第4話 で、いくら?
口の悪さが抜けるまで、半日かかった。
そのあいだに、俺はペールじいさんを小屋に運んで洗い、近所のおかみさんに「うるせえババア」と言い、屋根に止まった鳩に本気で石を投げた。
昼過ぎに、ようやく胸の中の火が消えた。
俺は洗い台の脇に座りこんで、頭を抱えていた。
「おかみさんに謝りに行かなきゃ」
「行けば?」
「あの人、怒るとしつこいんだよ」
イーダは洗い台の縁で、自分の遺体の髪を指でつついていた。触れないのに、つついていた。
「で、決めた?」
「何を」
「私と組むかどうか」
昨日から、ずっとその話だ。
イーダの言い分はこうだった。自分は怨みが重すぎて天に昇れない。怨み帳の九百十二件を晴らせば、少しずつ軽くなる。全部晴らせば、たぶん昇れる。
でも霊の身では何もできない。物に触れない。誰にも見えない。見えるのはなぜか俺だけだ。
「だから、あんたが晴らして。私の澱、好きに使っていいから」
「好きに使うって、あれを撃つのか。毎回」
「すごかったでしょ?」
すごかった。路地がひとつ消えた。
おかげで窪地じゅうの噂になっている。「屍洗いのヴィムが、黒い雷を撃った」。夕方には坂の上まで届くだろう。
「……ひとつ聞くけど」
「なに」
「で、いくら?」
イーダがぽかんと口を開けた。
「は?」
「澱を飲むのは体に悪い。たぶん。あんなもん何度も撃ってたら、どこか壊れる。命を張るなら、金だ」
「聖女さまのお願いに、お金取る気?」
「死んだ聖女さまは給金を払えない」
「……ほんとに、ほんとに最低ね」
イーダは頬をふくらませた。しばらく天井をにらんで、それから、ぱっと顔を戻した。
「一件目、伯爵夫人。あの人、夜会のたびに違う首飾りをしてくるの。一本で家が三軒建つやつ」
「それで?」
「晴らした相手から出てきたお金は、あんたの取り分にしていいわよ」
「全部?」
「全部はだめ。私が決める」
「一割は俺」
「残りは?」
「……考える」
「なにそれ」
イーダはふっと笑った。意地の悪い笑いじゃなかった。
「いいわ。一割あげる。契約成立ね」
聖女さまが半分透けた手を差し出してきた。
俺はその手を握ろうとした。指がすり抜けた。冷たくも温かくもない。何もない。
「握手もできないのね、私たち」
「別にいい。俺、握手って嫌いだ」
「なんで」
「握ってる間に、財布を抜かれる」
「あんたが抜くほうでしょ」
◇
夕方、奥の部屋から師匠が起きてきた。
ティボー師匠。六十いくつ。白い髭がもじゃもじゃで、目が赤くて、酒の匂いがする。
「おお、ヴィム。よく寝た。……む?」
師匠は洗い台の上の布を見て、動きを止めた。金の刺繍を見て、それから俺を見た。
「……聖女さまか」
「昨日の夜、運ばれてきた」
師匠はしばらく黙っていた。
それから、ぴしっと背筋を伸ばした。酒でふらついているくせに、かかとをそろえて、胸に手を当てた。
「聖女さまを八日もお預かりするとは。わしが騎士だったころ以来の大役だ」
また始まった。
師匠は元騎士だ。本人がそう言っている。若いころは王都の騎士団にいて、竜を二頭倒して、姫さまに手を握られたことがあるらしい。竜の数は話すたびに一頭ずつ増える。
「あのとき姫さまはな、わしの手を取って、こうおっしゃった――」
「その話、四百回聞いた」
「四百一回目だ。よく聞け」
イーダが洗い台の縁で笑いをこらえていた。
「いいおじいちゃんね」
「嘘つきのじじいだよ」
小声で返すと、師匠がこっちを向いた。
「誰と話しとる」
「独り言」
師匠は首をかしげて、それから咳をした。
長い咳だった。背中を丸めて、何度も何度も。最近、こういう咳が増えた。
「……師匠、施療院に」
「行かん。あそこは薬がない」
師匠は手を振って、また奥の部屋に引っこんでいった。
◇
夜、家に帰った。
窪地の坂の途中、崩れかけた長屋の二階。俺と妹の部屋だ。
扉を開けると、咳が聞こえた。
「おかえり、お兄ちゃん」
ネリが寝床から体を起こした。十四歳。細い腕。顔色が白い。
妹は生まれたときから胸が弱い。冬になると咳が止まらなくなる。
「咳止めは」
「まだ届かないって。施療院の人が言ってた。ひと月、ずっと届いてないの。西区の分だけ」
「ひと月?」
「寄付はたくさん集まってるはずなのにね。聖女さまのお名前で」
ネリは困ったように笑った。
「大丈夫だよ。春になれば治まるから」
俺は黙って、ポケットの金貨を妹の枕元に置いた。昨日、下男にもらった一枚だ。
「えっ、なにこれ」
「仕事の金」
「こんなにもらえる仕事、あるの?」
「聖女さまを洗った」
ネリは目を丸くして、それから両手で金貨を包んだ。
「……すごいね、お兄ちゃん」
後ろでイーダがじっとネリを見ていた。何も言わなかった。
◇
翌朝、小屋に客が来た。
織物屋の隠居、フロリアンさんの遺体だった。家族が荷車で運んできて、頭を下げて帰っていった。
顔を拭いて、名前を呼ぶ。
「フロリアンさん。洗います」
管を刺した。
出てきた澱は赤かった。黒じゃない。錆びた鉄みたいな、濃い赤だ。
「あら、赤」
イーダがのぞきこむ。
「恥ね。この人、何か恥ずかしいことを抱えたまま死んだのよ」
家族が言っていた。じいさんは先月、孫の結婚式で乾杯の挨拶をした。そのとき入れ歯が飛んで、花嫁のスープに落ちた。それから一歩も家を出なくなったらしい。
「……入れ歯で、これだけ出るのか」
「出るわよ。しょうもないほど重いって言ったでしょ」
赤い澱は小瓶に一本ぶんになった。
俺はそれを、いつものように教会用の瓶には入れなかった。自分のポケットに入れた。
「それ、使えるわよ」
「知ってる。婆さんに売れば銀貨二枚」
「売らないで。赤は姿が消えるの」
俺は手を止めた。
「姿が?」
「恥ずかしいと、隠れたくなるでしょ。赤い澱を撃つと霧が出て、誰にも見えなくなるの。夜会に潜りこむには、ちょうどいいわ」
「夜会?」
「ドルカ伯爵夫人。明日の夜、屋敷で夜会を開くのよ」
「聖女さまの喪中だろ。国じゅう泣いてるのに」
「そういう女なの」
イーダは帳面の一行目を、俺の手もとに透ける指で示した。
一、ドルカ伯爵夫人の香水がくさい。
「明日の夜。一件目、晴らしに行くわよ」
ポケットの中で、赤い小瓶がことんと鳴った。
第4話 了




