第6話 伯爵夫人の香水瓶
「誰かいるの? 出てきなさい」
伯爵夫人が手燭を突き出した。
赤い霧はほとんど消えていた。俺の右半分がもう見えているはずだ。箱の陰でしゃがんだまま、俺は小瓶のふたを歯で抜いた。
黒い澱を一滴、舌に落とす。
腹が立つ味が喉を焼いて降りていく。毎月握られた手。三日取れない香水のにおい。「いつもありがとうございます」と言い続けた口の筋肉の痛み。
それから、腐った薬の山。
これは俺の怒りだ。聖女さまのじゃない。
「ちょっと、奥様、あそこに人が――」
使用人の男が叫んだ。
俺は箱の上に立ち上がった。
「イドゥ・ネッサ・ゾゾム・ラ・ガルヴァ――」
伯爵夫人の顔が引きつった。俺の格好を見て、窪地の人間だと分かったらしい。
「な、なによ、あんた、汚い――」
「――ドルカ!」
倉庫の屋根が上から裂けた。
黒い雷が落ちてきた。屋根の瓦を砕き、梁を割り、まっすぐ伯爵夫人に落ちた。
夫人の体には当たらなかった。
雷は夫人の腰に下がった金の香水瓶を撃ち抜いた。胸もとの小瓶も。髪に仕込んだ匂い袋も。手首に巻いた香りの紐も。夫人が身につけていた香りという香りに、黒い稲妻が一本ずつ、正確に食いついた。
ばん、ばん、ばん、と瓶が弾けた。
それから風が来た。
雷が落ちた穴から、ものすごい風が吹き上がった。倉庫の中の空気を丸ごと吸い上げて、夜空へ放り出す。
腐った薬のにおいが、屋敷じゅうに降った。
◇
広間から悲鳴が上がった。
楽団の音が途切れる。客たちが鼻と口を押さえて、中庭に転がり出てくる。
「なに、このにおい!」
「腐ってる、何か腐ってるわ!」
「雷よ、今の雷は何!?」
中庭の奥の倉庫は、屋根がなくなっていた。月の光が中に差しこんで、積み上げられた木箱を照らしている。
箱の横の焼き印も、照らしている。
聖女イーダ寄付。西区施療院行き。
客のひとりがその文字を読んだ。
「……聖女さまの、寄付?」
ざわめきが広がった。
伯爵夫人は倉庫の真ん中にへたりこんでいた。自慢の羽根飾りが焦げて、髪が爆発している。香水が全部はがれて、夫人から立ちのぼるにおいは、ただの汗と、倉庫の腐臭だった。
俺は箱の山の上に立っていた。赤い霧はもう完全に消えている。月の光の中で、擦り切れた上着の屍洗いが、丸見えだった。
顔が熱かった。赤い澱の酔いがまだ残っている。見られている。貴族の目が全部こっちを見ている。恥ずかしい。
そして、腹が立つ。
黒い澱の酔いが恥ずかしさの上から火をつけた。
「おい! てめえら!」
腹の底から声が出た。
客たちがびくっと固まった。
「これが何か分かるか! 施療院の薬だ! 聖女さまの名前で集めた寄付で買った薬だ! 貧乏人のガキが咳して死なねえように、あんたらが財布開いて買った薬だよ!」
俺は机の上の帳面をつかんで、振り上げた。
「全部ここに書いてある! 施療院に届けずに溜めこんで、冬が来たらよその国に十倍で売る! 溜めすぎて腐らせた! 腐ったにおいが漏れねえように、毎日香水を浴びてた! それがこの女だ!」
伯爵夫人が震える指で俺をさした。
「う、嘘よ! そんな汚い子どもの言うことを――」
「汚ねえのはどっちだ、香水ババア!」
言ってからしまったと思った。
でも止まらなかった。
「あんたの香水、くせえんだよ! ずっとくせえと思ってたんだよ! 手ぇ握るな、長えんだよ、いつまで握ってんだよ!」
それは俺の怨みじゃない。
背中で、イーダが腹を抱えて笑っていた。笑いすぎて、半分透けた体がもっと透けていた。
「言った! 言ってくれた! あはは、ずっと言いたかったの、それ!」
客たちは誰も笑わなかった。
みんな黙って、伯爵夫人から一歩ずつ離れていった。
◇
屋敷の門のほうが騒がしくなった。
雷を見て、街の衛兵が駆けつけてきたらしい。槍の穂先が月明かりに光る。
「ヴィム、逃げるわよ」
イーダが俺の袖を引こうとして、すり抜けた。
俺は帳面を、いちばん近くにいた立派な髭の紳士に押しつけた。
「これ、衛兵に渡せ。なくしたら、次はあんたの香水を撃つ」
紳士はがくがくうなずいた。
箱の山から飛び下りる。そのとき、へたりこんだ伯爵夫人の横を通った。
夫人の首から、首飾りが一本外れて、床に落ちていた。雷の風で、留め金が飛んだのだろう。
大粒の石がずらりと並んだ首飾りだった。
俺はそれを拾った。
「ちょっと!」
イーダが叫んだ。
「一割だろ」
「一割どころじゃないでしょ、それ!」
「あとで考える」
首飾りをポケットにねじこんで、倉庫の裏の塀をよじ登った。
最後にもうひとつ、手前の小さな箱の中から、封の切られていない瓶を三本つかんだ。腐っていない、新しいやつだ。焼き印は西区施療院。咳止め。
塀の上から振り返った。
伯爵夫人が衛兵に囲まれていた。客たちが遠巻きに見ている。誰も、夫人に手を貸そうとしなかった。
あのにおいの中で、誰も近づきたくないだけかもしれなかった。
◇
窪地まで走って帰った。
小屋に転がりこんで、床にへたりこむ。口の悪さはまだ抜けない。「くそ」とか「ちくしょう」とか、意味もなく口から漏れる。
「ねえ、ヴィム」
イーダが洗い台の縁に座っていた。
「帳面、見て」
俺は懐から、怨み帳を取り出した。
一ページ目を開く。
一、ドルカ伯爵夫人の香水がくさい。
その一行だけ、墨の色が変わっていた。真っ黒だった文字が、薄い灰色になっている。指でこすっても落ちない。ただ、色だけが抜けていた。
「晴れたのね、一件」
イーダが自分の肩を回した。
「ちょっとだけ、軽い」
床下の鍋をのぞいた。気のせいか、澱の量がほんの少し減っていた。
「……九百十一件」
「九百十一件」
「先は長いな」
「長いわよ」
俺はポケットから首飾りを出した。ランプの光を受けて、石がぎらぎら光る。
イーダがそれをじっと見た。
「売ったお金の九割は、施療院ね」
「……」
「契約でしょ。残りは私が決めるって」
「……ちっ」
「舌打ちしない」
俺は首飾りを床下に沈めた。それから、咳止めの瓶を三本、上着の内側にしまった。
夜明けまで、あと少しあった。長屋に帰れば、ネリはまだ寝ている。枕元に置いておけば、起きたときに見つけるだろう。
立ち上がると、イーダが言った。
「ねえ」
「なんだよ」
「さっきの、『くせえんだよ』ってやつ」
「あれは澱のせいだ」
「分かってる。でも」
聖女さまは足をぶらぶらさせた。
「気持ちよかった」
俺は答えずに、小屋の扉を開けた。
東の丘の上で、伯爵家の屋敷の灯りがまだ騒がしく揺れていた。
第6話 了




