ジークハルトの遠征と失踪(5)
『身を挺して庇うような危険なことはするな』
『いつまでも加護があるわけじゃないだろ』
ああ、エルヴィンに怒られるなあ……と思いながらジークは崖を落ちていった。
騎士団の騎士服は衝撃や刃物から身を守るように薄い鋼が入れられているがジークは騎士服を着ていない。尾に撥ねられた身体は全身打撲で落ちる途中で痛みに気を失った。
イグナーツはジークが撥ね飛ばされると同時に飛び立ち上手く落下するジークの下に身体を滑り込ませた。
ドンとジークがイグナーツの背に落ちる。既に気絶していたジークが受け身など取れる筈も無く衝撃で右足にひびが入った。
おまけにイグナーツの背でも安定の悪い尾に近いところでジークを受け止める形になってしまっていた。イグナーツはジークを落とさぬよう慎重に低空飛行していたがズル……ズル……とジークは背から滑っていった。
ついにイグナーツの背からジークが落ちた。
ボッチャン!
落ちた先は川だった。流れが速くジークの身体は流されていく。
それでもイグナーツはジークを追って低空飛行し続けた。
途中川幅が狭く木がせり出して生えている場所は高く飛んで木を避けながらもイグナーツは追い続けた。
人のような手のないイグナーツにはジークを引っ張り上げることなど出来ない。
それでも咥えて飛べる場所がないかとジークを追い続けた。
やがて流れは緩やかになり浅瀬に引っ掛かりジークの身体は止まった。
イグナーツは慎重にジークの衣服を咥え岸まで引っ張り上げた。
人の身体は脆く竜の口は大きい。一歩間違えれば容易にジークの身体を噛み潰してしまう。
イグナーツは慎重に慎重にジークの身体を岸まで引っ張り上げた。
顔を嘗めるがジークが目を覚ます気配はない。
イグナーツはジークの顔を嘗め続けた。
一晩経った翌朝の事だった。
草を食みにイグナーツがジークの傍を離れ河原に戻ってくるとジークが消えていた。
イグナーツはうろうろとその辺を飛び回ったがジークの魔力は感じなかった。
ジークが呼んでくれればイグナーツはジークの元に行くことができる。でもその気配は無かった。
イグナーツはジークを見失ったこの場所でただじっとジークを待っていた。
「ん……うう……」
気が付くと同時に全身の痛みが襲ってきた。
ジークは自分が清潔なベッドに寝ていることに気が付いた。
(僕はどうしたんだ……? どうしてここに……?)
朦朧とする頭で考える。部屋の隅に人の気配があった。
「あんれ、気が付きましただか」
ひょいと目の前に顔が現れた。人のよさそうな中年の女性、メイド服を着ている。
彼女はドアを開けて外にいる人物に何か告げた後ジークの傍に戻って来た。
「ここは? 僕はどうしてここに?」
喋ったつもりだった。でも喉が酷くかすれ実際にはうめき声のようなものが出ただけだった。
「無理に喋らない方がいいですだ」
中年の女性はしゃべりながらもかいがいしく世話を焼いてくれる。
ベッドの傍にカップに入った飲み物を持ってくるとジークの身体を少し起こし背中に枕を入れた。そうして少しづつカップの中の飲み物をスプーンでジークに与えた。
飲んでみると蜂蜜の入った薬湯のようなもので常温に冷まされたそれはジークの身体に染み渡った。
カップ一杯を呑み切るころにはジークの頭も正常に働き出し最後の記憶を思い出していた。
といっても最後の記憶は崖から落ちる自分だ。どうやら助かったらしいがどうして助かったのか、ここがどこなのか、あれからどのくらい時間が経ってどうして自分がここにいるのか……わからないことのオンパレードだった。
とりあえず自分は手当てをされているようだ。ということはここの主人……誰かはわからないが、は自分をすぐに害する意思は無いということだろう。
しかし目の前の女性は僕が目覚めてすぐにドアの外の人物に知らせていた。
ということはドアの外に常に人がいるということだ。監視が付けられているということだろう。
次に自分の身体をチェックする。全身が痛い。魔獣の尾に撥ねられた時の打撲だろう。
特に右足はひびが入っているか骨折しているか……これでは立って歩くこともましてや逃げることなど出来そうもない。それに全身が酷く怠い。少し頭がボーっとして発熱しているようだ。
これでは逃げ出すことはおろかこの部屋から出ることも難しいな、と心の中で苦笑した。
部屋はとりわけ豪華なわけでもないが粗末なわけでもない。華美な装飾などは無いが居心地のいいベッドと清潔なシーツ。ふかふかの掛布団と枕。ジークが着ている夜着も余分な装飾などないが着心地はよかった。
少なくとも平民の家ではないな、とジークは考えた。
薬湯を飲み切ったころ部屋にノックの音がした。
メイドの女性がドアを開ける。
入ってきたのは穏やかそうな顔つきの壮年の男だった。
壮年の男はジークのベッドの傍らにある椅子に腰かけジークの顔を覗き込んだ。
顔つきは穏やかそうだが目つきは鋭かった。口元に笑みを湛えながら鋭い目つきでジークを観察していた。
「やあ、目が覚めたようだね。君は高熱を出して三日も意識が無かったんだよ。おまけに全身打撲に右足にはひびが入っている。どこで何をしたらそんな怪我をするんだろう」
少しも笑っていない目で、口調だけは快活にその男は言った。
「あ……う……」喉の調子を確かめながらジークは思案していた。何をどこまで話せばこの男は納得するだろう? 少なくとも自分の身分は伏せておかなくてはならない。
コホンと小さく咳をしてジークは口を開いた。
「それが……僕にもよくわからなくて……記憶が混濁してて思い出せないのです。あの……どうして僕はここにいるのでしょうか? ここはどこですか?」
「そうか、記憶が……ね」
全く信じていない口調で男は言った後少し目を瞑った。
再び目を開いた後、男は話し始めた。
「私の名はラーシュ・シュトレーム。身分的には子爵だがトシュタイン王国の北東部、旧ゲレオン王国の東部を治める豪族といったところだな」
ジークは驚いた。この男はこの地域の領主だ。領主ともなればこの地域に起こったことの情報は入っているだろう。トシュタイン王国の王宮での出来事も耳に入っているはずだ。いかにも怪しいジークに対してあっさりとこの男は自分の身分を明かした。
これは何を意味するのだろう……考えろ。自分の目的は無事にヴェルヴァルム王国に帰ることだ。こっちの身分を明かさずどうにかしてここを抜け出しイグナーツを呼ぶ。または自分を捜索しているであろう竜騎士隊と連絡をとる。
その手段を得られるまで何とかして目の前の男を欺かなければならない。
表情は変えないままジークは気を引き締めた。
目の前の男、ラーシュはのんびりとした調子でジークに尋ねた。
「君の名前は?」
「ジ……」
「ジ?」
「ジル……です」
「……そうか」
「三日前、ここより少し南東にある我が領の町が魔獣の大群に襲われた」
どうしていきなりそんな話を始めたのだろうと訝しく思いながらもジークは黙っていた。
「町は壊滅的な被害にあいその大群の進路に当たるところは全て被害を被るだろうと思われた。もちろん私は報告を受けてすぐに兵士を招集し魔獣退治に向かわせたが町の一つや二つは既に潰されていることを覚悟したし一度の派兵で退治しきれないことも予想できた。私が近隣の領主や王都に派兵の要請をしようかと迷っているときに兵士の一人が報告に戻って来た」
一息ついてラーシュは微笑んだ。
「どこからともなく竜の大群が現れ竜に乗った御使い様たちが魔獣の大群を追い払ってくれたというものだった」
「御使い?」
「町の人達の証言では金の髪で青い瞳の神々しいまでに美しい竜神様の御使い様は漆黒の竜に乗り魔獣の群れをあっという間に撃退してくれたそうだ。そうして魔獣の向かった先に村があると知ると配下の御使い様と共に颯爽と竜に乗って去っていったそうだ」
そこまで話してわざとらしく驚いたようにラーシュは言った。
「なんと! 君も金の髪に青い瞳なのだな!」
「……偶然でしょう」
一応ジークはそう言ったが信じるとは思えなかった。
「まあいい。そこで私は数名の兵士を偵察に出したんだ。予想した通り峠の付近で魔獣たちの大量の死体が見つかった。魔獣たちはそこで殲滅されたらしい。どこの誰かはわからないが私は竜神様の御使いたちに感謝したよ」
そこまで話してラーシュは「疲れないかい?」とジークを気遣った。
「まだ大丈夫です」とジークが答えると話を続けた。
「魔獣を退治してくれた御使い様たちだがなぜかまだこの地にとどまっているらしい。なにか探し物をしているようだと報告を受けた私は御使い様たちを刺激しないように隠れて見守るよう指示を出した。そうこうしているうちに山の西側で暮らす木こりから報告が入った。河原で人を拾ったというものだった。この山にも偶に遭難者が出る。でも木こりの話では拾った人はボロボロになっているがもとはかなり上等だった衣服を着ているというものだった。気になった私はその人をここに運び込むように言った。そうして運ばれてきたのが君……というわけだ」
木こりの上等な衣服の話の部分でジークは不覚にも反応してしまった(そうだ! 僕が着ていた服があった筈だ)トシュタイン王国の王宮に殴り込みに行ったのだから王太子に相応しい豪奢な服だ。そしてヴェルヴァルム王国の紋章が縫い付けられている。今は夜着を着ているのだから当然着替えさせてくれたのだろうしこの男はその服を見ているだろう。
ジークの正体に気づいているだろうに知らないふりをするこの男の考えがわからなかった。
それとも既にトシュタイン王国の王宮に連絡して僕を捕縛する兵が到着するのを待っているのだろうか?
それが一番可能性が高いような気がした。
それなら僕は何とかここを逃げ出さなくてはならない。
いろいろ考えすぎたせいか頭がボーっとしてきた。また熱が上がってきたようだ。
「どうし……て……あなた……は……」
「これはいけない! 熱が上がってきたようだ」
ラーシュは若干慌てたように言った。
「よく聞いてください。私はあなたのことをどこにも漏らしていない。特に王宮には。だから安心して体力の回復と怪我の養生に努めてください。また明日話をしに来ます。良いですね、くれぐれも無理をしないように」
ジークはラーシュの言葉を夢うつつに聞きながら眠りに引き込まれていった。
その後何度か目覚めて蜂蜜入りの薬湯を飲まされた。体中の湿布も何度か張り替えてくれたようだ。朝方にはスープを飲むことができた。昼にはパンがゆや野菜の入ったスープ。そうして昼過ぎにラーシュは部屋を訪ねて来た。
「ほう。若いというのは素晴らしいな。昨日に比べ顔色が格段に良い。食欲も出て来たようだね」
そんなことを言いながらベッドの脇の椅子に腰掛ける。
「ありがとうございます。今日は気分がだいぶ良くなりました」
お礼の言葉を述べた後、ジークは探るように言葉を紡いだ。
「あなたにはとても感謝をしている。あなたに拾われなければ僕は命を落としていたかもしれない。しかし疑問も沢山ある。なぜあなたは僕の手当てをしてくれた? なぜ王宮に知らせていない? あなたも気が付いているだろう、僕は——」
「私は!」
ラーシュは急に大きな声を出してジークの言葉を遮った。
「私はジルという青年を拾った。彼が怪我をしていたので手当てをした。それだけだ。それだけでなければ困るのですよ」
ラーシュは困ったように笑った後「少々世間話に付き合ってくれないか」と言った。
「シュトレーム子爵……」
「んー、その呼び方はあまり好きではないんだ。私のことはラーシュと呼んでくれ」
「ラーシュ殿」
「それでいい。さて、今日はこの土地の話をしようか。私の家は先祖代々このあたりの土地の領主を務めている。この辺りは竜神信仰が盛んな土地でね。いやこの辺りだけではない。もともとゲレオン王国が竜神信仰が盛んな国だった。トシュタイン王国と名前が変わって百年ほど経つがこの辺りの人々は未だにゲレオン王国の風習を引き継いでいる」
ラーシュは一瞬迷ったような顔をした後話を続けた。
「トシュタイン王国というのはとてもいびつな国でね。いびつというか……一部の富裕層と大多数の虐げられている人々で成り立っている国なんだ」
ジークは吃驚した。聞いているものがジークしかいないとはいえそんなことを領主が言ってしまっていいのだろうか?
「国の土地の中でも豊かな土地の大多数は国王が握っている。そこの土地を治める領主は国王に税金を納めるわけだ。それ以外の土地は王子たちに割り振られる。王子たちは自らの力を誇示するためにギリギリまで税金を搾り取る。それから徴兵制度がある。王子たちは侵略戦争を起こして手柄を上げるために無理な徴兵を行う。私たち地方の領主は常に圧政に苦しみどうやって領民を守るかをいつも考えているんだ」
ラーシュの話は重かった。しかし何故彼はそんな話をジークに聞かせるのかわからなかった。
「私の領は数年前まで第六王子の管轄だった。かなりの重税に加え徴兵も過酷で十年ほど前にもヴェルヴァルム王国に攻め込む戦に駆り出された。ここから遠く離れたヘーゲル王国を経由して攻め込む作戦で私たちは過酷な行軍を余儀なくされた。幸いにも、と言ってはいけないかもしれないがその作戦は失敗に終わり第六王子は力を失って権力争いに負けた。第六王子が暗殺されてこの地は第七皇子の管轄になった」
「待ってくれラーシュ殿……僕はあなたの目的がわからない。僕にそんな話をする目的が……」
ジークは戸惑っていた。ラーシュはそんなジークを見て微笑んだ。
「私は今回君を助けて恩を売った。でも返してもらうのは今じゃないという話なんだ」
ますます意味が分からない。ジークの戸惑いを無視してラーシュは話を進める。
「第七皇子のエリオという人は王族の中ではかなり変わった人物でね。まあ彼の生まれがその一因なのだが権力争いに興味がない。というか……」
ここでラーシュは一段と声を潜めた。
「彼は王室を憎んでいると言ってもいいだろう」




