第45話「ネームの修正と、鏡面仕上げの作業机」
**◆ 担当編集者 視点 ◆**
山田は、アパートの前で深呼吸した。
三回目の深呼吸だった。
「落ち着け、落ち着け」
自分に言い聞かせた。
担当漫画家の自宅を訪問するのは、普通の仕事だ。
いつものことだ。
でも。
「影山湊先生は……」
山田は手帳を見た。
去年から担当している漫画家、影山湊。
サッカー漫画『ドリブラーキーパー』の作者。
同時に。
世界を救った清掃員。
次元の亀裂をコーキング材で封じた男。
天界の神々に掃除を教えた人物。
「なんで担当してるんだ、私は」
山田は呻いた。
でも仕事だ。
ネームの修正が終わらないと、先生から連絡が来ていた。
行くしかない。
インターフォンを押した。
「はーい」
のんびりした声がした。
扉が開いた。
作業着ではなかった。
シンプルなTシャツとジャージ姿の男が、頭をかきながら立っていた。
「山田さん、すみません。ネームが全然まとまらなくて……」
「い、いえ! こちらこそ急に——」
「どうぞ上がってください。散らかってますが」
山田は中に入った。
散らかっていなかった。
一点も。
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**◆ 影山湊 視点 ◆**
ネームが、まとまらなかった。
第三十一話のクライマックス。
主人公のGKが、絶体絶命のピンチで魅せる場面だ。
どう描いても、迫力が足りない気がする。
「うーん」
俺は消しゴムをかけた。
消しカスを、すぐにはたいた。
机に残った細かい粉を、小さなブラシで払った。
「先生、それ……」
山田さんが、机を見ていた。
「何でしょう」
「机が……鏡みたいです」
「磨いてあるので」
「iPadも……指紋が一つもない」
「使ったら拭くので」
「PCも……」
「道具は清めないと、良い線が描けないです」
俺はそう思っている。
清掃の仕事と、漫画の仕事は、根本が同じだ。
道具の状態が、仕事の質に直結する。
汚れた道具では、良い仕事はできない。
「あの……」
山田さんが、おそるおそる聞いた。
「この環境で、毎日描いてるんですか」
「はい。あと、背景はAIも使ってます」
「AIを……」
「効率的に良い絵が作れれば、その分キャラクターの動きに集中できる。掃除と同じで、無駄を省くんです」
「む、無駄を省く……」
「余計な手順を踏まずに、必要なことだけをやる。そうすると仕上がりが良くなります」
山田さんが、何かメモをとり始めた。
「先生、今日はネームのどの部分が——」
「三十一話のGKシーンです」
俺はネームを広げた。
「このコマなんですけど、GKが飛び出すタイミングが、読者に伝わらない気がして」
「見せてもらえますか」
山田さんがネームを手に取った。
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一時間、話し合った。
山田さんのアドバイスで、コマ割りを変えることにした。
「飛び出す前の一コマを足して、GKの目線を先に見せる。そうすると読者が次の動きを予感できる」
「なるほど」
俺は下書きを始めた。
GKが、低い姿勢から地面を蹴る瞬間。
土が、飛ぶ。
スパイクの跡が、フィールドに残る。
泥が、ユニフォームにつく。
「泥の描写、リアルですね」
山田さんが、横から覗いていた。
「試合のグラウンドって、こういう汚れ方をするんですよ」
「詳しいんですね、先生」
「清掃の仕事で、グラウンドの泥を落とすことがあって。泥の種類によって、飛び散り方が違うんです」
「……そうなんですか」
「赤土と黒土では乾いたときの固まり方が違う。水を含んだ状態での伸び方も違う。だから、雨天試合の泥と、晴天試合の泥は、ちゃんと描き分けた方が良いと思って」
山田さんが、静止した。
「描き分けてるんですか、泥を」
「はい。試合の天候によって変えてます」
「……」
山田さんは、もう一度ネームを見た。
GKの足元に、細かく描かれた土の描写があった。
確かに。
違った。
先週のネームの泥と、今日の泥は、質感が違った。
「これ……すごくないですか」
「そうですか? リアルに描かないと気持ち悪くて」
俺は続けた。
「スパイクの底の溝に詰まった泥の描写も、メーカーごとに溝の形が違うから、靴を変えたらちゃんと詰まり方も変えてます」
「……靴の泥の詰まり方も変えてる」
「はい」
「選手ごとに」
「そうしないと」
俺は下書きを続けた。
線が、迷いなく動いた。
山田さんが、黙って見ていた。
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**◆ 世界中のファン(SNS)視点 ◆**
発売日の翌朝、SNSが動いた。
『ドリブラーキーパー』31話の感想が、流れ始めた。
『GKが飛び出すシーン、泥の描写がやばい』
『フィールドの土の匂いがする』
『漫画で匂いを感じたの初めて』
『GKの足元の泥、なんか……リアルすぎて不安になるレベル』
『スパイクの溝の泥、ちゃんとメーカーごとに違う!?』
『気づいてる人いて草』
『作者何者なんだ』
『清掃員って聞いたことあるけど関係ある?』
『清掃のプロが泥の質感を漫画に活かしてるんだとしたら……』
『もはや芸術の域では』
山田は、会社のデスクでSNSを見ていた。
コーヒーを飲みながら。
昨日の訪問を思い出していた。
「インクが付いたので机拭きますね」
原稿が完成した瞬間、影山先生がそう言って、すぐに雑巾を取り出した。
インクが付いた机を、丁寧に拭いた。
鏡面が、また戻った。
世界を救った手が、机を拭いていた。
「……担当、続けよう」
山田は呟いた。
コーヒーが、少し冷めていた。
SNSのコメントが、まだ流れていた。
『次話、GKが主人公に怒鳴るシーンがあるけど、あの目線の描写……清掃員が魔王を叱るときの目に似てる気がする』
『それは流石に深読みしすぎでは』
『でもなんか説得力がある』
『作者が本当に何者なのかが気になりすぎる』
山田はスマホを置いた。
作者が何者か、山田は知っていた。
でも言えなかった。
言ったら、誰も信じないから。
窓の外の空が、澄んでいた。
どこかで清掃員が働いているのか、今日も空気がきれいだった。
――この穏やかな日常が、永遠に続くと、誰もが思っていた。
【第二章・腐敗王編 始動】
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