第8話 ティボーを洗う
朝、奥の部屋の戸を開けた。
師匠は寝床の上で、天井を見ていた。目が開いたままだった。
口の端に、黒いものが乾いてこびりついていた。
俺はしばらく戸口に立っていた。それから部屋に入って、師匠の瞼を指で下ろした。一度では閉じなかった。二度目で閉じた。
イーダは戸口のところで止まっていた。入ってこなかった。
「……ヴィム」
「洗う」
「今?」
「三日たったら、師匠が鬼になる」
それに、ほかに誰が洗うんだ。この窪地に、屍洗いは俺と師匠しかいない。
◇
洗い台はふさがっていた。聖女さまの遺体が載っている。
俺は床に布を敷いて、そこに師匠を寝かせた。国でいちばん偉い死体が台の上で、俺の師匠が床の上。そういうものだ。
桶に水を汲んだ。布を絞った。
顔を拭く。額。瞼。鼻の横。もじゃもじゃの髭の中。口の端の、乾いた黒いもの。なかなか取れなくて、三回こすった。
「……ティボー。洗います」
師匠の名前を呼んだのは初めてだった。ずっと「師匠」としか呼んだことがない。
服を脱がせた。
あばらが浮いていた。腕は枯れ枝みたいだった。竜を三頭倒した男の体には見えなかった。
肩にも、背中にも、傷ひとつなかった。
騎士は傷だらけだ。昔、酒場で見た元兵士の背中は、刀傷でまだら模様になっていた。師匠の背中はつるつるだった。屍洗いの背中はいつも腰から曲がっているだけだ。
管を首の付け根に刺した。
澱が落ちてきた。
金色だった。
黒でも赤でもない。灯りを溶かしたみたいな、とろりとした金色。杯に落ちると、小屋の中がほんのり明るくなった。
「金ね」
イーダが戸口から小さな声で言った。
「見栄よ」
知っている。金の澱は見栄だ。自分を大きく見せたかった人間が、金色を残す。
指先に一滴取って、舐めた。
甘かった。それから、胸がぎゅっと縮んだ。
流れこんできたのは師匠の気持ちだった。
十二の歳から、ずっと死体を洗ってきた。一度も窪地を出たことがない。剣を握ったことはない。竜なんか見たこともない。
ある冬、小屋の前に、痩せた子どもが転がっていた。背中に、もっと小さい妹をおぶっていた。母親に置いていかれた兄妹だ。拾って、飯を食わせた。
子どもは師匠を見上げて言った。「じいさん、なんでこんな汚い仕事してんの」
師匠は答えた。「昔は騎士だったんだ」
口から出まかせだった。この子にだけは死体洗いのじじいだと思われたくなかった。
それから十年、嘘をつき続けた。竜は一頭から始まって、話すたびに増えていった。子どもがちょっとでも目を輝かせるから。
杯の金色がゆらりと揺れた。
「……二頭だったのに」
声が出た。
「昨日、三頭にしやがった。死ぬ前の日に、一頭増やしやがった」
イーダは何も言わなかった。
俺は泣かなかった。
涙の代わりに、鼻水が出た。止まらなかった。袖で拭いた。汚い音がした。
金色の澱は小瓶に一本ぶんになった。俺はそれにふたをして、自分のポケットに入れた。
◇
昼過ぎ、酒場の親父が来た。
「ティボーのじいさん、死んだんだってな」
帽子を胸に当てて、神妙な顔をしている。
それから懐から、紙を出した。
「で、これなんだが」
ツケの書きつけだった。三年ぶん。銀貨四十二枚。
「……今、それ出すか」
「今出さなきゃ、いつ出すんだよ。死人は払えねえだろ」
死人は金を使わない。俺の考えだ。死人は借金も返さない。それも、そのとおりだ。
俺は床下から、自分の金を掘り出した。二年かけて貯めた、銀貨と銅貨の袋だ。中身を数えて、四十二枚をきっちり親父の手に載せた。
袋はほとんど空になった。
「……いいのか、坊主」
「師匠の酒代だ。師匠の金だろ」
親父は銀貨を握ったまま、しばらく突っ立っていた。それから、一枚だけ俺の手に戻した。
「香典だ」
「ケチくせえ」
「うるせえ」
親父は帰っていった。
それから、師匠の寝床を片づけた。
持ち物は少なかった。着替えが二枚。欠けた湯呑み。空の酒瓶が七本。
寝床の下から、細長い包みが出てきた。布を何重にも巻いてある。
ほどくと、木の棒が出てきた。
剣の形に削ってあった。刃のところに、銀色の塗料が塗ってある。ところどころ剥げて、下の木目が見えていた。柄には、紐が丁寧に巻いてあった。
包みの中に、紙切れが一枚挟まっていた。師匠のへたくそな字だった。
——竜は二頭。姫さまは右手。王都の騎士団は第三隊。まちがえるな。
話がずれないように、書いておいたらしい。
それでも、竜は三頭に増えた。
俺は木の剣を包み直して、墓に持っていくことにした。
影の中で、イーダが何も言わなかった。言わないでいてくれた。
◇
夕方、師匠を墓地に運んだ。
窪地の人間はふつう共同の穴に入る。名前も彫られない。まとめて土をかぶせられて、それで終わりだ。
俺は墓守の爺さんと、半刻かけて値切った。
「一人用の穴と、木の札。名前を彫ってくれ」
「銀貨八枚」
「四枚」
「七枚」
「四枚と、師匠の上着」
「……六枚」
「五枚と、上着と、俺が一年、ここの草むしりをする」
墓守は呆れた顔で俺を見た。
「お前、屍洗いのとこの坊主だろ。死人にそこまでするか」
「死人にしか、しねえよ」
五枚になった。
木の札に、墓守が名前を彫った。
ティボー。
その下に、何か書くかと聞かれた。
俺は少し考えて、言った。
「元騎士、って彫ってくれ」
墓守が眉を上げた。
「ほんとかよ」
「嘘だ」
「嘘を彫るのか」
「本人が、そう言ってた」
墓守は肩をすくめて彫った。
元騎士ティボー。
土をかぶせた。札を立てた。
イーダが俺の横に立っていた。夕日が半分透けた体を通り抜けて、札の上に落ちていた。
「嘘の自慢話を、墓に彫る人、初めて見た」
「悪いか」
「悪くない」
イーダは札を見下ろした。
「私の墓には、何て彫られるのかしら。『微笑みの聖女』?」
「『香水くさいって言えなかった女』」
「……それ、いいわね」
聖女さまはちょっとだけ笑った。
帰り道、ポケットの中の小瓶が温かかった。金色の、師匠の見栄だ。
売れば、銀貨二十枚にはなる。
俺はそれを、一度も売ろうと思わなかった。
第8話 了




