第51話「深淵のグリスと、換気扇フィルターの理屈」
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> **第3000階。**
> **油だった。**
> **全部、油だった。**
> **攻撃も、魔法も、滑った。**
> **神の威厳も、滑った。**
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> **でも清掃員は知っている。**
> **油の落とし方を。**
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**◆ 深淵のグリス 視点 ◆**
「来たか」
グリスは、油の海の中心に浮いていた。
体が、揺れていた。
液体と気体の中間。
形が、定まっていなかった。
「私は四天王第二の将、深淵のグリス」
グリスは、腕を広げた。
フロア全体が、黒光りしていた。
床も、壁も、天井も。
古くなった揚げ物油のような、重い異臭が漂っていた。
数千年分の油が、積み重なっていた。
「物理攻撃は全て滑り、魔法は油膜の中で屈折して不発に終わる」
グリスは嗤った。
「ここを突破した者は、いない」
扉が開いた。
黄色いヘルメットの一行が、入ってきた。
最初の一人が、床に足をついた。
ずるっ、と滑った。
「うわっ」
「あ」
「やばい」
後ろの全員が、連鎖して滑った。
「いい兆候だ」
グリスは目を細めた。
「ゆっくり沈め」
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**◆ 油膜地獄 視点 ◆**
「うわあああ!!」
アレスが、床で大回転した。
かつて神話の時代に無双した戦神が、油の床でくるくると回っていた。
「神の威厳が滑るうう!!」
「アレスさん!」
「掴まるな!! 一緒に滑る!!」
アテナが手を伸ばして、一緒に滑った。
知恵の神が、床を横断した。
「ちくしょう!!」
ザルディウスが突撃した。
五歩目で滑った。
「先輩えええ!!」
そのまま壁まで滑っていった。
「我は元魔王……なぜ壁に激突している……」
蓮が慎重に踏み出した。
「師匠、床が——」
「わかってます、気をつけて」
「わかっても——うわっ!!」
滑った。
「さすがの弟子も滑るか」
グリスが、余裕の声で言った。
「ハクさん」
俺はハクを見た。
ハクが手を上げた。
「滅菌光線——」
光が走った。
グリスの油膜に当たった。
屈折した。
「え」
光が、曲がった。
自分たちの方に向かってきた。
「うわ!!」
全員が伏せた。
光が、後ろの壁に激突した。
轟音が鳴った。
「……屈折率」
ハクが、手を見た。
「油の屈折率で、光が曲がった」
「そうです」
俺は頷いた。
「ハクさんの光は通常の洗浄手法と同じで、今の環境では直接使えない」
「では——」
「別のアプローチです」
グリスが嗤った。
「どうする、清掃員。お前の道具も、今頃油膜に覆われているぞ」
俺は道具箱を確認した。
確かに、外側が油でコーティングされていた。
「なるほど」
俺は言った。
「これは換気扇のフィルター案件ですね」
「換気扇……?」
「油汚れの、一番ひどいやつです」
俺は背負っていた機材に手をかけた。
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**◆ 湊の精密洗浄 視点 ◆**
「油汚れには、二つのアプローチがある」
俺は機材を展開しながら言った。
「一つは溶剤で溶かす。もう一つは温めて振動を与えて分解する」
「油を溶かすだと?」
グリスが、声を上げた。
「溶剤は私の体内で油に変質する。無効だ」
「そちらは使いません」
俺は机に機材を置いた。
「油は冷えると固まりますが、温めると柔らかくなる。そこに振動を加えると、細かく乳化する」
「乳化……」
「ドレッシングをよく振ると、油と水が混ざりますよね。あれが乳化です」
「私をドレッシングと同列に……!!」
「油は油です」
俺は機材を起動した。
「超音波温熱洗浄ポッド」
ドクター・ライトが作ってくれた機材の一つだ。
高周波の超音波と、熱を同時に放出する。
「設置します。全員、壁際に下がってください」
「うわあああ!!」
「下がろうとして滑ってる!!」
「はいはいはい!! 押さないで!!」
「混乱してる場合じゃ——わっ!!」
「だから言いましたよね、ゆっくり動いてください」
俺はポッドを、フロアの中央に向けて固定した。
「設定温度、八十度。超音波周波数、四万ヘルツ」
スイッチを入れた。
熱が、広がった。
音が、聞こえない音が、空間に満ちた。
床の油が、動いた。
「……な」
グリスが、体を見た。
自分の体の表面が、細かく振動していた。
「なんだ、この感覚は……」
「油が分子レベルで揺れてます」
「やめろ……!」
「もう少し待ってください」
油が、乳白色になっていった。
固まった黒い油が、白く変わっていった。
「私の……体が……」
「乳化が始まりました」
グリスが、叫んだ。
「攻撃しろ!! 今すぐ止めろ!!」
油の触手が、俺に向かってきた。
「キュウちゃん、バリアをお願い」
「きゅう!!」
キュウちゃんが、浄化の膜を張った。
触手が、当たった。
乳化が、加速した。
「あああ!!」
「あと少しです」
「やめてくれ!! 私はドレッシングじゃない!!」
「油は油です。乳化したら、水で流せる」
俺はキュウちゃんを見た。
「準備はいいか、キュウちゃん」
「きゅう!!」
キュウちゃんが、大きく息を吸った。
「今だ!!」
キュウちゃんが、聖水を吹いた。
今日一番の水流だった。
乳化した油が、流れた。
フロア全体が、水に洗われた。
グリスの体が、水流に乗った。
「私は……ただのドレッシングに……!?」
「そうです」
「四天王が……!! 深淵のグリスが……!!」
「排水口はあちらです」
「排水口に流れていくのかああ!!」
グリスが、渦を巻いた。
排水口に向かった。
「ごぼごぼ」という音がした。
消えた。
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静寂が落ちた。
フロアが、白くなっていた。
油が消えた床が、石畳の素材だった。
「……」
アレスが、ゆっくり立ち上がった。
「終わったのか」
「終わりました」
「床が……滑らない」
アテナが、一歩踏んだ。
「滑らない」
「油が落ちたので」
ザルディウスが、壁から剥がれた。
「先輩……我は元魔王です……壁に張り付いていました……」
「お疲れ様でした」
「威厳が……」
「油のせいです。気にしないでください」
蓮が、立ち上がった。
「師匠、滑りすぎて何回転もした」
「何回転でしたか」
「数えてません。恥ずかしくて」
「桐生さんと成瀬さんは?」
「二人でぶつかって、一緒に転がってました」
「怪我は?」
「油でクッションになってたので、大丈夫でした」
ハクが、フロアを見た。
「超音波と熱で乳化させて、水で流した」
「はい」
「物理的だな」
「洗浄は基本、物理です」
ハクが、少し考えた。
「換気扇のフィルターと同じ、と言っていたな」
「家庭用の換気扇フィルターも、同じ油汚れです。温めて、振動を与えて、洗い流す。原理は一緒です」
「四天王第二の将が、換気扇フィルターか」
「油は油なので」
ハクが、フロアを見渡した。
きれいな石畳だった。
「……次に行くか」
「そうですね。ただ」
俺は言った。
「少し休憩を入れましょう。キュウちゃんが疲れています」
「きゅう……」
キュウちゃんが、俺の肩でぐったりしていた。
「ここで休憩か」
「十分で十分です。ご飯も食べましょう」
俺はカバンから、おにぎりを取り出した。
「こんな状況でおにぎりを」
「持ってきてよかったです。ハクさん、食べますか」
「……いらない」
「そうですか」
「……一個だけ」
「はい」
ザルディウスが、おにぎりを受け取った。
アレスも受け取った。
全員で、石畳の床に座った。
油の臭いが消えた、きれいな空気の中で。
おにぎりを食べた。
上には、まだ階段が続いていた。
四天王は、あと二人いた。
でも今は、おにぎりだった。
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**◆ 現場報告書 ◆**
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影山工務店 現場報告書 #005
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【案件名】
ラスト・ジグラット 第3000階 四天王戦 第二戦
【作業時間】
三十一分(休憩含まず)
【使用道具・設備】
・超音波温熱洗浄ポッド(初投入)
温度設定:八十度
超音波周波数:四万ヘルツ
・キュウちゃんの聖水(大量放出)
・ハクさんの光(今回は屈折で不発)
【作業結果】
第3000階フロア、全域油膜除去完了。
四天王第二の将「深淵のグリス」
排水口に流下。消滅確認。
【問題点・改善事項】
・アレス、ザルディウスをはじめ
多数が派手に転倒(負傷なし)
・神の威厳が数名分、損傷した模様
(回復は時間が解決すると思われる)
・ハクさんの光が屈折して跳ね返った
→全員で回避。今後は油系の敵には
事前に使用禁止を周知する
【キュウちゃんについて】
大量放水で疲労蓄積。
現在休憩中。おにぎり一個食べた。
次の戦闘前に、必ず回復を確認する。
【四天王残数】
第一の将:壁に埋め込み中
第二の将:排水口に流下済み
第三の将 :未確認
第四の将 :未確認
【一言】
油汚れには温度と振動です。
これは換気扇の掃除で学んだことですが、
スケールが変わっても、原理は同じでした。
基本は、大事です。
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影山湊 (印)
キュウちゃん(肉球 疲れ気味)
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*次話へつづく*
第51話あとがき:影山湊の「清掃日誌」
## 影山湊の現場報告書
【今日の汚れ度:★★★★★(ベタつきの極致でした)】
第3000階のグリスさん、油汚れとしては史上最強クラスでした。攻撃が滑るだけならまだしも、ハクさんの滅菌光線まで屈折させるのは反則に近いですね。でも、油は熱と振動に弱い。これは換気扇掃除の鉄則です。
【職人の一言】
「換気扇の油汚れが落ちないときは、無理に擦らず、50度〜60度のお湯に重曹や洗剤を溶かして『つけ置き』しましょう。汚れが緩んでからが本番です。焦りは禁物ですよ」
【近況報告】
休憩中におにぎりを食べましたが、やっぱり日本人の魂は米ですね。実は最近、自分のNoteで「現場で食べる最強の夜勤飯」という記事を書いたのですが、思いのほか好評で驚いています。漫画『ドリブラーキーパー』の原稿も、このくらいスムーズに筆が進めばいいのですが……。
【次回予告】
次の現場は「第6000階:静寂の塵エリア」。
四天王三人目、触れることすら許されない「塵」の支配者が登場します。
次回、第52話「積もる因縁と、静電気除去の極意」でお会いしましょう。
皆さんの【★★★★★】評価が、次なる階層への階段を照らす光になります!




