第3話 イドゥ・ネッサ・ゾゾム・ラ・ガルヴァ
「何の匂いだよ、婆さん。死体の匂いならいつもだろ」
「とぼけるんじゃないよ」
バルボ婆は俺の脇から小屋の中をのぞきこんだ。鼻の穴がひくひく広がる。
床はもう片づけてある。瓶は全部床下だ。洗い台の上には、布をかけた遺体がひとつあるだけ。
婆さんの目が布の端からのぞく金の刺繍で止まった。
止まって、何も言わずに離れた。
「七十年この鼻で食ってきたんだ。こんな濃い澱の匂いは初めてさ。指ぬき一杯で金貨一枚。どうだい」
金貨一枚。
銀貨じゃない。金貨だ。指ぬき一杯で。
床下の鍋に、指ぬき何杯ぶん入っているか考えた。頭の中で、家が一軒建った。二軒建った。灰都の外に出る馬車の札が、束で買えた。
「売ったら祟るわよ」
耳のすぐ後ろで声がした。
振り向くと、イーダが俺の肩に顎を乗せる勢いで立っていた。婆さんには見えていないらしい。
「毎晩あんたの枕元に立って、伯爵夫人の香水の話をするわよ。朝まで」
「……何の話だか分からねえな、婆さん」
俺が言うと、バルボ婆は、ひっひっと笑った。
「そうかい。値はつけとくよ。気が変わったらおいで」
婆さんは曲がった腰を揺すって、坂を上っていった。
扉を閉めると、イーダが腕を組んでいた。
「今、ちょっと売る気だったでしょ」
「ちょっとな」
「正直ね」
「嘘つくと顔に出る」
「出てないわよ。あんた、嘘つくときも同じ顔してる」
それは褒めているのか。
聞き返そうとしたとき、外で子どもの悲鳴がした。
◇
小屋を飛び出した。
窪地の路地は朝でも薄暗い。家と家のあいだが狭くて、光が底まで落ちてこない。
悲鳴は三軒先の路地の奥からだった。
子どもがふたり、壁ぎわに張りついていた。姉と弟。弟は姉の背中にしがみついて泣いている。
その前に、じいさんが立っていた。
荷担ぎのペールじいさんだ。背中の曲がった、口の悪いじいさん。子どものころ、俺はこのじいさんの林檎を盗んで、頭をこぶだらけにされたことがある。
じいさんは三日前に死んだ。
俺が見つけた。小屋の寝床で冷たくなっていた。すぐに死体車を頼んだ。屍洗いの小屋に運ぶには、教会の許しがいる。この辺りを受け持っているのは坂の上の助祭だ。
死体車は来なかった。三日間、一度も。
じいさんの首がありえない角度に曲がっていた。目は白く濁り、口の端から黒い液がたれている。指が一本ずつ、ばらばらに動いていた。
澱鬼だ。
「ヴィム兄ちゃん!」
姉のほうが俺に気づいた。
じいさんがぐるりと首を回した。首だけが先に回って、体があとからついてくる。
俺には武器がない。
澱鬼が出たら聖騎士を呼ぶ。それが決まりだ。でも聖騎士はこの窪地には来ない。一度も来たことがない。来たとしても、日が暮れてからだ。
「逃げろ!」
叫んで、石を拾って投げた。じいさんの額に当たった。
じいさんはゆっくりこっちを向いた。
狙いが俺に変わった。それでいい。子どもたちが壁伝いに逃げていく。
じいさんが走ってきた。
速い。生きていたころ、あんなに腰の曲がったじいさんだったのに。
俺は横に跳んだ。じいさんの腕がさっきまで俺の頭があったところを通って、後ろの壁を砕いた。石の粉が降る。
「ねえ」
イーダが壁の上に腰かけていた。
「ポケットの中の小瓶。持ってるでしょ」
「……なんで知ってる」
「夜中に一本、こっそり抜いてたじゃない。売るつもりで」
ばれていた。
俺はポケットから小瓶を出した。親指くらいの大きさ。中身は真っ黒だ。
「舐めなさい。一滴でいいから」
「澱を?」
「澱術って知らない? 澱を飲んで、詠唱して、撃つの。お金持ちが瓶で買ってやってるやつ」
知っている。貴族街の澱術師たちが、きらきらした魔法を撃っているのは見たことがある。でも屍洗いが澱を飲むなんて、聞いたことがない。
じいさんがまた来た。
今度はよけきれなかった。肩をつかまれた。指が肉に食いこむ。死人の指は冷たくて、固い。
俺は小瓶のふたを歯で開けた。
一滴、舌に落とした。
熱い。
いや、熱いんじゃない。苦い。違う。これは腹が立つ味だ。
舌から喉へ、喉から胸へ、何かが流れこんでくる。毎日同じ角度で笑う顎の痛み。長すぎる朝の祈り。手の甲を打たれる音。くさい香水。食べられたプリン。
全部、腹が立つ。
「唱えて。イドゥ・ネッサ・ゾゾム・ラ・ガルヴァ。最後に、撃つ相手の名前」
名前。
俺は目の前の白く濁った目を見た。
林檎を盗んだとき、このじいさんは俺を追いかけて、坂の下まで走ってきた。追いついて、頭を三発殴った。それから林檎を一個、俺の手に押しつけて帰っていった。
何も言わずに。
「イドゥ・ネッサ・ゾゾム・ラ・ガルヴァ――」
口が勝手に動いた。
「――ペール!」
空が鳴った。
晴れていたはずの空から、黒い雷が落ちてきた。
真っ黒な稲妻だった。光っているのに黒い。路地の両側の壁を削りながら、まっすぐじいさんの頭に落ちた。
どん、と腹の底に響く音がした。
じいさんの体から、黒い澱が噴き出した。空に吸いこまれるように、上へ上へと抜けていく。
風が吹き荒れた。屋根の瓦が飛ぶ。洗濯物が飛ぶ。路地の両側の壁が、外側に向かって倒れていく。
音が消えた。
気がつくと、路地がなかった。
両側の家の壁がきれいに吹き飛んでいた。狭くて暗かった路地が、広場みたいに開けている。朝日が窪地の底まで差しこんでいた。
その真ん中に、じいさんが倒れていた。
ただの死体に戻っていた。
俺は膝をついた。手が震えている。肩の傷から血が出ている。
壁の陰から、さっきの姉弟が顔を出した。弟のほうが泣きながら駆け寄ってくる。
「兄ちゃん、ありがと――」
「泣いてんじゃねえ、クソガキ!」
怒鳴っていた。
「鼻水拭け! 汚ねえんだよ! だいたい朝っぱらから路地で遊んでんじゃねえ、親は何してんだ、親は!」
弟が固まった。姉も固まった。
俺も固まった。
何を言ってるんだ、俺は。
「あ、それ私の澱のせい」
イーダが壁の残骸の上でひらひら手を振った。
「撃ったあと、しばらく口が悪くなるの。ちょっとだけね」
「ちょっとじゃねえだろ!」
また怒鳴った。弟が本格的に泣き出した。
倒れた壁の向こうから、人が集まってくる。窪地の住人たちが、口を開けて俺を見ていた。
「今の、黒い雷……」
「ヴィムが撃ったのか?」
「屍洗いが?」
ひそひそ声が広がっていく。
俺はそれを無視して、じいさんのそばに這っていった。
袖で顔を拭いた。額。瞼。鼻の横。口の端。
「……ペールじいさん。洗うの、遅くなった」
じいさんの口の端から、最後の黒い雫がひとつ落ちた。
イーダが俺の後ろに立っていた。
「三日も放っておかれたのね、この人」
「死体車が来なかった」
「この辺りの受け持ちは?」
「坂の上の助祭」
「ふうん」
イーダは帳面の中身を思い出すように、宙を見た。
「モーリスね。二件目の」
プリンの助祭だ。
聖女さまの声はさっきまでより一段低かった。
第3話 了




