第23話「海の栓を抜いたら、神話になった」
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**◆ アルテミア共和国 視点 ◆**
港が、消えかけていた。
三ヶ月前から続く嵐。
絶えない渦潮。
そして、その中心に君臨する巨大な影。
Sランク海竜『深淵の暴君』。
全長百二十メートル。鱗の一枚一枚が鋼鉄より硬く、吐き出す水流は都市ひとつを飲み込む。
港湾都市の市民は半数が避難し、残った者たちも希望を失っていた。
大統領のサンチェスは、港の端に立って荒れ狂う海を見つめていた。
「もう終わりか……」
そのとき、転移陣が光った。
作業着姿の男が、現れた。
「サンチェスさん、影山です。清掃の依頼をいただいていた者ですが」
「お、おお……! 救世主殿……!!」
サンチェスは駆け寄った。
「よく来てくださいました……! どうか、どうかあの悪魔を……我が国の民を、お救いください……!!」
「はい、現場確認しますね」
男は、荒れ狂う海を見た。
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**◆ 影山湊 視点 ◆**
海が、汚かった。
まず、色が違う。
正常な海の色じゃない。
濁った黒緑色。
水面に油膜が浮いていて、異臭もする。
波が高い。渦潮が複数発生している。
「うわー」
俺は思わず声が出た。
「浴槽の底に水垢がびっしりだ」
「……浴槽」
サンチェス大統領が繰り返した。
「水が濁ってて、底が見えないんですよね。これじゃどこが一番汚いか判断できない」
渦潮の中心に、時折、巨大な影が見える。
あれが海竜だろう。
でも水が濁りすぎていて、全体が把握できない。
「底の頑固な汚れを落とすには」
俺は独り言を言いながら、腕をまくった。
「まず水を抜かないとダメですね」
「……水を?」
「浴槽の掃除の基本ですよ。水が入ったまま底を磨いても意味がない」
俺は港の端に立った。
海を見た。
広い。
普通の浴槽じゃないが、やることは同じだ。
栓を抜く。
俺は海に向かって右手をかざした。
お風呂の栓を抜くときと同じ要領で。
腕をスッと、振り下ろした。
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**◆ 共和国 視点 ◆**
音が、した。
轟音、というより。
世界が、息を呑む音だった。
「な」
サンチェスの声が、出なかった。
海が。
割れた。
真ん中から。
左右に。
ゆっくりと、しかし圧倒的な力で。
海が左右に分かれていった。
壁のような水の塊が、両側に立った。
海底が、むき出しになった。
岩礁。砂地。珊瑚の骨格。
そして。
「お、いた」
影山の声が、静寂の中に響いた。
海底に、でかい生き物が横たわっていた。
全長百二十メートル。
水を失った海竜が、ビチビチと跳ねていた。
「あそこが一番汚れてますね」
影山がミスリル製モップを肩から下ろした。
海底へ、降りていく。
「ちょっと待ってください、救世主殿——!!」
サンチェスが叫んだ。
「危険です、あれはSランクの——」
影山の背中は、すでに遠かった。
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**◆ 湊 視点 ◆**
海底は、思ったより歩きやすかった。
砂地がしっかりしていて、足が沈まない。
ただ、魚がたくさん転がっていた。
「後で海に戻してあげないとな」
俺はそう思いながら、海竜に近づいた。
近くで見ると、でかい。
本当にでかい。
鱗が黒く変色していて、油脂の塊がこびりついている。
長期間、港に居座っていた汚れだ。
「根が深そうだな」
俺はモップを構えた。
海竜が、こちらを見た。
赤い目が、細くなった。
水のない状態でも、咆哮は出るらしい。
地鳴りのような声が、海底に響いた。
俺はモップを一振りした。
キュッ。
良い音がした。
ミスリルのモップは、やはり優秀だ。
摩擦感が均一で、汚れの取れ具合が手に伝わってくる。
もう一振り。
キュッキュ。
海底が、少し輝いた。
三振り目。
海竜が、消えた。
鱗の油脂が、消えた。
変色した岩盤が、消えた。
海底が、ぴかぴかになった。
「うん、完璧」
俺は立ち上がって、周囲を見渡した。
どこまでも続く、磨き上げられた海底。
「栓、戻しておきますね」
俺は海の壁に向かって、手を振った。
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**◆ 共和国 視点 ◆**
海が、戻ってきた。
左右の水の壁が、ゆっくりと中央に向かって流れ込んできた。
影山が、海底から港へ向かって歩いてくる。
海が、その背後で戻っていく。
まるで、許可を得た海が、静かに元の場所に帰っていくように。
「……」
サンチェスは、言葉が出なかった。
隣に立っていた海軍提督が、膝から崩れ落ちた。
「モーゼだ……」
掠れた声だった。
「神話のモーゼが……現代に……」
「違う」
別の閣僚が、震えながら言った。
「モーゼは海を割っただけだ」
「あの方は」
「海を割って、底を掃除して、戻した」
沈黙が落ちた。
港の水が、透き通っていた。
嵐が、止んでいた。
渦潮が、消えていた。
三ヶ月ぶりの、穏やかな海が広がっていた。
「お待たせしました」
影山が、港に戻ってきた。
モップを肩に担いで、爽やかな顔をしていた。
「海竜の水垢、取りきれました。底もピカピカです」
「……」
「あ、魚が転がってたんで、海に戻しておきました。一部は食べられなくなってたんで、そこは処分しましたが」
「……影山殿」
サンチェスが、やっとのことで声を出した。
「何でしょう」
「あなたは……一体」
影山が、首をかしげた。
「清掃員ですよ」
当然のように、言った。
「請求書、後ほど送ります。今月中のお支払いでお願いします」
サンチェスは、その場で泣き崩れた。
港に集まっていた市民たちが、一斉に歓声を上げた。
三ヶ月ぶりの、青い空の下で。
透き通った海が、穏やかに光っていた。
その端っこで、清掃員が請求書の金額を電卓で計算していた。
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