10.ファレル
シェリーがファレルと初めて言葉を交わしたのは結婚して三ヶ月が経った頃、夜のシェリーの寝室でだった。
侯爵夫妻として初めて出席した夜会から帰った夜。寝支度をしていると乱暴に扉が開き、正装のままの夫が入ってきたのだ。
「あんたがクリスの奥さん?」
夫の外観をした知らない男はシェリーに近づくと不躾な視線を送ってきた。手には酒瓶を持っている。
夜会用の服は着崩されていて、酒と葉巻の匂いがしていた。亜麻色の柔らかな髪は少し乱れていて、青い目には鋭い光があった。夫の静かな青い目とは違う。
(旦那様の言っていた、もう一人だわ)
シェリーはきゅっと胃が縮む思いがした。
結婚前、顔合せの時に知らされた夫の病。それは一人の体の中に複数の人格が存在する心の病だった。
分かっている人格は二人。夫ともう一人だ。
今、目の前に現れているのは夫の二人目の人格なのだ。
シェリーは激しく脈打つ心臓をなだめるように息を吸った。
(落ち着いて、落ち着くよの、シェリー)
身を守るようにローブの襟をぎゅっと掴んでシェリーは男を見上げた。
知らない男と寝室にいることに足が震える。
「そんな怯えんなよ。あんたは俺の趣味じゃねえし、俺は女を共有するつもりはない。そもそも俺は商売女しかダメなんだ」
男がにやりと笑う。
「あんたの顔くらい知っとかねえと困るだろ? クリスの時の記憶はいちおうあるが、顔になると主観が入るから印象が違うんだよ」
クリスとは、シェリーの夫のことだ。
『俺はクリスと呼ばれている』
夫がそう言ったのだ。
「……初めまして、シェリーです」
襟から手は離せなかったが、シェリーは何とか声を絞り出して挨拶をした。男の表情が感心したようなものになる。
「へえ……初めまして、か。あのクソ叔父上より話が分かるんだな。俺はファレル」
シェリーは頷く。名前だけは夫から伝えられていた。男の名前がファレルだと知って足の震えが止まる。大丈夫、聞いていた男だ。
「ファレル様ですね」
「あ? 鳥肌が立つから様はやめろ、ファレルでいい」
「ファレル」
「そう、それでいい。因みに歳はクリスの六歳上だ。あんたは二歳上だってな。クリスから聞いた」
「…………」
同じ体の別人格同士は一体どうやって話すのだろうか、とシェリーは不思議に思う。夫にそういう突っ込んだことを聞いたことはない。
でも夫もファレルのことを幾つか知っていたから何らかの交流はあるのだろう。
グイード医師もクリスとファレルはお互いを認めて良い関係を築いているようだと言っていた。
騎士として成長していく過程で、上手くいくようになったようだとも。
クリストファーが十六歳で騎士の養成校に入ったのも、その後に辺境の騎士団配属を希望したのも、当時のクリストファーでは、社交界や王都ではまともにやっていけない可能性があったからだという。
精神的な疾患には偏見も根強い。全てを明かして社交界でやっていくのは無理があったし、何よりライデンも病を認めてはいなかった。
ライデンの強いアドバイスにクリストファー本人も同意した。
二人とも、閉鎖的な場所で関わる人が少ない方がまだ誤魔化しがきくのではと考えたのだ。
消去法で取られた選択だったのだが、養成校も辺境騎士団もクリストファーの病にとっては良い環境だったようだ。この期間でクリストファーはずいぶんと落ち着く。クリスとファレルの意思の疎通ができるようになったのはこの頃からだ。
今では、この二人は記憶や感情もそれなりに共有しているらしい。
「あんた、酒は飲めるんだろ? 少し付き合ってくれよ」
「あなたはもう飲んでいるようですけど、お酒臭いです」
シェリーが眉をひそめるとファレルは舌打ちした。
「煩えな、あんたと結婚してからはクリスの自我が強くて、こっちは久しぶりの外なんだ。寝て起きたらどうせまたクリスなんだろうよ、今晩くらい好きにさせてもらってもいいだろ」
「…………」
「あの医者にはもう一人とも仲良くできそうなら仲良くしとけって言われてんだろ?」
それはその通りだ。
グイードからは、危険がなさそうなら出来るだけコミュニケーションはとった方がいいと言われていた。
「な? 俺は荒事担当で大体いっつも面倒くさい時にばっかり外に出されるんだよ。たまには妻の酌付きでのんびり酒を飲んでもいいと思わないか?」
「お酌はしません。一杯だけならお付き合いします」
これでも立場は次期侯爵夫人だ。そして目の前の男は夫の顔をした別人だ。
酒場の女になるつもりはない。シェリーがきっぱりと言うと、ファレルはにやりと笑った。
「わりと気も強いんだな」
「普通です」
「金で買った田舎娘って聞いてたから、野暮ったくてしみったれた女かと思ってたんだが、けっこういいな」
ファレルの言葉にシェリーはびくりと肩を揺らす。たとえ外見が夫であってもこの男から好意は寄せられたくない。
「構えんなよ。あんたに手を出したらクリスに殺される。さ、座ろうぜ」
ファレルはソファをぽんと叩くと、シェリーを座らせて戸棚からグラスを二つ取り出し酒をついだ。シェリーは自分の分は水差しの水で薄める。
それから一時間ほど二人で飲んだ。
ファレルは上機嫌で騎士団での暮らしを語り、クリスについても話す。
その話はどれもシェリーの知らないクリストファーのことで、聞いているのはまあまあ楽しかった。
結局、翌日の昼過ぎに起きてきた男はファレルのままで、その日の夜にやっとクリスに戻った。
いつもの夫はすぐにシェリーの部屋へとやって来て『君、大丈夫だったか?』と聞いてきた。その目は珍しく揺れていた。
実はかなり不安だったシェリーは目が潤んでしまった。昼過ぎに起きてきたのがファレルだと分かった時は、もう夫に会えないのではないかと絶望もしたのだ。
思わずクリストファーに身を寄せると、夫はぎこちなくではあったが抱きしめてくれてシェリーはほっと息を吐いた。
❋❋❋
「私は、今の彼が本人格であることを恐れています。もしかすると、私が愛した人は幻のようなものだったのではと」
消え入りそうな声でシェリーはグイードにそう言った。
口に出してしまうと、漠然としていた不安は一気に大きくなる。シェリーは身震いして自分で自分を抱きしめた。
クリストファーとの一年ほどの結婚生活の中で、シェリーは何度かファレルと遭遇した。
ファレルが出てきて引っ込むまでの間は、短ければ半日、長ければ数日だった。
シェリーは最初こそ驚いたし、夫がいつ戻ってくるのかとはらはらしたが何度か経験していく内に少しずつ慣れた。
ファレルは粗野で言葉遣いは悪かったが、シェリーを傷つけるようなことはなかったからだ。
そしてファレルはいつもクリスを尊重していて、だからシェリーは自分が結婚したクリスが本人格なのだろうとも思って安心していたのだ。
グイードには“クリス”と“ファレル”の関係は良好で、近くにはシェリーという繋ぎ役までいるので徐々に人格の融合が進んでいくのではないかとも言われていた。
だからシェリーは夫の病についてはわりと楽観的に捉えていた。
そうしてシェリーは少しずつセレンデス侯爵家に馴染み、夫との距離も少しずつ縮まっていたのである。
シェリーは夫に心を寄せていたし、夫の方からも情のようなものはあると感じていた。
そこに突然現れた、記憶喪失だという夫。
でもあきらかに性格が違う。体質までもが違う。
この人は、夫が瀕死の重傷を負ったことがきっかけで出てきた第三の人格なのではないか?
病院で面会した時からずっと、シェリーはそう思っていた。
侯爵家に戻り、シェリー以外で夫の病気を知る家令と侍女長に相談した時、二人もその可能性は否定しきれなかった。
それからはいつもうっすらと不安だった。
ずっと引きこもっていた彼こそが、本当のクリストファーだったとしたら?
そう考えてしまったのだ。
記憶喪失以降は人格の交代も起こっていない。それは彼が本人格だからでは?
シェリーは自分の知っている夫がこのまま消えてしまうのかもと、とても怖かった。




