第1話 聖女さまが洗い台で舌打ちした
聖女さまの遺体は、思ったより軽かった。
国じゅうが泣いている。大聖堂の鐘は二日前から鳴りっぱなしで、灰都ロムナの空はずっとごんごん揺れている。パン屋は店を閉め、酒場は歌をやめた。すれ違う人の顔が、みんな濡れた雑巾みたいになった。
で、その聖女さまが今、俺の洗い台の上にいる。
運んできたのは大聖堂の下男がふたりだった。夜更けに裏口を叩き、白い布でくるんだ細長いものを台に載せ、金貨を一枚置いた。
「澱を抜け。一滴残らず瓶に詰めろ。明け方に取りに来る」
「……聖女さまに、澱なんかあるんですか」
聖女には澱がない。教会はそう教えている。清らかな魂は何も残さず天に昇る。だから聖女の遺体はしばらく清められ、それから大聖炉で焼かれて灰になる。子どもでも知っている話だ。
下男は答えなかった。
「師匠は」
「寝てます。酒で」
「なら、お前がやれ。誰にも言うな。言ったら、次はお前がこの台に載る」
扉が閉まる。足音が遠ざかる。
俺は金貨を噛んだ。本物だった。
◇
俺はヴィム。十七歳。
灰都のいちばん西の、いちばん低いところ。雨が降ると都じゅうの汚れが流れ込んでくる窪地で、屍洗いをしている。
屍洗いは死体を洗う仕事だ。
ただ洗うんじゃない。人は死ぬと、言えなかった気持ちが体に溜まる。三日たつと、それは黒くてどろっとした液になる。それが澱だ。
澱を抜かずに放っておくと、死体が起き上がる。澱に動かされて、生きている人間を襲う。澱鬼と呼ばれる化け物になる。
だから誰かが抜かなきゃいけない。臭くて、汚くて、誰もやりたがらない。そういう仕事はたいてい俺みたいなのに回ってくる。
聖女さまが死んだのは二日前の夜。今夜で三日目になる。ぎりぎりだ。
ランプの芯を上げて、布をほどいた。
白い衣。袖に金の刺繍。胸の上で組んだ細い手。
顔を見た。
知っている顔だった。灰都に住んでいて、この顔を知らない奴はいない。大聖堂の露台から手を振る顔。広場の像の顔。銅貨の裏の顔。
微笑みの聖女、イーダ。十九歳。
死んでもちゃんと微笑んでいた。口の端がきれいに同じ角度で上がっている。
俺は桶で布を絞り、まず顔を拭いた。
額。瞼。鼻の横。口の端。
これだけは師匠に叩き込まれた。どんな死体も、最初に顔を拭く。それから名前を呼ぶ。
「……イーダさん。洗います」
名前を呼ばれない死人が、鬼になる。師匠はいつもそう言う。本当かどうかは知らない。でも、やらないと手が気持ち悪い。
顔を拭き終えてから左手を見た。
薬指に指輪がある。
金だ。たぶん。細い輪に、小さな青い石がひとつ。
俺は周りを見た。誰もいない。奥の部屋から、師匠のいびきが聞こえる。
死人は金を使わない。これは俺の考えだ。師匠は知らない。知っていて、知らないふりをしているのかもしれない。
俺は指輪に、そっと指をかけた。
「それ、安物よ」
声は上から降ってきた。
俺は布を落とした。
洗い台の縁に、女が座っていた。
白い衣。裸足。足をぶらぶらさせている。ランプの光が体を素通りして、後ろの壁に影ができていない。
顔は台の上の遺体と同じだった。
「アルヴィドがくれたの。聖騎士の給金三日ぶん。ケチよね」
「……は?」
「あ、見えてるんだ。よかった。二日も誰にも気づかれなくて、退屈で死にそうだったの。死んでるけど」
俺は目をこすった。ランプの油が悪いのかもしれない。安い油は目にくる。
目を開けた。まだいた。
俺は落とした布を拾って、女の顔めがけて投げた。
布は女の顔を素通りして、後ろの壁にべちゃりと張りついた。
「ちょっと。濡れ布巾を人の顔に投げないでよ」
「人じゃないだろ」
「元・人よ。しかも聖女。国でいちばん偉い元・人」
女は俺の顔をのぞきこんで、首をかしげた。
「あんた、今、盗ろうとしたわね」
「拭いてただけです」
「指輪を?」
「指輪だって汚れる」
「ふうん」
女はにっと笑った。
広場の像の微笑みとは違う。口の端が片方だけ上がる、意地の悪い笑い方だった。
「別にいいわよ。あげる。どうせ私にはもう入らないし」
女は自分の指をひらひらさせた。指の向こうに、壁の染みが透けて見えた。
「……聖女さまは、天に昇るんじゃないんですか」
「昇れなかったのよ。重くて」
「重い?」
「抜けば分かるわよ。ほら、仕事して。明け方に取りに来るんでしょ」
俺はしばらく動けなかった。
死体が喋ったことは、これまで一度もない。起き上がって噛みついてきたことならある。でも、あれは唸るだけだ。喋らない。まして指輪の値段なんか言わない。
女はつまらなそうに足を揺らしている。
俺は息を吐いた。
怖いかと聞かれたら、怖い。でも、金貨はもうもらってしまった。
それに、ここで逃げても明け方には下男が来る。澱が抜けていなかったら、次は俺が台に載る。あれは冗談を言う顔じゃなかった。
澱抜きの管を出す。細い銀の管だ。先を、遺体の首の付け根に当てる。
「痛くないから遠慮しないで。死んでるし」
「……言われなくても」
管を刺す。
普通なら、ここで黒い雫がぽたりと落ちる。年寄りなら小さな杯に半分。若い奴でも一杯。それで終わりだ。
ぽたり、と落ちた。
ぽたぽた、と続いた。
それから、じょろじょろと音がし始めた。
俺は慌てて瓶を当てた。すぐにいっぱいになる。二本目。三本目。棚の瓶を全部下ろしても、まだ止まらない。
黒い。
こんなに黒い澱は見たことがない。墨よりも黒くて、ランプの光を吸いこんで返さない。
「な、なんだこれ」
「言ったでしょ、重いって」
「聖女さまには、澱はないって」
「ないわけないじゃない。十九年ぶんよ」
女は台から飛び下りた。足音はしなかった。
ずらりと並んだ瓶の前にしゃがみこみ、一本ずつ指でつついていく。
「これが伯爵夫人。これが助祭。こっちはたぶん聖歌隊の指揮者ね。あ、これは門番。あいつ、いつも鼻毛が出てたのよ」
「……何の話ですか」
「私の話」
女は立ち上がった。
そして、振り返った。
笑っていた。国じゅうが知っている、あの微笑みだ。口の両端がきれいに同じ角度で上がる。広場の像とそっくり同じ顔で、女は言った。
「あいつら全員、呪ってやる」
足もとの桶の水が、ごぼりと黒く濁った。
遠くで、聖女の死を悼む鐘がまた鳴った。
第1話 了
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