第33話「一千億の迷惑メールと、深夜手当の安心感」
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**◆ 世界政府・他国ギルドの重鎮 視点 ◆**
「確保しろ」
アメリカの国防長官が、机を叩いた。
「どんな条件でもいい。白紙の小切手を持っていけ」
「一万年の汚泥宮を単独で……しかもヘラ一本で……」
補佐官が震える声で言った。
「あの映像は本物なのか」
「本物だ。三十カ国の衛星が同時に記録している」
「……では、国家予算を全額提示しても」
「惜しくない」
中国の会議室でも、同じような会話が行われていた。
グレイシア帝国の皇帝は、玉座から転げ落ちそうになりながら映像を見ていた。
「太陽神が……また奇跡を……!」
「陛下、早急に特使を派遣しなければ」
「名誉大公の地位では足りないか」
「帝国そのものを、お渡しした方がよいかと」
「では帝国ごと持参しろ」
「帝国を持参……はい、何とかします」
世界中の重鎮たちが、白紙の小切手と国家予算と、一部は国そのものを手に動き出した。
全員の目的地は一つ。
日本。
東京。
第三和荘203号室、または蒼穹の剣ギルド本部。
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**◆ 影山湊 視点 ◆**
休日明け。
夜勤前の準備をしていた。
作業着を確認して。
モップのオイルメンテをして。
キュウちゃんに今日のご飯をあげて。
「きゅう」
「今日はちゃんと待っててくれよ。夜勤中はお留守番だぞ」
「きゅう……」
「さみしいか。でも夜は危ないからな」
俺はスマホを確認した。
知らない番号からメールが来ていた。
件名:【緊急】特別オファーのご提案
開いた。
『影山湊様。このたびは我が国の清掃担当として、年俸一千億円でのご契約をお願いしたく——』
「一千億」
俺は鼻で笑った。
「最近の迷惑メールは金額のインフレが激しいな」
一千億なんて、ゲームの課金通貨か何かか。
俺は即ブロックした。
別のメールが来た。
件名:【至急】国家レベルの好待遇について
『国家予算の全額を報酬として——』
ブロック。
また来た。
『帝国全土を——』
ブロック。
「怪しいメールが多いな、最近」
俺はスマホをポケットにしまった。
玄関のドアを開けた。
廊下に、スーツ姿の男が四人立っていた。
「影山湊殿!!」
「うわっ」
「我々は世界政府の——」
「知らない人についていっちゃダメって教わったので」
俺は素早くドアを閉めた。
「え? ちょっと待って——」
鍵をかけた。
裏口から出た。
ベランダを伝って非常階段に降りた。
スマホの時計を見た。
21:48。
夜勤の始業まで、あと十二分だ。
「やばい、ダッシュしないと」
俺は全力で走り出した。
路地の角を曲がったところで、また黒スーツが数人いた。
「影山殿! 我が国は——」
「ごめんなさい、遅刻しそうなんで!」
俺はそのまま走り抜けた。
また別の方向から車が来た。
高級車だった。
窓が開いた。
「影山さん! 一言だけ——」
「急いでます!!」
俺はまた走った。
何人かに追われながら、なんとかギルド本部への路地に入った。
はぁはぁしながら、裏口から入る。
「21:59。よかった、一分前だ」
俺はタイムカードを押した。
22:00。
「よし、定時だ」
俺は道具を確認した。
今日の夜勤エリアのメモを見た。
「さて、今日も頑張るか」
道具を持って歩き出しながら、俺は思った。
(今日もちゃんと夜勤手当が出る)
(交通費も全額支給される)
(ちゃんとしたシフトで、ちゃんとした休憩があって)
(残業したら残業代が出る)
(ブラック企業だったあの頃と、なんて違うんだ)
俺は満足感を噛みしめた。
さっきの怪しいメールと勧誘を思い出した。
年俸一千億。
国家予算全額。
帝国丸ごと。
「あんな怪しい高額バイトより」
俺はモップを肩に担ぎ直した。
「しっかり手当が出る今の職場が、一番安定してるな」
これが社会人として大事なことだ。
月給、夜勤手当、交通費、有給休暇、社会保険。
全部ちゃんと出る職場。
「前のブラック企業が懐かしくなるくらい、今はホワイトだ」
俺はウキウキしながら、夜勤の現場に向かった。
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**◆ 神代・しずく 視点 ◆**
翌朝。
ギルド本部の前に、高級車が十数台並んでいた。
各国の国旗がついた車もあった。
運転手つきの、明らかに一般人ではない人たちが、ギルドの前で折り重なるように土下座していた。
「影山殿を! どうか我が国に!!」
「年俸は幾らでも!!」
「領土ごとお譲りします!!」
神代は、正面玄関から外を見ていた。
「……昨夜からいるのか、あの人たちは」
「はい」と副ギルドマスターが答えた。
「世界政府の特使、グレイシア帝国の皇帝直属、他七カ国の特命全権大使……全部で四十三名が徹夜で待機しています」
「どうするんですか神代さん」としずくが言った。
「どうもしない」
神代は静かに答えた。
「あの方がどうするかによる」
そのとき、ギルドの裏口が開いた。
「おはようございます」
湊が入ってきた。
夜勤明け。
目が半分閉じていた。
あくびをしながら、タイムカードを押した。
「夜勤手当の申請、今日中に出しておきますね」
「……影山殿」
神代が声をかけた。
「正面玄関の件、知っているか」
「あ、それなんですけど」
湊がカバンを下ろした。
「玄関前に変な勧誘の人たちが溜まってたんで」
「ん?」
「塩撒いて掃除しておきましたよ」
沈黙が、落ちた。
「……塩を」
神代の声が、かすかに震えた。
「世界政府の特使に……」
「縁起が悪いじゃないですか、玄関に人が溜まってるのは。商売繁盛するように塩を撒いたんですよ」
「そういう意味じゃなくて……」
「あ、それより深夜手当の計算なんですけど、三時から五時の間って一・五倍ですよね? 昨日ちょうどそこがかかったんで」
「……かかってるな」
「じゃあ計算して申請しておきます。おやすみなさい」
湊が、仮眠室に消えた。
しずくは正面玄関の方を見た。
外では、塩をかけられた特使たちが「縁起が良い……! 神が清めてくださった……!!」と感激して泣いていた。
「しずく」
神代が静かに言った。
「はい」
「影山殿の時給を、今すぐ上げろ」
「いくらにしますか」
神代は少し考えた。
「本人が納得する範囲で、できる限り上げろ。じゃないと……」
神代が正面玄関の方を見た。
「あの方が、うっかり塩を撒きすぎて、世界政府との外交問題になる」
しずくは静かに頷いた。
「わかりました」
しずくはパソコンを開いた。
(師匠の時給、絶対に上げなきゃ死ぬ)
(物理的な意味で、周囲が)
キーボードを叩きながら、しずくは心の中でそう思った。
正面玄関では、塩をかけられた特使たちがまだ泣いていた。
「ありがたや……ありがたや……」
神代は額に手を当てた。
今日も長い一日になりそうだった。
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