第2話 九百十二件
瓶が足りなくなった。
棚の瓶を使い切り、台所の鍋を使い切り、師匠の酒瓶の中身を窓から捨てて、それも使った。それでも澱は止まらなかった。
夜明け前、ようやく管から落ちる雫が細くなった。
小屋の床は黒い瓶と鍋で埋まっている。足の踏み場もない。ランプの光が全部の瓶に吸いこまれて部屋が暗い。
「ふう。すっきりした」
聖女さまの霊は洗い台の縁で大きく伸びをした。
「……普通の人の、百倍はある」
「でしょうね」
「何をしたら、こんなに溜まるんですか」
「何もしなかったから溜まったのよ」
意味が分からない。
俺は床に座りこんだ。腕がだるい。瓶を持ち替えすぎて、指の皮がむけている。
「あと、その敬語やめて。気持ち悪い」
「聖女さまに?」
「聖女さまに。十九年、敬語しか聞いてないの。耳が腐る」
「……じゃあ、イーダ」
「呼び捨て? 図々しいわね。いいわよ」
イーダは足をぶらぶらさせた。
「で、呪うって、誰を」
「全員」
「具体的に」
「具体的に言っていいの? 長いわよ」
イーダは自分の遺体を指さした。
「衣の裏。左の脇腹のあたり。縫い込んであるから、ほどいて」
俺は言われたとおり、衣の裏地を探った。硬いものがある。四角い。糸をナイフで切ると、中から小さな帳面が出てきた。手のひらに収まるくらいの、黒い革の帳面だ。
「ちょっと、もっと丁寧に切ってよ。その衣、一着で家が建つのよ」
「死人は衣を着替えない」
「あんた、ほんとに最低ね」
帳面を開いた。
小さな字がびっしり並んでいる。一行ごとに番号が振ってあった。
一、ドルカ伯爵夫人の香水がくさい。
二、助祭モーリスが、私のプリンを食べた。
三、聖歌隊の指揮者が、一音外すたびに私の手を打った。
めくる。
五十六、東門の門番の鼻毛がいつも出ている。
百八、施療院の前で、毎日同じ話をするおばあさん。三回目から笑うのがつらい。
二百十一、仕立て屋が「痩せろ」と言いながら衣を縫う。
四百四十、朝の祈りが長い。
俺は顔を上げた。
「……しょうもな」
「しょうもないでしょ」
「これ、全部?」
「九百十二件」
最後のページを見た。九百十一で終わっている。その先は紙が一枚破り取られていた。
「九百十一しかない」
「最後の一件は内緒」
「なんで」
「内緒だから内緒なの」
イーダはぷいと横を向いた。
俺は帳面をぱらぱらめくった。香水。プリン。鼻毛。長い祈り。どれもこれも、酒場で愚痴るような話ばかりだ。
「聖女さまの怨みって、もっとこう、あるだろ。国を滅ぼせとか」
「そんな大きい話、燃えないわよ」
「燃えない?」
「あんた屍洗いでしょ。知ってるはずよ」
イーダは床の瓶を一本つま先でつついた。
「澱はね、気持ちが汚いほど濃くなるの。綺麗な気持ちは薄いの。感謝とか、愛とか、正義とか。そういうのはほとんど溜まらない」
言われて、思い当たった。
去年、坂の上の司祭が死んだ。一生祈って暮らした立派な人だった。抜いた澱は指ぬき一杯ぶんもなかった。
同じ週に、桶屋の親父が死んだ。隣の家の猫が毎晩屋根で鳴くのを、三十年恨みながら死んだ。澱はバケツ一杯になった。どす黒くて、重かった。
「……しょうもない気持ちほど、重い」
「それとね。澱になるのは言えなかった気持ちだけなの。言いたいことを言って生きた人は、あんまり溜まらない」
「じゃあ、さっきの。何もしなかったから溜まったって」
「そう。何も言わなかったの、私。十九年」
イーダは足を揺らすのをやめた。
「香水くさいって、言えばよかったのよ。プリン返してって。鼻毛出てますよって。言ってたら、こんなに重くならなかった」
「言えばいいだろ、聖女さまなんだから」
「聖女さまだから、言えないのよ」
俺には、よく分からなかった。
俺は言いたいことを全部言って生きている。たぶん死んでも、澱は指ぬき一杯ぶんだ。
「で、そういう重いのがいちばんよく燃えるの。しょうもない怨みほどね」
イーダはにっと笑った。
「私の澱、たぶん国でいちばん燃えるわよ」
床の瓶がかたかたと鳴った。風もないのに。
◇
空が白み始めた。
俺は床の瓶を見回した。
明け方に、大聖堂の下男が取りに来る。一滴残らず瓶に詰めろと言われた。つまり、この全部を渡せということだ。
全部。
俺は瓶を一本持ち上げて、光にかざした。光は通らない。
闇市のバルボ婆は、いい澱なら指ぬき一杯で銀貨一枚出す。濃い澱なら三枚。これは今まで見た中でいちばん濃い。
計算しかけて、やめた。桁が多すぎた。
「……イーダ」
「なに」
「この澱、教会に渡したらどうなる」
「さあ。聖女さまの澱なんて、ないことになってるから。ないことにするんじゃない? 燃やすとか」
「もったいない」
「でしょ?」
目が合った。
聖女さまは悪い顔で笑っていた。たぶん俺も同じ顔をしていた。
俺は棚の奥から、古い瓶を何本か出してきた。この半月、ほかの死体から抜いてこっそり溜めておいた澱だ。バルボ婆に売るつもりだった。安い、薄い、灰色がかった澱。
それを新しい瓶に移し替えて、ふたをする。三本。
聖女さまの澱は床板を剥がして、その下の穴に鍋ごと沈めた。
「あんた、慣れてるわね」
「床下は俺の金庫だ」
「ほんとに最低」
「褒めてる?」
「褒めてる」
扉が叩かれた。
下男がふたり立っていた。俺が差し出した三本の瓶を受け取って、ランプにかざす。灰色の澱がとろりと揺れた。
「……少ないな」
「聖女さまですから」
下男たちは顔を見合わせて、ほっとしたようにうなずいた。
「そうだな。聖女さまだからな」
それから、ひとりが言った。
「葬儀は八日後だ。それまで遺体はここで清めろ。毎朝、澱が出たら瓶に詰めて渡せ。八日目の朝に、大聖炉へ運ぶ」
「八日も、ここに?」
「大聖堂に死の匂いを入れるわけにはいかん。聖女さまが腐るなんて、あってはならんことだ」
下男たちは帰っていった。
俺は扉を閉めた。
背中で、イーダがくすくす笑っていた。
「八日だって」
「八日だな」
「八日あったら、何件晴らせるかしら」
「俺は手伝うなんて言ってない」
「言ってないわね」
イーダはどうでもよさそうに足を揺らした。
そのとき、また扉が叩かれた。
下男が戻ってきたのかと思った。違った。叩き方が違う。とん、とん、ととん。俺しか知らない合図だ。
扉を開けると、腰の曲がった婆さんが立っていた。鼻をひくひく動かしている。
闇の澱買い、バルボ婆だ。
「おはよう、ヴィム坊」
婆さんはしわだらけの顔でにたりと笑った。
「いい匂いがするねえ。朝っぱらから、よだれが出ちまうような匂いだよ」
足もとで、床板が小さく鳴った。
第2話 了




