ヴィヴィ九歳(6)
領地でのヴィヴィとフィリップの生活が始まった。
午前中は大抵フィリップは領主代理のマインラート・ホルベルガーから領地経営を学ぶ。
ホルベルガー家はアウフミュラー侯爵家の分家筋で代々アウフミュラー侯爵家に仕えている。
マインラートは忙しいルードルフに代わり領地経営を任されておりルードルフが厚い信頼を寄せる人物だ。
そして午後になるとヴィヴィの部屋に顔を出すのだ。
「何か困っていることは無いか? 足りない物は無いか?」
「大丈夫です、フィリップお兄様。みんな良くしてくれますし困っていることはありません」
しいて言えば退屈過ぎることぐらいだ。それも足の怪我が良くなれば行動範囲を広げられるだろう。
「ああそれから今日はこれを持ってきた」
フィリップが一冊の本を取り出す。
フィリップは毎日お屋敷の図書室から一冊の本を選んで持ってきてくれる。それがヴィヴィは楽しみだった。ベッドから動けないヴィヴィの唯一の楽しみだ。
フィリップの持ってきてくれる本はいろいろな分野に跨っていてそれでいてヴィヴィにもわかりやすく書かれたものばかりだった。
わからない事や疑問に思ったことはフィリップに聞けばわかりやすく教えてくれる。
「僕は父上からヴィヴィの教育も任されているからな」
首の後ろを赤く染めながらフィリップはそんな風にすました顔で言った。
ヴィヴィの怪我が良くなるとフィリップはヴィヴィをいろいろなところに連れ出した。
大抵夕刻からはヴィヴィの勉強時間をとりフィリップはヴィヴィの勉強を見る。ヴィヴィは一通りの勉強を終えているので、フィリップは様々な分野の課題を出しヴィヴィの質問に答えたり、時には一緒に調べたりする。
ヴィヴィはフィリップが領地経営を学んでいる午前中はフィリップに出された課題を自分で考えたり調べたりして過ごしていた。
と言っても予定は流動的で午前中から遠方に視察に出かけることもあるしフィリップが一日書類仕事で缶詰になる事もある。
ヴィヴィが嬉しかったのは視察など外に出かけるときは大抵一緒に連れて行ってもらえることだ。
農作物の収穫を手伝ったり、工芸品の工房を見学したり、採掘場にも連れて行ってもらった。
王都にいたときは屋敷の中がヴィヴィの世界の全てだった。
領地に来てヴィヴィの世界は広がった。最初はフィリップと顔を合わせるのを避けるために領地に行くことを希望したのだが領地の生活が楽しすぎて王都に戻りたくなくなるかもしれない。
それはフィリップとの関係が良くなったことも大きく影響している。
その日は染色工場に視察に来ていた。
フィリップは恰幅のいい工場長に説明を受ける。工場長は終始にこやかにフィリップを案内した。
ここは領内で一番大きい染色工場でアウフミュラー家の領地の特産である光沢のある青で染めた布地をつくっている。
工場は清潔で従業員も礼儀正しくフィリップに挨拶した。
「材料の入荷量に比べ生産量が最近落ちているようだが」
フィリップの質問に工場長が困ったように眉を下げた。
「申し訳ございません、この青を作り出すためには特殊な技術が必要なのですが、技術を持った職人が高齢になり仕事を離れる者も出ておりまして......うまく染まらなかった物は廃棄となりますので」
「そうか……職人の離職率が高いのもその所為か?」
「近頃の若者は地味に修行を積むことを嫌がりますので。染色工場は臭いも凄いですから」
確かに触媒の鉱物を使う時の臭いは独特だ。しかしフィリップは工場長の言葉に違和感を覚えた。
臭いはあれど、工場は清潔で給料もいい。この工場の製品は領の特産物の一つで補助金も出している。工場で働く者たちは特産の無い貧しい村の出稼ぎが多い。簡単に辞めたりするだろうか。
「そうか、後で従業員の待遇その他の書類を見せてくれ。それから出来上がった製品のサンプルも頼む。ヴィヴィ大人しく……ヴィヴィ?」
後ろを振り向くとついて来ている筈のヴィヴィがいなかった。
フィリップは一つため息をつくとヴィヴィを探すために歩き始めた。
こういうことは偶にある。ヴィヴィは興味を引かれるものがあると突進してしまうのだ。それはフィリップが知らなかったヴィヴィの一面だった。
というより今までフィリップの前で見せていた大人びたヴィヴィの方が取り繕ったもので、フィリップとの関係性が良くなるにつれ本来のヴィヴィが顔を出してきたのだった。
ヴィヴィはフィリップが想像もしなかった行動をとる。玉ねぎ畑でいつの間にか農夫と一緒に玉ねぎを引っこ抜いていたり、家具の制作工房では鋸を使う職人の目の前にしゃがんでじっと見ていたり。
それはフィリップが今まで見てきた貴族の令嬢とはかけ離れた姿で、でもフィリップはそんなヴィヴィを見るのが楽しかった。
今日は染色工場だ、きっと職人の作業に見とれているんだろう。一緒にやりたいと言い出しかねないヴィヴィなので汚れても構わない服装をさせている。平民に間違われても厄介だった。
フィリップの心配通り、ヴィヴィは興味に魅かれてふらふらとフィリップの傍を離れたのだった。
ヴィヴィの興味を引いたのは一本の通路。従業員たちが行き来する清潔で明るい廊下ではなくて半ば塞がれるように荷物が置かれた後ろにひっそりと伸びる薄暗い廊下だった。
置かれた荷物の隙間からヴィヴィはその廊下に足を踏み入れた。身体が小さいヴィヴィには容易いことだった。
冒険に出かけるようなドキドキした気分で薄暗い廊下を進む。悪の組織のアジトに忍び込むヒーローになったみたいだった。
行きついた先のドアを開けると階段があった。地下に下りる階段だ。ますます悪の組織のアジトみたいだ。
ヴィヴィはそろそろと階段を下りる。途中から独特の臭いが鼻を突いた。上の工場内にも漂っていた触媒の臭いだ。上よりずっと酷い。階段を下りた先の大きな扉をそうっと開けた。
そこもまた染色工場だった。
なあんだ、悪の組織のアジトじゃなかった、と少しがっかりした。
上の工場に比べて薄汚れているし、上の工場は換気のための大きな窓があったのにここは壁の上の方にいくつか小さな窓があるだけ。だから臭いも凄い。
「お前、新入りか?」
突然声を掛けられてヴィヴィは飛び上がりそうになった。
声を掛けてきたのはヴィヴィより少し年上の少年。エル兄様くらい。
「こんな小さな女の子まで......お前、身寄りがいないのか?」
ヴィヴィは訳が分からず首を横に振った。
「騙されてここに連れてこられたのか? いいか、ここはダメだ、俺が何とかして逃がしてやるから——」
「おい! 勝手に持ち場を離れるな! ん? 誰だ?」
野太い声がして今度こそヴィヴィは本当に飛び上がった。
少年の向こうからやってくるのは鞭を手にしたでっかい男の人。やっぱりここは悪の組織のアジトだった!!!
その男の人が腕をぬっと伸ばしてくる。
止めようとした少年はあっさり吹っ飛ばされた。その腕をかいくぐろうとして躓いたヴィヴィは立てかけてあった竿の様なものをなぎ倒す。偶然その竿が男の顔面にヒットした隙にヴィヴィは逃げ出した。
染料の入った缶を蹴飛ばし、お湯をひっくり返し、布の山を崩し、ヴィヴィは逃げ回る。
薄横れた服を着た生気の乏しい人達はそれを見て目を丸くし、ヴィヴィを追いかける鞭を持った人は五人に増えていた。
「くそっ! ちょこまかと!」
「お前、そっちに回れ! 挟み撃ちにするぞ!!」
もう入ってきた階段がどこにあるのかもわからない。いろんな物に躓きぶつかりヴィヴィの恰好は惨憺たる有様だ。
万事休すと思われた時、右手の奥の扉がバンと開いた。
「おい! 何の騒ぎだ? 上にまで物音が響いているぞ!! 静かにしていろとあれほど言っただろう!!」
あそこに出口があった!! 駆け出すヴィヴィを鞭の大男がガッと捕まえる。
「はーなーしーてーーー!!」
「大人しくしろ!!」
「何だ? その子供は?」
扉を開けた男の人、フィリップお兄様に愛想よく話していた工場長は鬼の形相でヴィヴィを睨みつけた。
「おい! どういうことか説明しろ!」
「すっすみません! その、いつの間にかこのガキが入り込んでいて」
しどろもどろに言い訳する鞭の大男にチッと舌打ちをすると工場長はヴィヴィを恫喝した。
「どこのガキだ? どうやって忍び込んだ? お前のせいでこの秘密工場が滅茶苦茶だ。損害の分働かせてやるから覚悟しろ」
工場長は最初にフィリップと一緒にヴィヴィにも挨拶をしている筈だがヴィヴィの事が分からないようだ。 うーん、とヴィヴィは大男の腕の中でもがきながら自らの身体を見下ろす。逃げ回っているうちに染料が服にこびりつき、髪は乱れ、服も顔も埃まみれ、これじゃあわからないか、と改めて名乗ろうとした時に、ドタンバタンとすさまじい音と「ぎゃあ!」「うわあ!」と悲鳴が工場長の背後から聞こえた。
工場長が振り向くのと、その鼻先に剣が突きつけられたのが同時だった。
「うわっ! ななな——」
「ヴィヴィ! 無事か?」
少し息を切らせたフィリップとその後ろに護衛の騎士の皆さん。
ヴィヴィが呆気にとられた鞭の大男の腕から抜け出して「はあい、無事です。フィリップお兄様」と返事をするとフィリップはヴィヴィの頭から足の先まで眺めてため息を一つついた後工場長に向き直った。
「僕に納得できる説明をしてくれるかな、工場長」
工場長は鼻先の剣に身体を震わせながら口を開き、また閉じ、三度ほど繰り返した後にがっくりと膝をついた。
その後の調査で判明したことだけど、工場長は半地下の工場をこっそり作り、そこでも染色を行っていた。材料は横流し、職人は身寄りがあまりない、または遠方からの出稼ぎを選んで上の工場を辞めたと偽り、地下に監禁。劣悪な労働環境で働かせて私腹を肥やしていたのだった。
「フィリップお兄様、ごめんなさい」
ヴィヴィが頭を下げるとフィリップはヴィヴィの頭に手を伸ばしかけ、また引っこめると、首の後ろを赤くしながら言った。
「うん、まあ、今回はヴィヴィのおかげで不正を暴けたとも言えるが……その、もう危険な事をしないでくれ」
「はい、フィリップお兄様」
ヴィヴィはシュンと項垂れる。うん、危険な事はしない。多分。危険な事って? 今回は危険だったっけ? ああ、鞭のおじさんに掴まらなければいいのかな。
「それから……」
フィリップはまだ何か言いたそうに口をもごもごさせている。
「僕の事は……フィリップお兄様ではなくフィル兄様と呼びなさい」
「フィル兄様?」
「そうだ。……エルヴィンばかりエル兄様なんてズルいじゃないか」
平静な顔をしながらそんなことを言うフィリップの首の後ろはやっぱり真っ赤だった。
そんなこんな事件が数件あり(ヴィヴィが川に落っこちたり、そのおかげで溺れている子供を助けたり、お屋敷に来た商人の荷物にぶつかり箱の中身をぶちまけおかげで粗悪品を紛れ込ませていたことが発覚したり) フィリップと過ごす時間が長くなるにつれヴィヴィの口調も変化していった。
王都にいたころはフィリップに対し緊張して大人びた口調で話していたが、徐々に九歳の溌溂とした女の子に戻りつつあった。いや、もうすでに戻っている? どころかお転婆がパワーアップしている......かも。
夕食後、サロンで寛ぎながらヴィヴィと話をしていたフィリップが王都からの手紙を読んでポツリと言った。
「トシュタイン王国がまた攻め込んできたようだな」
それを聞いてヴィヴィは怯えたような表情を浮かべた。何故だか『トシュタイン王国が攻め込んできた』という言葉に強い恐怖を感じたのだ。
怯えたヴィヴィに気が付きフィリップは安心させるように微笑んだ。
「大丈夫だよ。既に竜騎士の部隊が出動したようだ」
「フィル兄様、どうしてトシュタイン王国は何度も攻め込んでくるのですか?」
「んー、我が国の肥沃な大地も魅力的だろうけど一番は竜の森だろうな」
隣国トシュタイン王国は何代も前からこの国に戦争を仕掛けその度に返り討ちに遭っている。
ただ闇雲に戦争を仕掛けてくる分にはそれほどの脅威は無い。と言っても油断は禁物だが。
しかしわが国には竜騎士団がいる。その力の差は歴然なのだ。
地理的なこともある。数百年前にヴェルヴァルム王国は鎖国をした。それは当時の情勢がそうさせた訳だがヴェルヴァルム王国と隣国トシュタイン王国との境には天に聳えるソヴァッツェ山脈が横たわっている。難攻不落のこの山脈は人馬で越えることは難しい。比較的標高の低いルートで二カ所ほど交易路があったが現在は閉じられている。
閉じられているがトシュタイン王国が攻めてくるのはこの二つのルートしかないのでそのルートに隣接するバスラ―伯領とペーレント伯領は常に警戒をしている。
それにもかかわらずトシュタイン王国はあの手この手で戦争を仕掛けてくるのだった。
ほんの五年前にもトシュタイン王国はトシュタイン王国の南に位置する国、ヘーゲル王国の領土を突っ切り攻めてきたことがある。
ヘーゲルと我が国ヴェルヴァルム王国は大河メリコン川を国境としており、ヘーゲル王国との仲は良好だったためにあわやという事態になったが、運よく巨大竜巻が発生しトシュタイン王国の部隊を大量に巻き込んだ。それで竜騎士団が間に合い事なきを得た。
トシュタイン王国は戦争を仕掛けるばかりではなく様々なテロも仕掛けてくる。
実はこちらの方が厄介だった。ヴェルヴァルム王国の王族やその近辺の人達は幾度となくその犠牲になってきた。
フィリップ達の母、ルードルフの妻もその犠牲者の一人だった。
「戦争を無くすにはどうしたらいいのかしら?」
「トシュタイン王国と和平を結べばいいが、まあ無理だろうな」
「どうして?」
「過去幾度となく結ばれたからだよ。そしてその度に裏切られた。余程のことがなければ信用できないな」
「こちらから攻めたりはしないのですか?」
「しないだろうな」
「でもトシュタイン王国の王様にそっちが攻めたらこっちも攻めるぞって脅かせば?」
「そうすれば大陸全部が敵に回るな」
「え!?」
「わが国には竜がいる。その武力は圧倒的なんだ。どこの国も我が国を恐れている。トシュタイン王国に攻め入ればほかの国は次は我が身だと思う。だからトシュタイン王国の味方をするだろう。大陸全部の国と戦争をしても勝てるかもしれないが犠牲は大きい。領土を広げる気のない我が国にメリットは無いだろう?」
「そうなんですね……」
「ヴィヴィはこの国が大陸全ての国の王になるとか言って戦争に明け暮れるようになったらどう思う?」
ヴィヴィは激しくかぶりを振った。
「嫌です!絶対に嫌!」
「僕もそう思うよ。そしてそうならないように、それから隣国が簡単に攻めて来れないような国を作る手助けをしたいんだ」
フィリップの言葉にヴィヴィも激しく同意した。
「私も手助けをします!いっぱい勉強してフィル兄様のお手伝いをします!」
フィリップは「ああ、期待しているよ」と微笑んだ。




