ヴィヴィ九歳(4)
馬車の中の空気は最悪だった。
会話などあろうはずもなく、ヴィヴィはひたすら窓の外を眺めていた。できるならマリアたちと一緒の馬車に乗りたかったが言い出せず大人しくフィリップと一緒の馬車に乗っている。
フィリップとの会話は馬車に乗り込んだ時の「フィリップお兄様、よろしくお願いします」「ああ」「なるべくご迷惑かけないようにしますね」「ああ」で終了した。後は何を話せばよいかわからない。ヴィヴィはひたすら窓の外を眺めた。
領地の屋敷までは十日ほどかかるという。十日もこの状態が続くのだろうか……ヴィヴィはフィリップに話しかけて少しでも打ち解けるよう努力したらよいか空気に徹するべきなのか思い悩んでいた。
昼食の休憩で馬車が停まった。まだ王都にほど近い小さな町だ。小さいが街道の要所にあるため人も多く活気づいている。
馬車が停まるとフィリップはさっさと降りた。ヴィヴィは一瞬途方に暮れたが従者のロータルが抱いて下ろしてくれた。
フィリップは昼食の指示をしていたが、チラッとヴィヴィを見てすぐ視線を戻し指示の続きをしていた。
「ヴィヴィ様、参りましょう」
昼食の店が決まったようでマリアが声をかけてきた。
ヴィヴィは嬉しくてマリアに沢山話しかけた。おしゃべりが止まらなかった。
記憶を失う前は知らないが、ヴィヴィはアウフミュラー家のお屋敷を出るのも、ましてや王都を出るのも初めてだ。
王都の街の活気ある様子や様々な店、王都を出た後の広々と広がる畑や農作業に励む人たち、遠くに見える山々の様子や街道をせわしなく行き来する馬車やのんびりと牛に引かれる荷車、空を飛ぶ竜の姿も一度見た。とにかく話したいことでいっぱいだったのだ。
マリアは身振り手振りを交えて話すヴィヴィを優しい瞳で見つめていた。
馬車では空気に徹し休憩や宿に着くとマリアを相手におしゃべりをして八日間、だいぶアウフミュラー侯爵領に近づいてきた。この八日の間ヴィヴィは数度フィリップに話しかけてみたのだが「余計なことはしゃべるな」と言われ口を閉じた。そのくせそう言った後、フィリップは後悔したような傷ついたような表情を浮かべるのだ。辛そうな顔のフィリップを見てヴィヴィは改めて空気に徹することにした。
今日は少し高い山を越える。この山を越えたところがアウフミュラー侯爵領である。
朝、馬車のところに行くといつもと御者が違っていた。
「あら? ラウルは?」
ヴィヴィの声を聞いて使用人たちの馬車の御者をしているマルクが近づいてきた。
「ラウルは昨日急病で街の診療所に行きました」
「まあ! 知らなかったわ! 大丈夫?」
「なあに、変な物でも食べたんでしょう。腹は痛がってましたけど治ったら追っかけますと言ってたから大丈夫ですよ」
「こちらの方は?」
「ちょうどラウルが具合が悪くなった時に食堂に居合わせたんですよ。診療所に行くのも手を貸してくれて。最近まで御者をしていてこの山も幾度も越えたそうです。昨夜フィリップ様に相談して臨時で御者として雇うことに決めたそうです」
マルクの言葉を受けてその男は二ッと笑って挨拶した。
「ゲルトだ。嬢ちゃんよろしく頼んます」
「おい、お嬢様と呼べ」
マルクの注意をゲルトは笑って受け流した。
「あーわかったよ。しっかし嬢ちゃんは別嬪だなあ」
「おい!」
マルクが再び注意したところで「出発するぞ。早く乗れ」とフィリップから声がかかりヴィヴィは急いで馬車に乗り込んだ。
今日はマルクに乗せてもらった。
しばらくは無言で馬車に揺られていた。
フィリップは寝たふりをしながら薄目でヴィヴィの様子を窺っていた。
ああ、まただ、と何度目かの後悔をする。
先日のドーリスの事件でフィリップはドーリスにまんまと騙されていたことを知った。侯爵家の嫡男ともあろうものがメイドに簡単に騙されていたなど恥以外の何物でもないが、フィリップは騙されていたかったのだとその後に思い至った。
フィリップにとってヴィヴィは我儘でメイドを折檻するような酷薄な娘でなくてはならなかった。
そうでないと憎めなくなる。エルヴィンも父もヴィヴィを可愛がっている。フィリップぐらいはヴィヴィを憎まないと母が可哀そうだと思った。
けれど毎日健気に挨拶をしてくるヴィヴィを憎めない。つい絆されそうになってしまう。だからヴィヴィは冷酷な娘であって欲しかった。
今はもうヴィヴィがそんな娘だと思えない。
ヴィヴィはオットーに頼んでいたのだ。「ドーリスにあんまりひどい罰を与えないでね」と。
だからフィリップは余計ヴィヴィにどう接していいかわからなくなってしまった。
混乱する頭と気持ちを落ち着けるために暫くヴィヴィから離れていたかった。
それなのに一緒に領地に行く破目になり、今こうして二人きりで馬車に揺られている。
そうしてヴィヴィに話しかけられる度に冷たい態度をとり、後悔して悶々とする。
その繰り返しだった。
ヴィヴィとフィリップの気持ちを他所に馬車は順調に進み、細い山道に差し掛かった時だった。
「馬がいうことをきかねえ! わあ!」
ゲルトの叫び声と共に馬車が無茶苦茶なスピードで走り出した。
ガッタンゴットンと酷い揺れでヴィヴィは手摺に掴まったものの翻弄され壁や床に叩きつけられそうになった。
フィリップが咄嗟に呪文を詠唱し障壁を張る。
やがて馬車はどこかに停まった。ふーっとフィリップは安堵のため息を漏らした。
「お兄様、ありがとうござい——」ヴィヴィが体を起こしながらお礼を言おうとしたとき、
ドンドンドン!! 乱暴に馬車の戸をノックする音が聞こえた。
「坊ちゃん! 嬢ちゃん! 大丈夫ですかい!」
フィリップが馬車の戸を開けながら答える。
「ああ、僕たちに怪我は無い。それよりここは———」
「チッ!」
……〝チッ〟?
「はあ……気絶でもしててくれれば手間が省けたのによ」
言うなりゲルトはフィリップの手を勢いよく引いて馬車の外に放り出した。そのまま馬車の中に踏み込んでヴィヴィを抱え上げる。外に出たところでフィリップが反撃しようとした。
「おおーっと」ゲルトはニヤニヤ笑ってそれを躱す。
フィリップがウォンド―—魔力を攻撃に変換する杖——を取り出したと同時にヴィヴィの喉元にナイフが当てられた。
フィリップが一瞬躊躇する。一瞬の躊躇で十分だった。フィリップは後ろから来た何者かに蹴られウォンドを叩き落された。
ゲルトは一人ではなかった。十人ほどの盗賊が二人を取り巻いていた。
「おい!あまり傷つけるなよ。その綺麗なツラの兄ちゃんも商品だ。
それからお前らは馬車を探れ! 金目のものはこの馬車に積んでるはずだ」
ゲルトの命令に盗賊たちが動き出す。
ゲルトが手を離したのでヴィヴィは急いでフィリップに駆け寄った。
「お兄様! 大丈夫ですか!?」
フィリップは後ろ手に拘束されながらもゲルトを睨みつける。
その時、遠くから馬の蹄の音と叫ぶ声が聞こえてきた。
「フィリップ様ーー! ヴィヴィ様ーー! ご無事ですかーー!」
五頭ほどの護衛騎士を乗せた馬がこちらに向かって走ってくる。
先頭は護衛騎士隊長のハーゲンだった。
「くそっ! もう追いついてきやがった! おい、お前ら、応戦しろ!」
盗賊の拘束が緩んだ隙にフィリップはヴィヴィの手を引いて走り出した。
護衛騎士と合流しようとしたが盗賊たちは弓矢を放ってきた。
すんでのところで方向を変える。
いつしか二人は崖に追い詰められていた。
盗賊たちが迫ってくる。
そこへハーゲン達護衛騎士が割って入った。
辺りは混戦模様になった。
崖際の木の陰に身を潜めようとした時だった。
ガラッ……フィリップの足元が崩れた。
ヴィヴィは反射的にフィリップの手を掴む。フィリップの体重に引きずられそうになり、咄嗟に木の股に自分の足を引っかけた。
崖際に生えていた木は根元で二つに分かれておりその股の部分に足を引っかけたのだ。
ヴィヴィとフィリップ、二人の体格差は大きい。九歳の女の子と十七歳の男性である。崖に投げ出されたフィリップの体をヴィヴィ一人で支えるのは無理だった。
ズズ……
ヴィヴィの体が引っ張られる。地面や木と擦れてヴィヴィの体は傷だらけだったが構っている余裕はなかった。
フィリップは夢中で崖にあるわずかな出っ張りを掴み、わずかな窪みに足を掛けた。
フィリップの体はヴィヴィに掴まった右手、わずかな出っ張りを掴んだ左手、わずかな窪みに掛けた両足、という不安定な体勢で崖にへばりついていた。
「お兄様! 大丈夫ですか?」
フィリップの頭の上からヴィヴィの声が聞こえた。
「大丈夫だ。ヴィヴィ、耐えられるか?」
「私は大丈夫です!」
ヴィヴィは健気に答えるも、この状態が長く続かないことは明らかだった。
フィリップは魔力を練り上げ、自身の赤竜を呼んだ。
詳しくは後に説明することになるだろうがこの国の成人——魔術学院を卒業した者——には契約を交わした一頭の竜がいる。
その竜は自らの魔力を介して呼ぶことができる。
フィリップは自身の相棒、赤竜のウルバンを呼んだ。
しかしウルバンがどこにいるかはわからないが来るまでに多少の時間はかかるだろう。それまでヴィヴィの体力が持ってくれとフィリップは祈る思いだった。
「うっっ!」
頭の上からうめき声が聞こえ、一瞬手の力が緩んだ。
フィリップはヒヤッとしたがすぐに力を込めて握られた。
「に……いさま……だいじょぶ……です……もうすぐハーゲン……たちが盗賊を倒して……駆けつけてくれます……もう少し頑張って……」
ヴィヴィの必死の声にフィリップも答えた。
「ヴィヴィ! もう少しだけ耐えてくれ。今、赤竜を呼んだ。あいつが来ればこの手を放しても大丈夫だ」
気の遠くなるような時間——多分実際はそれほど長い時間ではないが——が過ぎ、竜の咆哮が聞こえた。
ウルバンだ————
ウルバンは崖の近く、フィリップの下まで飛んでくる。
「ヴィヴィ! もう手を放しても大丈夫だ!」
手の力が緩むとともにフィリップはウルバンに向かって飛んだ。
ウルバンは難なくフィリップを背で受け止めるとそのまま崖上まで舞い上がった。
崖上に赤竜が姿を現すと盗賊たちは一目散に逃げだした。
崖上の開けた場所を探しウルバンを着地させるとフィリップは背から降りた。
護衛騎士隊長のハーゲンが駆け寄ってくる。
「フィリップ様、ご無事で何よりです。なかなか救出に向かえず申し訳ありませんでした」
「いや、よく駆けつけてくれた。盗賊たちは?」
「赤竜の姿を見て逃げ出しましたが、数名は捕えています」
「わかった。ヴィヴィは?」
「ヴィヴィ様は……」
数名の騎士が盗賊を引立ててくるのが見えたがヴィヴィはいない。急ぎフィリップは自分が落ちかけていた崖のふちに向かった。
そちらに向かうとすぐに倒れているヴィヴィの姿が目に入った。
「ヴィヴィ!」
フィリップは一目散に走りだした。
ヴィヴィの足、大腿のあたりに一本の矢が突き刺さっているのが目に入ったからだ。
ヴィヴィに駆け寄り矢に触れぬよう体を抱き起す。
一緒に駆け付けたハーゲンがヴィヴィの脈をとり言った。
「脈も呼吸もあります。気を失っているようです」
なんてことだ!!
フィリップは彼の手を握るヴィヴィの力が一瞬緩んだ時を思い出した。あの時うめき声も聞こえた。
———きっとあの時ヴィヴィは足に矢を受けたのだろう。
足に矢を受けながら、痛みの中でも懸命にフィリップを引っ張り続けた。
……こんな小さな身体で……
普段フィリップに対しては大人びた口調で話す。だからフィリップは目に見える姿が子供でも子供だということを忘れていた。
まだたった九歳の子供だということを……
抱き上げたその身体の小ささに、軽さに実感したのだった。
「失礼します」
ハーゲンが矢を短く切り、スカートを捲り上げると大腿の傷が露になった。
フィリップが矢を抜こうとするとハーゲンに止められた。無理に引き抜くと肉を抉ってしまうらしい。
「このまま固定して医者のもとに連れて行った方がいいと思います」
「わかった。馬車は使えるか?」
駆け寄ってきた護衛騎士に訊ねたが騎士は首を振った。
「駄目です。手綱も馬を繋ぐ綱もズタズタに切られています。馬も逃げてしまいました」
かといってハーゲン達の馬に乗せてヴィヴィを運ぶとなると傷に障ってしまう。
「私が馬で戻って馬車を連れてきます」とハーゲンが言った。
時間はかかるがそれが最善の方法だろうヴィヴィの体力が持つかどうかが心配だが……
ヴィヴィを抱き上げウルバンの元に戻るとフィリップはウルバンに言った。
「ウルバン、来てくれてありがとう。僕はもう少しここにいるからお前は戻るがいい」
ウルバンはフィリップを見つめグルルル……と鳴いた。
「ウルバン?」
ウルバンはフィリップを見つめる。
フィリップはウルバンが「俺の背に乗れ」と言っているように感じた。




