第5話 香水の下のにおい
貴族街は灰都の東の丘の上にある。
窪地から見上げると、夜でもそこだけ明るい。家の窓という窓に灯りがついていて、丘全体がぼんやり光っている。俺たちの窪地では、ランプの油一杯で三日もたせるのに。
ドルカ伯爵夫人の屋敷は、その丘のてっぺんにあった。
門の前に、馬車が列を作っている。降りてくる客たちは、みんな黒い服を着ていた。喪服だ。聖女さまの喪に服しています、という格好だ。
そのくせ、屋敷の中からは楽団の音が漏れている。
「ほらね」
イーダが俺の横で言った。
「喪服を着て、踊るのよ。あの人たち」
俺は塀の陰にしゃがんで、ポケットから赤い小瓶を出した。フロリアンさんの澱だ。
「一滴ね。多いと、酔いが長引くから」
「酔いって、この前みたいなのか」
「赤はね、恥ずかしくなるの」
「恥ずかしく?」
「舐めれば分かるわよ」
ふたを開けて、一滴舐めた。
鉄の味がした。それから、顔が燃えた。
熱い。耳まで熱い。なんだこれ。急に、自分の格好が気になり出した。擦り切れた上着。泥のついた靴。三日洗っていない髪。こんな格好で貴族街に来るなんて、俺は何を考えているんだ。
恥ずかしい。死にたい。いや死んだら洗われる側だ。それも恥ずかしい。
「唱えて。ミュ・ミュ・セレン・ハ」
「……ミュ、ミュ・セレン・ハ」
声が小さくなった。恥ずかしくて。
それでも澱は応えた。
足もとから、赤い霧がふわりと湧いた。霧は俺の体にまとわりつき、手の先から順番に、俺の姿を消していった。
自分の手を見た。ない。足もない。塀に映っていた影もない。
「消えてる……」
「声は消えないから、しゃべらないでね」
俺はうなずいた。うなずいても、誰にも見えなかった。
◇
門番の横を、堂々と通り抜けた。
顔が熱い。誰にも見えていないのに、見られている気がする。門番の鼻の穴に目がいって、なぜか俺のほうが恥ずかしくなった。
屋敷の広間は光の洪水だった。
天井から、ろうそくを百本も立てた飾り灯がぶら下がっている。床は鏡みたいに磨かれて、黒い服の客たちがくるくる回っている。卓の上には料理の山。肉。魚。果物。窪地の一年ぶんの食い物が、ひと晩で並んでいた。
客たちの話し声が聞こえる。
「聖女さまが亡くなって、本当に悲しいわ」
「ええ、本当に」
「でも正直、寄付は集めやすくなりましたわね。『聖女さまの遺志を継いで』と言えば、みんな財布を開きますもの」
「まあ、お口が悪い」
笑い声。
イーダの顔を見た。表情が消えていた。
そのとき、においが来た。
甘い。重い。鼻の奥に張りついて取れない。花を百種類まとめて煮つめたような、頭が痛くなるにおい。
「来たわよ」
広間の真ん中に、女が立っていた。
大柄で、丸い。黒い絹の服に、首から胸まで宝石がびっしり。髪は高く盛り上げて、羽根飾りが刺さっている。
ドルカ伯爵夫人だ。
夫人が動くたびに、においの波が押し寄せる。周りの客がほんの少しずつ後ずさっていた。本人は気づいていない。
「……くさい」
思わず、声が出た。
近くの客がきょろきょろした。俺は息を止めた。
「でしょ?」
イーダがちょっとだけ嬉しそうに言った。
「毎月あの人に手を握られてたの。寄付のお礼を言うために。一刻も離してくれないのよ。帰ると、三日は手からあのにおいが取れなかった」
俺は鼻をつまもうとして、やめた。
におう。
香水の、もっと下。甘いにおいの奥に、別のにおいがある。
屍洗いの鼻は、ごまかせない。毎日、腐りかけたものを嗅いでいる。腐ったものを、それより強いにおいで隠そうとするとき、どういうにおいになるか。俺はよく知っている。
これはそれだ。
でも死体のにおいじゃない。もっと青くさい。草が腐ったような。薬草を煎じたかすを、夏に放っておいたような。
「イーダ。あの人、何か隠してる」
「え?」
「香水の下で、何か腐ってる」
◇
においをたどった。
広間を抜け、廊下を抜け、使用人の通路を抜けた。においは屋敷の裏の中庭のほうから流れてきている。
中庭の奥に、石造りの倉庫があった。
扉に鍵がかかっている。俺は窪地育ちだ。この程度の鍵なら、針金一本で開く。
扉を細く開けた。
においが顔を殴ってきた。
息が止まった。目にしみる。赤い霧の中で、涙がにじんだ。
倉庫の中には、木箱が天井まで積まれていた。何十、何百とある。
箱の横に、焼き印が押してあった。
聖女イーダ寄付。西区施療院行き。
俺はひとつの箱のふたをこじ開けた。
中身は薬だった。干した薬草の束。丸薬の瓶。練り薬の壺。どれも、黒く変色していた。黴が生えて、ぐずぐずに崩れている。
別の箱を開けた。同じだった。その隣も、その隣も。
「……なに、これ」
イーダの声が震えていた。
「私の名前で集めた寄付よ。施療院に薬を届けるための。毎月、ドルカ夫人が取りまとめて――」
箱の山の奥に、帳面が一冊、机に置きっぱなしになっていた。
開く。
細かい数字。仕入れ値。売り値。東の港。隣の国の名前。冬に流行り病が来たら、十倍で売れる、と書いてあった。
寄付の金で薬を買う。領収書を教会に出す。薬は施療院に届けずに、倉庫に溜める。冬が来たら、よその国に高く売る。
溜めすぎて、腐らせた。
腐ったにおいが屋敷に漏れないように、夫人は毎日、香水を浴びるほどつけていた。
俺は箱の山の、いちばん手前の小さな箱を見た。
焼き印。西区施療院。咳止め。
ネリの咳止めだ。
ひと月、届いていない、西区の分だけ。
手が勝手に、箱のふちを握りしめていた。木がみしりと鳴った。
「……イーダ」
「うん」
「香水がくさい、ってだけの話だと思ってた」
「私も、そう思ってた」
イーダは腐った薬の山を見上げていた。
「あの人に手を握られながら、毎月お礼を言ってたの。『いつも施療院にありがとうございます』って。笑顔で」
聖女さまの半分透けた手が、小さく握られた。
そのとき、倉庫の外で足音がした。
ふたり分。重い足音と、せかせかした軽い足音。そして、あの甘いにおいが近づいてくる。
「明日の朝には全部、東の港へ運ばせなさい。聖女の葬儀で都が騒がしいうちに」
「腐ったものも、ですか」
「上の箱だけ新しいのに入れ替えれば、分かりゃしないわよ」
扉が開いた。
手燭を持った伯爵夫人が、倉庫の入り口に立っていた。
俺はとっさに、箱の陰に身を寄せた。
大丈夫だ。俺は見えない。赤い霧が――
自分の手を見た。
指先が見えていた。
霧が薄くなっている。フロリアンさんの澱が、もう切れかけていた。
伯爵夫人が鼻をひくつかせた。
「……誰?」
手燭の火がこちらを向いた。
俺のポケットの中で、もうひとつの小瓶が熱くなっていた。真っ黒な、聖女さまの澱だ。
イーダが俺の耳もとでささやいた。
「撃つ?」
俺は小瓶のふたに、親指をかけた。
「……撃つ」
第5話 了
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