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第17話「脱力の一振りで、壁が消えた」

◆ 橘蓮 視点 ◆

眠れなかった。

昨夜ずっと、あの光景が頭から離れなかった。

渾身の斬撃が、ちりとりに収まる瞬間。

魔法が、ホコリ扱いされる瞬間。

ピカピカに磨かれた訓練場の床に映った、自分の呆然とした顔。

夜明け前に起き上がって、蓮は桐生と成瀬に連絡を入れた。

『六時に訓練場集合』

二人とも即レスだった。

おそらく、同じように眠れていなかったのだろう。


六時ちょうど。

影山は、すでに訓練場にいた。

モップを肩に担いで、端の方から掃除を始めていた。

蓮たち三人はジャージ姿で、その前に整列した。

「師匠!」

蓮は頭を下げた。

「俺たちを、弟子にしてください!」

桐生と成瀬も、同時に深々と頭を下げた。

「どんな厳しい修行にも、耐えます!」

沈黙が落ちた。

蓮は頭を下げたまま待った。

「……ああ」

影山の声は、のんびりしていた。

「会社から派遣されてきた研修生か。連絡来てたな、そういえば」

「え?」

「やる気があっていいな」

影山がモップを壁に立てかけた。

こちらを見る目が、先輩の目だった。

新人バイトを迎える、ごく普通の先輩の目。

「弟子っていうか……まあ、先輩として基本から教えるよ」

蓮は顔を上げた。

影山は腕を組んで、ごく自然な顔で言った。

「まずは二つ。汚れの気配の察知と、無駄のないフォーム。これが全ての基本だ」

蓮の背筋が、伸びた。

「は、はい師匠……!」

「師匠はやめて。先輩でいいよ」

「せ、先輩……!」

「うん。じゃあ行くか」

影山はモップを担ぎ直した。

「研修は実地でやる。百聞は一見にしかずだ」


◆ 影山湊 視点 ◆

Aランクダンジョン『霧の廃墟』は、視界が悪かった。

常に薄い霧が立ち込めていて、五メートル先が見えない。

「ここ、以前から依頼が溜まってたんだよな」

俺はメモを確認した。

霧の中に溜まった瘴気の除去と、廃墟内の残骸清掃。

新人三人の研修にはちょうどいい難易度だ。

「まず基本から教える」

俺は振り返った。

三人が神妙な顔で俺を見ていた。

「清掃の第一歩は、汚れを見つけることだ。でも汚れは目で見るだけじゃ限界がある」

俺は霧の中を見渡した。

「ほら、あそこの物陰」

廃墟の崩れた柱の陰を指さした。

「ホコリが溜まってるのわかるか」

「……え」

蓮が眉をひそめた。

「何も見えません」

「目じゃなくていい。空気の流れを読むんだ」

俺は説明した。

「汚れがある場所は、空気が澱む。流れが変わる。目を閉じても、どこが汚れているか分かるようになる。これが清掃の基本だ」

「空気の、流れ……」

三人が真剣な顔で、目を閉じた。

俺はその間に、柱の陰に近づいた。

ホコリが溜まっているというか、不可視の魔物が隠れているというか、まあどっちも俺には同じようなものだ。

モップで軽く払う。

霧の中に潜んでいた何かが、消えた。

「片付けておきましたよ」

三人が目を開けた。

「今、何かを……」

「ホコリを除去しました。次はフォームの話をするよ」

俺は蓮の方を向いた。

「剣、構えてみて」

蓮が剣を抜いた。

しっかりした構えだ。Aランクらしい、隙のない姿勢。

でも。

「力が入りすぎだ」

俺は蓮の後ろに回った。

「清掃道具は、力で動かすもんじゃない。腰から、体全体で振るんだよ」

俺は蓮の手に、そっと手を添えた。

「こう、脱力して」

「あ、でも、そうすると威力が」

「力を抜いた方が、汚れはよく落ちる。信じて」

蓮が、ゆっくりと肩の力を抜いた。

「じゃあ一回、軽く振ってみて」


◆ 橘蓮 視点 ◆

蓮は、言われた通りに振った。

力を抜いて。

腰から。

体全体を使って。

ただ、それだけのはずだった。

音が、した。

空気が、鳴った。

視界の端で、何かが光った。

気づいたとき、蓮の前方にあった廃墟の壁が、消えていた。

壁だけではなかった。

霧の中に潜んでいた魔物の群れも。

壁の向こうの空間も。

全部まとめて、一閃で、消えていた。

「……え」

蓮の声が掠れた。

「な」

手が震えた。

剣を持っているのに、まるで別の何かを振ったような感覚が残っていた。

「な、何が起きたんですか、今」

「な?」

影山が満足げに笑った。

「力抜いた方が、汚れはよく落ちるだろ」

「……師匠」

「先輩でいいって」

「師匠……!」

蓮の目から、涙が出た。

自分でも気づかなかった。

気づいたときには、すでに頬を伝っていた。

「蓮?」と桐生が声をかけてきた。

「俺……俺は今まで、全然分かってなかった」

声が震えた。

「力で勝とうとして、速さで勝とうとして……そうじゃなかった」

「蓮……」

成瀬の声も、揺れていた。

「脱力……体全体……汚れを読む目……」

桐生がぼそりと呟いた。

「これが、師匠の境地か……」

三人は顔を見合わせた。

言葉は要らなかった。

一生、ついていく。

そう誓い合うのに、一秒もかからなかった。

「あの」

影山の声がした。

「泣いてるとこ悪いんだけど」

三人が振り返った。

影山が、周囲を見渡しながら言った。

「壁が消し飛んじゃったから、瓦礫の片付けが増えたな」

少し困った顔をしていた。

「三人も手伝って。研修だし、ちょうどいいか」

「「「はい師匠……!」」」

三人の声が、霧の中に響いた。

影山が「先輩でいいって」と返した。

それでも三人には、師匠にしか聞こえなかった。

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