二年生(3)
サロンでジークに「君と結婚したい」と言われて私はプチパニックに陥っていた。
「ヴィヴィ、落ち着いて。紅茶呑んで」
ジークに言われてこくりと紅茶を飲む。
「ヴィヴィ、何も今すぐ結婚するわけではないんだよ。ただ、僕はこの先の生涯を共に過ごすのはヴィヴィがいいなって思ったんだ」
それならわかる。ジークとこの先ずっと一緒にいる……うん。嫌じゃない。むしろ一緒にいたい。
「私もジークと一緒にいたいわ」
「そうか! ありがとう」
「でもエル兄様やフィル兄様とも一緒に居たいしアリーたちとも一緒に居たい」
「そうか……」
ジークはちょっと落ち込んだようだが気を取り直したように言った。
「エルヴィンやフィリップもいずれ結婚するだろう。彼らの結婚相手についてヴィヴィはどう思う?」
「もちろん仲良くなりたいわ! お姉さまができるなんてワクワクしちゃう」
「じゃあ僕は?」
うーん……ジークはお兄様じゃないし結婚したら疎遠になっちゃうのかしら……
プレデビューの時ジークが王太子殿下だって知って遠い人になっちゃったような気がして寂しかったのを思い出した。学院に入ってからはむしろ前より親しくなったような気がするけど、やっぱり遠い人になっちゃうのかな……なんだかそれはとっても嫌だった。
ジークに奥さんが出来て……その人は私よりジークに近い人で……もうジークに抱き着いたりできなくて……なんだかじわっと涙が出てきたような気がする。
「私……嫌……なのかな。ジークが誰かと結婚することを想像したら悲しくなってきたの……」
私は泣きそうだったけどジークはとても嬉しそうだった。
「そうか! ヴィヴィは嫌だと思ってくれたんだね。僕も嫌だ。ヴィヴィがほかの男と結婚するのは」
「ジークも?」
「そうだよ。僕はヴィヴィが好きだ。愛してる」
あまりにストレートな言葉に私は真っ赤になった。
「あ、あ、あの……私ジークが誰かと結婚するのは嫌だなって思ったけど、ジークをあ、愛してるとかよくわからなくって……」
「うん、それもわかってる。もう少し時間をかけたかったけど父上に学院を卒業するまでと言われてね、卒業パーティーが近づいたらパートナーを申し込むよ。その時までに返事を聞かせて欲しい」
期限は卒業パーティーまで……
しっかり考えなくちゃ。
「あ、と言ってもそれまで何にもしないわけじゃないから」
「?」
私が首をかしげるとジークはにっこり笑って私の手を取りキ、キスをした。
「もう告白しちゃったし、目いっぱいアプローチするから覚悟しておいて。それとね、頭の片隅にでも覚えてくれてたらでいいんだけど、僕のこの気持ちは変わらないから」
「あの……でももっと素敵な人が......」
「うん、変わらないから。どんなに状況が変化してもね」
優しい言葉とは裏腹にジークの瞳は熱くて、私は真っ赤になりながら呟いた。
「お手柔らかにお願いします……」
私は何も知らなかった。ジークは何も話さなかったから。
私の出自いかんでは婚約を反対されるだろうという事を。国王陛下だけでなくお父様まで反対に回るだろうという事を。
私はお父様の娘だと信じていたし、私が本当は誰の娘だという事は誰にもわかっていない。もちろんオリバーとマリアの娘だという事をお父様たちはわかっているけれど、オリバーの正体は未だ掴めないままだ。
それらの事情を私はまるで知らなかったし、いくら反対されてもジークが私と結婚したいと思っていることさえ、その瞳の熱い思いさえ理解していなかった。
ジークとの関係はその後大きく変わったわけではない。ただ何となくスキンシップは増えたような気がする。
例えば魔術の授業の後に「今日は頑張ったね」と頭を撫でてくれたり「ランチを一緒に取ろう」と言って私たちの席にエル兄様と混ざった時に何気なく頬に触れたり、階段で手を引いてくれたり。
私はそのたびに赤面してしまうのだけれど嫌ではなかった。
しかしある噂が突如学院内に広まり瞬く間に皆の間にはびこっていった
その噂を私が知ったのは夏期休暇の三日前だった。
昼食後食堂からの帰り道、またも二組の廊下でジモーネ様たちが声高に話をしていた。それを見た途端、カールやアリーの顔が強張った。
「ヴィヴィ、食堂に戻ろう」
「え?でももうすぐ授業が始まるわよ」
「少しくらい遅れても構わないわ。行きましょう」
カールに続いてアリーも私をこの場所から遠ざけようとしている。トーマスはさりげなく私がジモーネ様たちの視線に晒されない位置に立った。なので私はジモーネ様たちが何か私のよからぬ噂を喋っているのだと知った。
「みんなありがとう。ジモーネ様たちが何を言っていても私は大丈夫よ」
みんなに感謝しつつ教室に向かって歩き出したのだが……
「皆さま聞きました? あの卑しい庶子は庶子ですらなかったそうですわ」
「まあ! 庶子ですらないとはどういうことですの?」
彼女たちのずるいところは決して固有名詞を出さないところだ。「ヴィヴィアーネが」などと言ってしまえば養子とは言え侯爵家令嬢の私に対して失礼に当たる。ジモーネ様は同じ侯爵令嬢だけどほかの人達は違う。だからいつも彼女たちは「あの庶子が」とか「愛人の娘」とか言う。話の流れで私を指していることが皆にわかっていたとしても。
「平民の娘だそうよ。魔力の高さを買われて養女になったのですって」
「侯爵家の血は一滴も流れていないんですの?」
「それどころか貴族の血も一滴も流れていないそうよ」
「ふふふ。やっぱり。だから同じ平民の男と仲がいいのですね」
「あら、わたくしも不思議でしたのよ。彼女、爵位無しや平民と仲がいいのですもの」
「下賤な血が呼び合うとか?」
もう聞くに堪えなかった。私どころかみんなまで馬鹿にされ何か言ってやろうとジモーネ様たちのところに向かおうとした時、一組から人が出てきた。
「ヴィヴィ! 次の授業の予習をしていたのですけどわからないところがあるの。教えてくださる?」
リーネが話しかけてきた。
「ヴィヴィもみんなも教室に入れよ。またクラスの親睦会をしないかと話をしていたんだ」
今度はヘンデルス様だ。
「二組は一部の人間が威張っているようだけど、一組は本当にみんなの仲がいいからな。二組の奴でも羨ましいって言っている奴がいるんだ」
エーリク様まで顔を出した。
「爵位とか血とかくだらないよなあ。自分に人望がないからそういうものをひけらかしたくなるんじゃないか?」
ヨアヒム様の皮肉はなかなか痛烈だった。
「ふふっ。ヴィヴィはヴィヴィよ。気にすることは無いわ」
アリーが言った。
クラスに入るとみんながニコニコしていた。
私このクラスで良かった。みんなと仲良くなれて良かった。
休み時間にグレーテ様が私とアリ―、リーネが話しているところに近寄って来た。
グレーテ様とも竜の森の事件以来関係は良好になった。
ただ、グレーテ様はお父様がジモーネ様の家、ハンクシュタイン侯爵家の領地で家令をしているらしくジモーネ様には逆らえないという事情も分かった。
「グレーテ様、今回の噂はジモーネ様たちが広めていらっしゃるの?」
リーネが聞くとグレーテ様は困ったように眉を寄せた。
「あ、無理して答えなくていいのよ。それにもし聞いても私たちグレーテ様に聞いたなんて言わないわ」
アリーが言うとグレーテ様は「違うんです」と首を振った。
「ジモーネ様たちが噂を聞いて喜んで広めてらっしゃるのは事実なんですけど、出所はジモーネ様たちではありませんわ。四年生の方らしいです。お家からの手紙に書いてあったとか」
そうしてグレーテ様は噂について知る限りのことを教えてくれた。
今までもジモーネ様たちにはいろいろ言われて腹が立ったこともあったけど、今回の噂は物凄く堪えた。それは密かに恐れていたことだったから。
私の記憶は五歳から始まる。その一番古い記憶からお父様はお父様だった。そしてエル兄様はお兄様だった。でもお屋敷にある『お母様』の肖像画に私は全く似ていなかった。お母様だけじゃなくお父様にも、お兄様にも。
それでも私はお父様と血がつながっていると、お兄様たちと半分でも血がつながっていると信じたかった。侯爵家の血筋云々ではない。ただ本当の家族でいたかった。
もしかしたら失った五歳前の記憶に私の本当のお母様がいるのかもしれない。でも記憶は失ったままで、私はお父様しか知らない。
去年の夏、フィル兄様に十一年前の事件の話を聞いて抱いた疑問。
フィル兄様の話でお父様は『お母様』を深く愛していたと感じた。では私は? 私を産んだお母さまをお父様は愛したの? お母様の記憶はないけれどお父様が『お母様』アウフミュラー侯爵夫人以外の人を愛するとは思えなかった。
でも私はその疑問に蓋をした。
一人ぼっちになってしまうのが怖かったから。私を娘として、妹として可愛がってくれる愛する家族が他人になってしまうのが怖かったから。
次の日、グレーテ様の話をもとにアリーとリーネが詳細を探ってきてくれた。
「わかったわ。ヴィヴィ、噂の出所は四年生のイアルデ・ランメルツ侯爵令嬢よ」
教室に入ってきたアリーが言った。
「イアルデ様のお兄様は文官で現在は宰相執務室勤務らしいの」
宰相執務室——お父様のところだ。噂に信憑性が増した。ここでリーネが声を潜めていった。
「イアルデ様のお兄様が宰相閣下とフィリップ・アウフミュラー様が話しているのを偶然聞いてしまったらしいの」
それは冬期休暇が終わりしばらくした頃の事だった。
ノックの音ももどかしくフィリップが宰相執務室に入室してきた。この時偶々執務室の人は出払っており、ルードルフが一人で書類の山と向き合っていた。
「父上! ジークの婚約者選考が進んでいるそうですね?」
「ここでは宰相と呼びなさい。それにジークではなくジークハルト殿下だ。はぁ……どこで聞いたんだ?」
「どこだっていいじゃないですか、それよりヴィヴィが候補の筆頭と聞いたんですが?」
あの話し合いの場には信頼できる者しかいなかったから裏事情は漏れていない筈だ。
しかしジークの婚約者選定については秘密でも何でもなく進められていることだから、婚約者候補のリストの筆頭にヴィヴィの名前が挙がったことから推測する者がいてもおかしくないだろう。そう思ってルードルフはフィリップに答えた。
「殿下はヴィヴィを望んでいる」
「ヴィヴィは? ヴィヴィは知っているんですか?」
「わからないが……たぶん殿下が話すだろう」
「父上は賛成なのですか? ……ヴィヴィの父親に関しては未だ調査中ではないですか」
「そうだ。だから私は……」
ルードルフは答えに迷った。賛成とは言い難い。せめてもう少しヴィヴィの父親の調査が進んでいれば態度を決められるのだが。
「反対なのですね」
「いや、保留というところだ。しかし殿下はそれでもヴィヴィと結婚したいとおっしゃった」
「それはジークの我儘だ。王太子の婚約者になればヴィヴィは悪意に晒される。きっと生まれのことでヴィヴィを傷つけようとするヤツが出てくる」
「殿下はヴィヴィを守ると仰った」
「僕だってヴィヴィを守ります。ヴィヴィを守るためにもジークの婚約者にする訳にはいかない。もちろんヴィヴィがジークを好きなら協力しますがヴィヴィはまだ子供です。……ヴィヴィには婚約なんて早すぎる!」
やはりルードルフが考えていた通りフィリップはヴィヴィとジークの婚約に反対なようだ。理由はルードルフと異なるようだが。
「フィリップ、ヴィヴィはもう婚約を結んでもおかしくない歳だよ。はあ……その調子でヴィヴィの婚約を片っ端から潰すつもりじゃないだろうな」
「そんな事!......僕だって僕より強くて経済力があって有能で性格も良くてヴィヴィを大事にしてくれる男が現れたら考えなくも無いですよ」
「殿下は結構当てはまっていると思うが」
「ジークはダメです。王太子の婚約者なんて苦労するばかりだ」
フィリップの過保護っぷりに呆れたルードルフはふとある懸念が頭をよぎりフィリップに訊ねた。
「そうか……まさかお前がヴィヴィと婚約するつもりなのか?」
「ぼ、僕が!? まさか! むむむ無理です!」
フィリップの動揺は激しかった。まったく思ってもいなかった言葉を突き付けられたようだった。
どうやらルードルフの懸念は取り越し苦労だったらしい。フィリップは男としてではなく純粋に兄としてヴィヴィを可愛がっているようだ。
「僕はヴィヴィを愛してます。この国のどんな女性よりヴィヴィを愛してます。でもそれは妹としてです。たとえヴィヴィの本当の両親が平民で、僕と血がつながっていないとしても僕にとってヴィヴィは最愛の妹なんです。婚約なんてしたら妹じゃなくなっちゃうじゃないですか」
それはそれでどうかと思うがルードルフは疑問を直ぐひっこめた。
「そうか、そうだな。ヴィヴィもお前の事は兄だと思っているだろうしな」
フィリップとヴィヴィの婚約、フィリップには否定されたが考えてみるとそういう選択もありだった。ヴィヴィの生まれがどうであろうとアウフミュラー侯爵家ならヴィヴィを守ることができるからだ。だからルードルフはヴィヴィを養子にしたのだ。養子縁組を解消してフィリップかエルヴィンと結婚すればヴィヴィはずっとアウフミュラー家で守っていける。アウフミュラー家はそれだけの権力もあり、そして王家ほど血筋に拘らなくていい。
今現在、王家の求心力は落ちている。筆頭侯爵家で宰相であるアウフミュラー侯爵家を始め、国王の生家であるゴルトベルグ公爵家、序列二位のビュシュケンス侯爵家が後ろを支えているので表立った不満は出ていない。国王の治世も安定している。
しかし国王のヘンドリックは赤の王だ。これが求心力が落ちている一番の要因だった。
赤の王とはヘンドリックの竜が王家を表す黒竜でなく赤竜であることの蔑称だ。だからジークの婚約者は血筋的に何の瑕疵も無い相手が求められるのだった。
まあしかしフィリップもヴィヴィもその気が無いのなら仕方がない。当事者同士が望まぬ婚姻はルードルフも望まない。
この話をしている時にルードルフとフィリップは初歩的なミスを犯していた。お互いに相手が防音の結界を張ったと思っていたのだ。
しかし室内には誰もいなかったし宰相執務室は一般の人が近づくような場所ではない。それに執務室勤務の者は口が堅いのが常識だ。だから二人ともあまり心配はしていなかった。
だが、この時ドアの外で会話を聞いてしまった者がいた。それがイアルデの兄だった。
イアルデの兄は以前からイアルデがジークハルト殿下に憧れ何とか目に留まりたいと思っているのを知っていた。家は侯爵家で筆頭侯爵家のアウフミュラー家にはかなわないものの十分未来の王太子妃になる家格である。
ドアの外で会話を聞いてしまったイアルデの兄はイアルデに手紙を書いた。
『現在アウフミュラー侯爵家の令嬢と王太子殿下の婚約の話が持ち上がっているが、アウフミュラー侯爵家の令嬢は庶子どころか両親ともに平民で、魔力の多さから養子になったらしい。そのことでアウフミュラー侯爵家も殿下との婚約に難色を示している。イアルデが学院で殿下と親しくなれば殿下の婚約者になれる可能性はかなり高くなる。応援しているよ』
という内容の手紙だった。
手紙を受け取ったイアルデは複数の友人に相談した。
「どうしたら殿下と親しくなれるかしら」と。
この時イアルデは故意に噂を広めようと思ったわけではないらしい。でも友人たちは故意に噂を広めた。王太子殿下が婚約を結ぶという話ではなくアウフミュラー侯爵家の令嬢が平民の養女だということだけを。彼女たちはそれによってイアルデが優位に立てると思っていた。
以上がアリーとリーネが調べて来てくれたことの真相だ。
「ジークはこのことを知っているのかしら」
「噂の事?」
私の呟きにアリーが質問を返した。
「それもだけど、私が平民だということ」
「待って! それは噂よ。あくまでも噂。真実はわからないわ」
リーネはそう言ってくれたけど私は噂が真実であると確信していた。
「でも……もし真実であっても何も変わらないわ」
アリーが私の目を見て言った。
「だってそうでしょう?ヴィヴィはヴィヴィだし。養子であってもアウフミュラー侯爵家の令嬢という事実は変わらないし」
「そうね。何も変わらないわ」
リーネもそう言った。
「何も変わらない……?」
「そうよヴィヴィ。一年の最初、あなたカールが平民の養子だと知って何か変わった?」
「ううん。カールはカールだもの」
リーネは申し訳なさそうな顔をした。
「あの時は私は身分や家柄で人を見ていたわ。でもこの一年でちゃんと成長したのよ。カールもアリーも大事な友達でそれは血統や家柄で決められることではないわ。だって二組のジモーネ様たちとは友達になりたいと思わないもの」
少し離れたところで見守っていたヘンデルス様が声をかけてきた。
「そうだな、僕もそう思うよ。もちろん高位貴族にはそれなりの教養や礼儀作法が求められるし平民より品性も高潔でいるべきだと思う。でもそれは血統でできることじゃない。本人が努力して学ぶものだ。ヴィヴィは十分侯爵家令嬢としての品位を保っていると思うし逆にジモーネ嬢たちのように他人の陰口ばかり言っている方が僕は品性下劣に感じるよ」
「ヴィヴィはお転婆だけどな」
カールが茶々を入れるとヨアヒム様が言った。
「そこがヴィヴィの魅力だよ」
私は涙があふれてくるのを抑えられなかった。私は一人ではなかった。私自身を見てくれる人たちがここにいた。
「ヴィヴィ、そろそろ僕のことも様なしで呼んでくれる?」
「ヨアヒム?」
「僕のことも」
「私のことも……よろしければグレーテと……」
エーリク様やグレーテ様まで、みんなが微笑んで私たちを取り囲んでいた。
お父様やお兄様たちとも新しい関係が築けるだろうか。私は今まで血のつながりに拘っていたけれど、血がつながっていなくても本当の家族になれるだろうか?
そしてジークは……?




