それぞれの大切なもの(2)
「先の王太子殿下、エドゥアルト殿下の恋人だった女性ですか?」
ルードルフの問いかけに老執事は「はい」と答えた。
ルードルフもフーベルトゥスも唖然とした。今この時にその名前が出てくるなどと露にも思わなかったからだ。
エドゥアルト王子はマリアレーテ王女の兄。マリアレーテ王女が誘拐されて死亡したと思われていた先王の時代、ヴェルヴァルム王家唯一の王子だった。王家唯一の王子であるからこそ早く結婚をすることを望まれ、ブリギッテ・プライセル侯爵令嬢と婚約を結んだが、その後でエドゥアルト王子は下位貴族の令嬢と愛し合った。エドゥアルト王子は何とか穏便に婚約解消を、と奔走したが、ブリギッテは応じず、その令嬢を苛めまくった。その矢先、当の令嬢が馬車の事故で亡くなり、エドゥアルト王子は悲観して自殺した。
全て先王の時代の事であり、現国王、ヘンドリックはまだゴルトベルグ公爵家の嫡男で、ルードルフもフーベルトゥスも学院生だった。
「カーリンお嬢様はどちらかというとお転婆な明るいお嬢様で、ウルリヒお坊ちゃま、いえ、ウルリヒ様との兄弟仲も良く、あの頃はこの屋敷も大層賑やかでございました」
老執事は当時を思い出すように目を細めた。
「エドゥアルト殿下に見初められた当初はまだ旦那様も奥様も恐れ多い事だ、と言いながらも幸せそうなカーリンお嬢様を温かく見守っておられました。しかし嫌がらせが激しくなるにつれお嬢様の顔から笑みが減っていき、やせ細っていきました。ずぶ濡れでご帰宅なされたり、怪我を負っていることもしばしばございました。旦那様は『我らには分不相応な御方だ、身を引くべきだ』とお嬢様を諭され、お嬢様も了承したのですが……エドゥアルト殿下がこの屋敷を訪れ、自分が何とかするからと、陛下も王妃様も説得し、プライセル侯爵家とも婚約解消してみせるから、と仰られたのです。後から聞きましたが、王家の方は『つがい意識』とやらが強く、生涯の伴侶と決めた人には著しく執着するそうでございますね。ええ、わたくしの目にはカーリンお嬢様はエドゥアルト殿下をお諦めになったように見えました。諦めきれなかったのはエドゥアルト殿下の方だったと」
老執事は一旦言葉を切った。
当時に思いをはせるように目を細める。口調からは怒りも悲しみも感じられない。だが、ウルリヒが子供の頃から三十半ばの現在まで彼を支えてきた老執事が何も感じていないわけではないだろう。
「カーリンお嬢様が亡くなられた時——」
一旦言葉を切り、下を向いた彼は顔を上げると何事もなかったように話を続けた。
「旦那様は何度も王宮に訴えました。プライセル侯爵家を調べてくれと。ブリギッテ・プライセル侯爵令嬢の仕業に違いないと。カーリンお嬢様は何度も嫌がらせを受けておりました。怪我は元より、命の危険にさらされたことも一度や二度ではございません。それなのに結局は馬車の事故であったと、証拠はないと突っぱねられ、旦那様も奥様も見ていられないほどに気を落とされました。当時まだ少年だったウルリヒ様ももちろんのことです。使用人の私が申すのもおかしいですが、レークラー男爵家は特別裕福でも何でもない小さな男爵家です、いえ、でした。けれども、笑い声の絶えることのない居心地の良いお屋敷でした。男爵家ですからそんなに厳格な作法を求められることも無く、私ども使用人との距離も近うございました。ですから私どももカーリンお嬢様が亡くなられた時は身を切るような辛さを味わいました」
その馬車の事故についてはルードルフも少し知っている。数年後、ヘンドリックが国王の養子になった時にヘンドリックの治世では新しい側近が必要だろうと当時の宰相から宰相職を打診された時に聞いた覚えがあるのだ。
レークラー男爵に訴えられるまでもなく、王太子のエドゥアルトは必死に馬車事故の原因を探ったそうだ。しかし王太子権限をもってしても馬車事故が作為的なものであるとの証拠は得られなかった。ヘンドリックのようにユリアーネを亡くしてもジークハルトのような忘れ形見があればエドゥアルトは耐えられたのかもしれない。しかしただの恋人同士だった、それもブリギッテとの婚約解消が遅々として進まないその時は浮気相手でしかないカーリンとは一線を越える付き合いはする訳にはいかなかった。そして唯一の王太子であるエドゥアルトはカーリン亡き後、最愛を殺したかもしれないと疑っているブリギッテとの結婚が控えていた。それに耐えられなかったのでしょう、と当時の宰相はルードルフに語ったのだ。
唯一の後継者である王太子の自殺を阻止することが出来なかった後悔と、唯一の王太子であるとの自覚を持ちながら命を絶ってしまったエドゥアルトへの怒りがその口調に現れていたとルードルフは記憶している。
老執事の話はまだ続いている。
まだ核心には触れていない。どうしてウルリヒがこの国を裏切ったのかまだわからないままだ。
「カーリンお嬢様が亡くなった原因が馬車事故だと断定された後も旦那様と奥様は証拠を探し続けました。亡くなった当初は同情的だった周りの方々も、公式に事故だと発表された後でさえプライセル侯爵家に楯突くような行動をするレークラー男爵家と距離を取り、貴族社会の中で孤立する旦那様と奥様は無理がたたり数年のうちに相次いでお亡くなりになりました。ウルリヒ様は十八歳で家督を継ぎ、当主となられましたが、ウルリヒ様の傍には誰も寄り添う家族がいらっしゃらなかったのです。家督を継いだウルリヒ様ですが、領地経営は遠い親戚に任せ、自らは騎士団に入ることを希望されました。学院では文官コースを選択なされておりましたので、私どもは驚きましたがウルリヒ様は血のにじむような努力をされ、騎士団でめきめきと頭角を現しておりました」
「……ウルリヒは誰よりも努力する奴だった。陰で人の二倍も三倍も努力してもそれは一切表に出さず、かといって他者にはそれを強要せず、そっとフォローに回るようなそんな奴だったよ......」
フーベルトゥスが低い声でウルリヒの思い出を語る。誰かに聞かせる言葉ではなく、ただ信頼していた部下であるウルリヒを偲んでいるような呟きだった。
「ウルリヒ様が騎士団に入団して小隊長になった頃でしょうか、ブリギッテ・プライセルが引き起こしたあの事件があったのは」
老執事の語るあの事件とはトシュタインの口車に乗って王妃ユリアーネと赤子の第二王子を殺害したあの忌まわしい事件の事だろう。それによってルードルフも最愛の妻を失ったのだ。
「騎士団に所属していたウルリヒ様は連日忙しく飛び回っておられました。特に犯人がブリギッテ・プライセルと断定された後は鬼気迫るものが感じられるほどでしたが、プライセル一家がトシュタイン王国で殺された後は抜け殻のように無気力になってしまわれました。表面上は以前と変わらないウルリヒ様でしたが、幼い頃からウルリヒ様を見てきた私にはウルリヒ様が生きる支えを失ってしまったように感じました」
最初は侯爵令嬢と敬称をつけていた老執事は、先ほどからブリギッテ・プライセル、と呼び捨てにしている。しかしこの場にいる誰も彼を咎めなかった。
「そんなウルリヒ様が曲がりなりにも気力を取り戻されたのが三年前でしょうか。ただ......」
「ただ?」
言い淀んだ老執事はルードルフの誰何に迷った末に口を開いた。
「そのころからウルリヒ様はこの屋敷の整理を始めていたように感じましたもので......。家財道具も随分処分いたしましたし、使用人も......今この屋敷に残っているのは私や古参のメイド、年老いた料理人、つまりいつ引退してもおかしくない年寄りが数名でございます。ああ、家財道具を処分されたと申しましたが、カーリンお嬢様が愛用されていた文机は残っておりますし、カーリンお嬢様が生きておられた頃の家族の肖像画はウルリヒ様のお部屋にございます。............ウルリヒ様はご領地の一本杉の丘で亡くなられたとか」
「ああそうだ」
フーベルトゥスが頷くと老執事はほんのわずかだが微笑みを浮かべた。
「あの丘はウルリヒ様の思い出の地なのです。カーリンお嬢様がエドゥアルト殿下と知り合う前、ご一家で領地に行かれた時には必ずあの丘でピクニックを楽しまれておりました」
老執事はまたも目を細めて思い出に浸っているようだ。
結局ウルリヒがこのヴェルヴァルム王国を裏切ってトシュタイン王国に情報を流したのはどうしてなのか、ルードルフはわかるようでいてわからない何とも言えない気持ちを抱えていた。
老執事の長い長い昔話でウルリヒが騎士団に入団したきっかけはわかったような気がする。もちろんウルリヒは既に死んでしまっているので推測でしかないが、ウルリヒはブリギッテ・プライセルを、もしくはプライセル侯爵を害そうと思っていたのではないか? 剣の腕を磨きながらその機会を待っていた。しかしプライセル侯爵もブリギッテもトシュタイン王国に逃げ、そこで殺されてしまった。行き場のない思いは次にどこに向かったのだろう。
「ウルリヒは何のためにトシュタインに情報を流していたのか、それを耳にしたことは無かったか?」
フーベルトゥスの問いに老執事は首を横に振った。
「先日、ウルリヒ様が亡くなられたとの知らせを受け取るまで、私共はウルリヒ様がそんなことをしていたとは思ってもみませんでした。私が知っているのは偶にウルリヒ様がうなされていたこと、お部屋の肖像画の前で『エドゥアルト殿下が諦めてくださっていれば......』と涙していたこと、それから……『知っているか? 王家の人間はつがい意識とやらで見初めた相手に執着するらしい。執着された方はたまったもんじゃないよなあ』と笑って私に話されたことがあるということだけです。ああ、こうもおっしゃっておりました『竜神様の性質なのかもしれないけれど、そんな迷惑極まりない性質を持った王家なんて害悪じゃないか?』と。申し訳ありません、不敬だとおしゃるのならウルリヒ様の代わりに私を処刑していただけますか?」
もちろん老執事を捕まえるようなことはフーベルトゥスはしなかった。
不敬発言をしたのはウルリヒであり、彼は既に死んでいる。つまりウルリヒは行き場のない怒りを現王家、竜神様の血を受け継ぐ者に向けたということだろうか。
釈然としない思いを抱えたまま、これ以上老執事から証言は引き出せないと調査官たちは引き上げることにした。継ぐ者もいなくなってしまったが、レークラー男爵家がどうなるかまだ決定はしていないため老執事たちにはもう少しこの屋敷に留まるよう言いおいて廊下に出たフーベルトゥスに古参のメイドが一冊のノートを差し出した。
「これは?」
「坊ちゃ......ウルリヒ様から言付かっておりまして」
彼女の話ではもし自分が死ぬようなことがあればカーリン嬢の文机の一番下の引き出しに入っているものをフーベルトゥス騎士団長に渡してくれと言われていたらしい。
「坊ちゃまには縁起でもないことを、と申し上げたのですが、騎士団に所属する以上、何があるかわからないからと仰いまして」
うっすらと涙を浮かべる古参のメイドは三十半ばのウルリヒを坊ちゃまと呼んだ。
ウルリヒの私室や執務室は既に捜索済みだが、トシュタイン王国に関するものは何も出てきていなかった。物置に残されていたカーリン嬢の文机は盲点だったが……
「これはっ!!」
パラ......と中を見てフーベルトゥスは驚きの声を上げた。
王宮に帰り詳しくノートを調べた結果、トシュタイン王国の間者の名前、連絡の方法、漏らした情報など全てがそのノートに書かれていた。
ノートに書かれていた情報に基づき、王都の市街に潜むトシュタイン王国の間者や情報網を押さえることが出来たことからもそのノートに書かれていたことは真実だろうと結論が出た。
ウルリヒがトシュタイン王国に流していた情報は竜の森の守衛や巡回騎士の情報のみだとノートには書かれている。
もちろんそれだけでも大罪だが、他の情報、例えば騎士団第四隊の動きなどを流されていたら、もっと厄介な事になっていた筈だ。諜報活動で得た情報は、国王や宰相であるルードルフ以外には原則漏らさないものであるが、諜報を主とする第四隊がどんな時期にどんな場所に出向いたのかをウルリヒは知る立場にあった。
「俺はなあ、ルードルフ。……未だにウルリヒを信じたいんだ......甘いかもしれないが……あいつが騎士団で俺たちと共に泣いたり笑ったりして過ごした時間は全て噓だったと思いたくねえんだよ......あいつはいつも穏やかで俺たちが馬鹿笑いしても後ろで静かに笑っているような奴だったけど、確かに仲間だったんだ......」
フーベルトゥスはルードルフにしか聞こえないほどの声で嘆いた後にパンと両頬を叩いて顔を上げた。
「さて、トシュタイン王国との決戦は間近だ!! 気合を入れねえとな!」
そして感傷に浸る暇もなく夏の終わり、フーベルトゥス騎士団長率いる王国騎士団の大隊が秋の大演習のために王都を出発した。
王都民は華やかな上にも一糸乱れぬ騎士たちの騎馬行進を手を振って見送った。
平民たちには、いや一部を除いた貴族たちにもトシュタイン王国の侵攻は知られていない。騎士たちを見送る見物人たちの顔は皆晴れやかでこの国の平和を享受していた。
トシュタイン王国の軍勢は隣国ヘーゲル王国の近くまで迫っておりヘーゲル王国の王弟が共同軍事演習だと王に言い訳をしてトシュタイン王国の軍勢を迎えに行ったことも報告が来ている。
トシュタイン王国と我が国の戦争の結果いかんでは軍勢を率いて王位簒奪を狙っているらしい。
そのことはヘーゲル王国の内情なのでヴェルヴァルム王国は関与しない。ヘーゲル王国の国王には王弟の企みを教えたので彼らが対処するだろう。
戦いは目前まで迫っていた。




