第16話
はるか高く晴天を切り裂き伸びる飛行機雲。
どこまでも続く青い空を眺めながら、凛子さまと私は空港のロビーに立ち尽くしていた。
「……なんだか疲れましたわね」
「……はい」
ぽつりと呟かれたお言葉に肯く。
眩い夏の陽射しとは裏腹に、ここだけ一足はやく秋が到来したかのような枯れっぷり。
凛子さまの瞳には光がない。そして、おそらくそれは私も同じ。
どちらも疲れきっていた。
もし魂なるものが実在するのなら、たぶん口から出て空港の天井あたりにプカプカ浮かんでいることだろう。
「いつものことだけど……お母様と一緒に行動すると、身体がいくつあっても足りないわ」
凛子さまの力ない呟きには、失礼だと理解しつつも同意せざるをえない。
今日、私たちは出張先に戻られる蘭香さまをお見送りにきた。
日本での滞在期間はわずか二日。
そのたった四十八時間弱の間に、買い物、テーマパーク、クルージング、プライベートビーチで海水浴のちバーベキュー、温泉に水族館と、およそ人の身で動ける限界の範囲外まで移動し尽くした。
交通渋滞? そんなものは自家用ヘリコプターで万事解決である。
この二日間で起きた出来事を日記に書いたとして、先生に信じてもらえるだろうか。どう頑張っても夏休み一ヶ月半のダイジェストだ。
基本的に九条宮の方々は散財をよしとしない。
では、どんな目的でお金を使うかといえば、それは『家族のため』である。
荒れ狂う嵐のごとき家族サービス。
溢れんばかりに注がれた愛情が渦を巻き、まばたきする間もなく家族を限界の向こう側へと運んでいく。
その先に見えるはニライカナイ。抜け出た魂の還る場所。
これはお忙しい蘭香さまの思いやりだ。そこに私も含んでいただけることは嬉しい。
とても嬉しいのだけど、もう少し穏やかでもいいのかな、と思わなくもない。
「ごめんなさいもう許してくださいごめんなさいごめんなさい……」
そして私たち以上にダメージを受けているのは間違いなく旦那さまであろう。
現在、ロビーの長椅子にて震えながら、見えないなにかにひたすら怯えておられる。
――今日までのダイエットの結果だった。
なんでも蘭香さまは愛する伴侶のため、早朝四時から一緒に起きて走りこんでいらしたという。おかげで旦那さまのお腹まわりは若干ながらスッキリしておいでだ。
限られた期間で確実に成果を叩きだす蘭香さま。
その行動力に感服せざるをえない。
二日間のお二人の睡眠時間を聞いて、まるでナポレオンみたいだな、と月並みな感想を抱いた。
「ほっほっ、御当主様は家族思いでございますな」
死屍累々といった九条宮家メンバーの中で、唯一元気なのが六十歳超えの笠井さんというのもいかがなものか。
「笠井さんは、どうしてそんなにお元気なのですか? ヘリの操縦もしておられたのに……」
「年の功というものでございますよ、千歳お嬢様」
年の功とは、そんなに便利な言葉だったろうか。
私の理想のおじいちゃんは淡々と嘘をつく。
「御当主様が幼少の砌には、お供として世界各国を駆け巡っておりました。それに比べれば随分と奥ゆかしくなられたものでございます」
…………あれでまだ本気ではなかったというのですか? 蘭香さま。
☆彡
いよいよ新学期がはじまった。
気温は夏と大差ないものの、九月というだけでなんだか秋めいた気配を感じる。
二学期は行事がめじろ押しで、生徒も先生もなにかと忙しい。
運動会に発表会。春に続いて秋の遠足などもある。
発表会はクラスで合唱と一般の小学生らしいものだ。しかし、運動会は球技で遠足が湖畔を散策と、やっぱり獅王院の行事は校風に違わず独特だった。
ちなみに、球技はテニス・クリケット・バスケからの選択制である。
クリケットなる競技を、私は獅王院にきてはじめて知った。
なんと正式な試合ではランチタイムやティータイムを挟むという驚きのルールがあるらしい。
なるほどお金持ちのスポーツだ。すごく貴族っぽい。
そのせいか運動が苦手な生徒の人気はこの種目に集中している。
運動会のおしらせが貼りだされた掲示板の前では、出場競技に関する相談の声があちこちから聞こえていた。
「優月ちゃんはどの種目に出ますの?」
「わたしは運動が苦手だから、クリケットかな」
「あら、ではわたくしたちと同じね」
「ちとせちゃんも?」
「はい。テニスは経験がありませんし……バスケは、その…………身体の上限的に……すごく、不利なので」
「ご、ごごごごごめんね!? 余計なこと聞いちゃったね?!」
ぐしぐしと袖で目元を拭う。
別に泣いてなんかいない。
「ちとせ、バスケなんてできなくても生きていけるわ。元気をだしなさい」
「凛子さま……」
その慰めはどうかと思います……。
「あ、千歳ちゃんだー。おーい」
たそがれる私を後ろから誰かが呼んだ。
聞き覚えのある声だ。
そしてすごくイヤな予感がする。
一瞬、スルーするという選択肢が頭に浮かんだけれど、それはさすがに無礼すぎるだろう。
おそるおそる振り返る。
「やっほー。元気?」
「……たったいま元気じゃなくなりました」
「わー、すごい眉間のシワ。こんなとき幼なじみとしてどんな顔でいればいいんだろう。ねえ、透。笑っていい?」
「黙れ宗一郎」
そこには、悲しくなるほど予想通りに、神楽崎と古町さまのデコボコ幼なじみコンビがいた。
「ちとせ、そちらの方はどなた?」
「神楽崎…………さま、のご友人で、古町宗一郎さまです。前に植物園で一度だけお会いしました」
「ちとせ、もうその様付けにはあまり意味がないと思うわ」
私も身体が拒絶反応を起こすレベルで敬称など投げ捨てたいのだけれど、そこは九条宮の側近として譲れないマナーがある。
――がんばれ、私の声帯。
「よろしくねー。九条宮さんと……芦葉さん、だっけ?」
「あ、は、はい!」
「ご存じなのですか?」
「うん。同じ学年の子の名前は大体ねー」
それはすごい。
私も顔はなんとなく把握しているけれど、名前まで一致させるのは難しい。
「千歳ちゃんたちは何に出場するの?」
「クリケットです」
「へー、それじゃあ僕と同じだ。あ、ちなみに透はテニスだよー」
「あら、神楽崎様はテニスを習っていらっしゃるの?」
「別に習ってはいない」
「透はどれを選んでも良かったんだよねー」
ほわほわした口調の古町さまが、よくわからないことをいう。
「どういうことですの?」
「うーん……なんていうか、こいつはものすごく器用なんだ。どんな事でも見様見真似ですぐ上手に出来ちゃうんだよね」
私は神楽崎を見た。
「……努力もせず手に入れた首位の座から見下ろす景色はいかがです?」
「頭の不具合の責任を俺に押し付けるな。お前が阿呆なのは全てお前自身のせいだ」
真顔でにらみあう。
そんな私たちを尻目に、「身近に血の気の多い人がいると大変だよねー」「ほんとうにねえ。あの二人を見ていると、なんだか威嚇しあうワンちゃんを思い出しますもの」「あっはっは! それは上手い例えだね!」と和やかな会話が交わされていたのだけれど、積極的に聞き流すことにした。
きっと幻聴だ。お優しい凛子さまが、私のことを犬扱いなどするわけがない。
「ちとせちゃんの成績で頭が悪いとか、わたしはどうすれば……」
そして、なんだか世界に絶望したような呟きも、申し訳ないけれど聞かなかったことにする。
どう対応すればいいかわからない。
そもそも彼女の成績は常に二十位以内だ。充分に優秀である。
芦葉さんの頭は決して悪くない。
神楽崎の性格が悪いだけだった。
……それより、さっきから視界の隅にチラチラと映る男子の姿が気になる。
息を吸いこんでは力を込め、けれども声をだす前に怖気づいては脱力する。
そんな挙動不審の見本みたいな行動を三十回ほど繰り返している彼は、かつて千尋の谷に突き落とされた桃嶋さまであった。
見た目は相変わらずチャラいままだけれども、どうやら少し成長されたようだ。
いま、彼は切り立つ崖を登りきらんと足掻いている。
その弱々しくも勇ましいお姿に思わず胸が熱くなった。
桃嶋さま。そこまで…………凛子さまのことを。
「……く、くじょうみや、さんっ」
ああ。
――ついに、桃嶋さまは試練の谷を登りきった。
「はい?」
「ヒッ!?」
――――が、滑り落ちるのも一瞬だった。
凛子さまがお返事すると、彼は足をもつれさせてその場で転んだ。
……その情けない姿に苛立ちを覚える。
想い人に声をかけられて怖がるとはなにごとか。
そもそもびっくりするのは凜子さまの方だ。
実際にビクッと肩を震わせて怯えておられるではないか。
いったい彼はなにをしにきたんだ。
無駄に主君を驚かされて側近が黙っているわけにはいかない。
一言物申してやろうと歩きだしたそのとき……お供の皆さんが、私の行く手を阻むように立ちはだかった。
「すまない、九条宮妹。もう一度。もう一度だけ、あいつにチャンスをやってくれ」
「モモはずっと緊張してた……それでも、伝えたいことがあってここまで来た。その勇気に免じて……お願いする」
そういって、彼らは頭をさげた。
……桃嶋さまは、よいお友達に恵まれたらしい。
お供の皆さんになんだか通じるものを感じた私は、とりあえず引きさがることにした。
「お前ら……」
震えていた桃嶋さまも、どうやら闘志に火がついたようだ。
すっくとその場で立ち上がり、大きく息を吸いこむ。
「――お、俺……てっ、テニスに出るので! 応援しにきてください!」
しん、と周囲が静まりかえる。
応援……それは、まあ、同じクラスなので、時間があれば行くだろうけれども。
なにか違う。
応援の要請とか、そういうのじゃなくて。
もっとこう……お友達になってください、とか。お友達になりましょう、とか。
凜子さまが喜びそうな申し出があったはず。
完全に調査不足である。及第点にはほど遠い。
――ちなみに、異性間でのアドレス交換はまだ早い気がするので、許可するつもりはない。
桃嶋さまの不用意な発言のせいで周囲の注目が集まっている。
その沈黙を打ち破ったのは…………なぜか硬直していたお供の皆さんだった。
「……うぇぇええええ!? お、お前っ、バスケ出るっていってたじゃん!?」
「バスケの応援に来てもらうんじゃねえのかよ!?」
「モモ、どういうこと……?」
「う、うるさい! 男には負けられない戦いがあるんだ!」
……なにやら内部分裂がはじまった。
そういえば、桃嶋さまたちはバスケをしているのだったか。
それがどうして急にテニスへの出場を決めたのだろう?
「と、とにかく! 俺はテニスに出る! 見てろよ!」
最後にこちらを指さして叫んだ桃嶋さまが人垣の彼方へ走り去る。
糾弾を続けるお供の皆さんも、慌ててそのあとを追いかけていった。
「……何だ、あれは」
「……さあ?」
私に聞かれても困る。
急展開すぎて考える暇さえなかった。
いまだにさっきのやり取りが理解できない私たちは完全に置いてけぼりだ。
……桃嶋さまは成長の仕方を間違ってしまわれたのだろうか?
せっかくよい環境に恵まれているのに、残念で仕方がない。
こうして、なんだかよくわからない波乱を巻き起こしつつ、獅王院付属小学校の新しい季節が幕をあけたのであった。