二年生(4)——夏期休暇
その日の放課後、私たちが帰り支度をしていると教室のドアが突然開いた。
「ジークハルト殿下!」
ヘンデルス様の驚いたような声が聞こえた。
ジークは振り返った私の姿を見つけるとつかつかと歩み寄ってきた。
「噂を聞いた……ヴィヴィ、大丈夫か?」
「うん、私は大丈夫。クラスのみんなが支えてくれたの」
私が努めて明るい調子で言うとジークは私の手を握った。
「噂の真偽がどうであれ私が以前言ったことは変わらない。それを言いたくて来たんだ」
ジークが私の手を握るとアリーやリーネがポッと顔を赤らめ教室のドアや窓から覗いていたほかのクラスの女生徒からキャーという声が上がった。
「ジーク! み、みんなの前で手を握るのは……」
「僕の気持ちはそんなことで揺らがないことを見せつけているんだよ」
ジークはあたふたする私の耳元で囁いた後、クラスのみんな、そしてドアや窓に群がっている人たちを見回して言った。
「ヴィヴィアーネ・アウフミュラー嬢は私の大切な人だ。彼女に対する誹謗中傷を私は許さない!」
その時「おい! 通してくれ!」という声が聞こえてエル兄様が教室の中に入ってきた。
「ジーク、先に行くなよ」
エル兄様の姿を見て私はビクッとなる。でもエル兄様は何事もなかったように私のところに来るとポンと頭を叩いた。
「もう帰るだけなんだろう。たまにはこの優しいお兄様が寮まで送ってあげようか?」
「待てよエルヴィン、ヴィヴィを送るのは私だ」
ジークがさりげなく私の腰を引き寄せる。また教室の外から悲鳴が聞こえた。
「何だよ、独占欲か? 二人で送って行けばいいだろう」
私がアリーを見るとアリーが笑って言った。
「ヴィヴィは私たちと帰る予定でしたけど今日は殿下とエルヴィン様に譲って差し上げますわ」
「ありがとうアリー」
エル兄様がウインクする。それにも教室の外から悲鳴? 嬌声? が聞こえた。
そうして私たちは教室を後にしたが、歩き出す前にエル兄様は主に教室の外に群がっている人たちに向かって言った。
「ヴィヴィは俺の大切な妹だ。傷つける奴がいたらジークだけでなく俺も敵に回すと思っていてくれ」
帰り道、エル兄様は私に言った。
「ヴィヴィ、今回の噂は俺も初めて耳にした。俺はヴィヴィのことを大事な妹だと思っている。それは八歳の時父上にお前の妹だと紹介されたときから変わらない。本当の事なんて実は俺にはどうだっていいんだ。俺がヴィヴィを妹だと思ったんだからそれが俺の真実だ」
「ありがとうエル兄様。私夏期休暇で王都に帰ったらお父様に確かめてみるわ。弱虫な私は今まで怖くて聞けなかったの。でもエル兄様はずっと私のお兄様でいてくれるんでしょう?」
「当たり前だ」
とエル兄様は私の頭を撫でてくれたが、ジークが帰り道もずっと私の肩を抱いたままだったので「撫でにくくてしょうがない」とぼやいていた。
寮の部屋に戻るとマリアが青い顔をして私の帰りを待っていた。
「マリア、聞いてくれる?」
私はマリアに噂の事、クラスのみんなが支えてくれた事、ジークやエル兄様が庇ってくれた事、すべて話した。それから今まで怖くてお父様に聞けなかったこと、今回の噂で感じた事いろいろな話をした。
毎日ではないけれど迷った時や心が弱った時、私はマリアに話をする。マリアは全て受け止めてくれる。すべて包み込んでくれる。マリアに話すと私は落ち着いて心が決まったり前向きになれたりする。
今日も黙ってマリアは私の話を聞いてくれた。
私が話し終わってマリアが言ったことは一つだけ。
「ヴィヴィ様、生まれや誰の娘だとか関係なくヴィヴィ様はアウフミュラー家のお嬢様ですわ。差し出がましいですがヴィヴィ様が様々な事を努力していらしたのを私は見てきました。ヴィヴィ様が旦那様やお兄様方を愛していらっしゃるのを私は知っておりますし、旦那様やお兄様方がヴィヴィ様を愛しているのもこのマリアが知っております。ですからヴィヴィ様は誰に恥じることなくアウフミュラー家の御令嬢なのですわ」
何故だかわからないけれど私はマリアの言葉は全面的に信じることができる。お父様やお兄様たちは家族ではないかもしれないと不安になったのに家族でもないマリアの言葉でお父様やお兄様たちを信じることが出来た。
マリアの言葉でまた一つ強くなれたような気がした。
翌日、ジークとエル兄様が二年の教室までやってきて私を守る宣言をしたことは瞬く間に学院中に広まった。
学院中が騒然と落ち着かないまま時は過ぎ、あと数日で夏期休暇というある日の放課後、私は一人の女生徒に呼び止められた。
「ヴィヴィアーネ様、少しお時間よろしいかしら」
「……はい?」
どなたかしら? 上級生だと思うのだけど、と訝しみながら私が返事をすると彼女は私を研究棟の裏庭の方に誘った。
全く警戒をしていなかったわけではないけれど、ううん、気が緩んでいたのは確かだと思う。ジークとエル兄様の宣言以来、私に突っかかってくるようなご令嬢はいなかったから。せいぜい私に聞こえるように陰口を言ったり、睨んだりするくらい。それに目の前の御令嬢は楚々とした雰囲気で私よりずっとずっとか弱そうに見えた。
ついて行った裏庭で更に三人の御令嬢が待ち構えていたのを見た時は(あー……)と思ったけど、三人の御令嬢も私より(腕力的に)強そうには見えない。
学院内でもあるし、いざとなったら逃げればいいかと腹をくくった。
「イアルデ様、連れてきましたわ」
「ありがとうございます、イングリット様」
彼女たちの会話で察しがついた。三人の真ん中にいたのは四年生のイアルデ・ランメルツ侯爵令嬢、今回の噂の発信源。他の方はわからないけれど、イアルデ様のご友人でしょう。
「お呼びたてしてごめんなさいね、ヴィヴィアーネ様」
「初めましてイアルデ・ランメルツ様でいらっしゃいますね。ヴィヴィアーネ・アウフミュラーと申します」
イアルデ様が話しかけたので私も挨拶を返し「何の御用でしょう?」と問いかけた。
イアルデ様は両手を握りしめて俯いたまま動かない。私が焦れて再度問いかけようとした時にパッと顔を上げた。
「ジークハルト殿下を解放して差し上げて欲しいのです」
「……解放?」
言われた意味がわからなくて首をかしげるとイアルデ様はもう一度繰り返した。
「ええ、ジークハルト殿下はお優しくて困っている方を放っておけない方だという事はあなたもわかっていらっしゃるでしょう? ですから殿下の同情を引いて縛り付けるのはお止め下さいと申しましたの」
本当に何を言っているかわからなくて私が黙っているとイアルデ様のご友人が口を開いた。
「だから今回の噂で傷ついたふりをしてジークハルト殿下の同情を買うのはおよしなさいと言っているの」
「そうよ、あなたが平民出身の養女だって言う事は事実なんでしょう? それなのにイアルデ様を悪者にしてジークハルト殿下に縋るのは卑怯ではなくて?」
「待ってください、縋るとか悪者にしたとか何のことですか? 私はそんなことをしていません」
見当違いも甚だしい。たしかに今回の噂で傷ついたし、密かに恐れていたことを突き付けられたような気がした。けれど私はジークの前でこそは平気なふりをしていたかったし、イアルデ様の事をジークに話したことも無い。私はふんすと胸を張って答えた。
「あんまりですわ、ヴィヴィアーネ様。それではなぜジークハルト殿下はわたくしと会ってくださらないの? なぜ不確実な噂をばらまかないようにと先生に叱責を受けなければならないの?」
よよ......と泣き崩れるイアルデ様を私は冷めた目で見つめた。
——知らんがな、そんな事。
「あのう、私は本当にイアルデ様のことをジークに話したりしてません。イアルデ様と会う会わないはジークの自由だと思います。だからジークに聞いてください」
そう言って踵を返そうとすると肩をグッと掴まれた。
か弱そうなのに意外と力があるなイアルデ様。
「お待ちなさい。ジークとは……いつもジークハルト殿下の事をそう呼んでらっしゃるの?」
あ、ヤバ。ついいつもの癖が出ちゃった。
「不敬ですわ!」
イアルデ様のご友人方も騒ぎ出した。
「これだから平民出身は常識が無いのですわ!」
「ええ、やはりジークハルト殿下に相応しくありませんわ」
「そうですわ。イアルデ様のように由緒正しい血筋の方でなくては」
「きっとジークハルト殿下は下賤の血が物珍しいだけですわ。イアルデ様が目を覚まして差し上げなくては」
だってジークがそう呼べって言ったんだもん。とは言わなかった。火に油を注ぐのが分かっていたから。黙っていたら肩を掴んでいた手を離してイアルデ様がねっとりと話しかけた。
「ねえヴィヴィアーネ様、あなたもそう思うでしょう? ジークハルト殿下は高貴な御方、その隣に相応しいのは高貴な血を持つ者ですわ」
「……いいえ」
「まあ! なんて厚かましいのかしら! あなたみたいな平民はジークハルト殿下に相応しくないの! それなのに殿下に媚売って近づいて! 身分不相応なあなたはさっさと潔く身を引いてちょうだい」
最初のか弱そうな表情どこ行った? 打って変わってイアルデ様は蔑むような視線を投げ掛けてきた。でも全然怖くない。多分イアルデ様のお誘いをジークは断り続けているんだろう、だから私を呼び出した。結局これが言いたかったんだなと納得した。
「それを決めるのはジークですわ。あなたではありません。それに私の行動もあなたに左右されるつもりはありません」
もういいや、言いたいこと言ってやれ、と私はきっぱり言って今度こそ踵を返そうとした。
「そんな……酷いですわ……」
途端にイアルデ様はよろよろと打ちひしがれたように地面に倒れ込んだ。
え? またかよわ令嬢に戻るの? それよりもう私は帰りたい。けれどイアルデ様を囲んで私を睨んでいるご友人方が帰してくれそうにない。
「あれ? ヴィヴィ様、何してるんですか?」
急に声を掛けてひょっこり顔を出したのは……
「ディオ!」
声にビクッとしたご令嬢たちだったけど、顔を出したのが平民の使用人だとわかると途端にまた蔑むような視線を投げ掛けてきた。
「やっぱり平民は平民と仲がいいのね」
「下賤な血が——」
「あっ! お嬢様たちの後ろに鼠が——」
「「「ひっ!」」」
彼女たちの言葉を意に介さずディオが急に声を上げる。イアルデ様はぴょんと立ち上がりこわごわと後ろを振り返った、
サササ——
何か小さい物体が葉の影から凄い勢いで飛び出して近づいてくる。
「「「ひいーーー!!! 来ないでーーー!!!」」」
イアルデ様たちは一目散に逃げだした。あ、一人転んだ! あ、起き上がった。元気に走れているから大丈夫ね。
「ヴィヴィ様は怖がらないんですね」
「ねえ、それなあに?」
うん、私からは良く見えていたから。私はディオの手元を見た。
「これ? ただのペンケースですよ。黒っぽいし糸をつけて素早く引っ張っただけなんですけど意外と騙されてくれましたねえ。あ、ヴィヴィ様が困っているようだったから助け船のつもりだったんですけど……」
要らないお世話だったかなあ? としょぼくれた目で見つめるディオに私は急いでお礼を言った。
そして二人で笑い合ってその場を離れた。
この話は誰にも言わなかった。
別に隠した訳じゃないけれど夏期休暇前の慌ただしい日々に追われて話しそびれちゃっただけ。大したことじゃないしね。
私は今年は王都のお屋敷に帰る。トーマスはお姉さまの結婚式があるので王都に帰るらしいがアリーは寮に残ると言っていた。しばらくの間お別れだ。
「ヴィヴィ、今こんな時に傍にいてあげられないのは心配だけど……」
「大丈夫よアリー。クラスのみんなが心の支えになっているもの。アリーはその中でも一番太い柱だわ」
「あら、私そんなに太くないわよ」
「「ふふっ」」 二人で笑った。
「それよりアリーは一人で寮に残るんでしょう?」
「あー……うん」
なんか歯切れの悪いアリー。私が黙って見つめていると口を開いた。
「今年はカールも寮に残るんですって」
「へ――ほ——ふ――ん」
途端にニヤニヤしだした私を見てアリーが言った。
「偶々よ。偶々」
「ねえ、アリーとカールって——」
「仲のいい友達よ」
やけに友達を強調してアリーが答えた。
「わかった。カールと夏期休暇、楽しんでね」
馬車に乗って一週間、私とエル兄様は王都のお屋敷に帰って来た。
着いたのが夕刻だったのでお父様とフィル兄様はお城から帰ってきているらしかった。
「お帰り。疲れただろう」
出迎えてくれたのはお父様だ。いつものようにハグをして私はお父様に言った。
「お父様、お話があるのですが」
決心が鈍らないように私は一気に言ったがお父様はいつものように穏やかに言った。
「今日は疲れただろう。夕食を取ってゆっくり休みなさい。明日は午後から王宮に行けばいいんだ。朝食後に話を聞こう」
「兄上は?」
エル兄様が聞くとお父様は苦笑して「部屋にいるよ。様子を見てきてくれないか」と私を見て言った。
フィル兄様の部屋の前に行きノックした。
答えはない。
もう一度ノックした。
答えはない。
「フィル兄様?」
私はそっとドアを開けた。
室内は暗かった。廊下から漏れる明かりでぼんやりと見えるだけだ。寝ているのかな? とドアを閉めようとした時ベッドの上の塊が見えた。
「フィル……兄様」
私はゆっくりその塊に近づいた。 フィル兄様はベッドの上で膝を抱えて丸くなっていた。
「フィル兄様、どうしたんですか?」
「ヴィヴィ……ごめん」
弱々しく言うとフィル兄様は膝の上に顔を伏せた。
「フィル兄様お腹痛いの? 気分が悪かったら——」
「違う。僕はヴィヴィに顔向けができないんだ……」
「それはどういう——」
「僕の不用意な発言のせいでヴィヴィが社交界で噂の的になってしまっているんだ」
フィル兄様はガバッとベッドから降りて膝をつくと頭を下げた。
「ごめん! ヴィヴィ」
フィル兄様の態度で私が明日お父様に聞くことの答えの半分は出ているような気がした。
「フィル兄様、フィル兄様は私が嫌いですか?」
「そんな事あるわけないだろう!! ヴィヴィのことは大好きだ! この国で一番、いや大陸で一番愛してる」
「もう私のことは妹と思えない?」
「ヴィヴィは僕の最愛の妹だ!」
「私はまだフィル兄様の家族ですか?」
「あたりまえだ! 違うなんて言うやつがいたらウルバンの餌食にしてやる!」
フィル兄様……竜は人は食べません……
「フィル兄様、ありがとうございます。おかげで自信が持てました。明日お父様と話をするので同席していただけますか?」
私がにっこり笑って言うとフィル兄様は涙でぐしゃぐしゃの顔を上げて私を抱きしめた。
「ヴィヴィ、おかえり。会いたかったよ」
「私もですフィル兄様」
そうしてフィル兄様の顔をタオルで拭いてあげた。




