだ。
(少しは私を認めてくれていて、しかも親身になってくれていたんだわ)
嬉しさがシェリーの中に広がる。
「ありがとう。大丈夫です」
シェリーは心からの笑顔を侍女長に向けた。




