第34話 パン屋ゴドー
五十九、施療院の前のパン屋ゴドーは、いつも私にだけ焼き立てをくれなかった。
「……これは?」
「そのままよ」
イーダは影の中で頬をふくらませていた。
「施療院の慰問の帰りに、あのパン屋の前を通るの。いい匂いがするの。焼き立ての。ほかの人には、みんな焼き立てを渡してるの。窯から出したばっかりの、湯気が出てるやつ」
「で、あんたには」
「冷めたやつ。毎回。五年間」
イーダはぷいっと横を向いた。
「聖女だから、もったいないと思ってるのよ。どうせ施療院で配っちゃうんだから、冷めたのでいいだろうって」
「……」
「窪地の人には焼き立てを渡して、私には冷めたの。わざとよ。あれ、絶対わざと」
俺は帳面を見た。
五十九件目。
伯爵夫人の香水の下には、腐った薬があった。助祭のプリンの下には、地下の死体があった。徴収人の足の下には、二重取りの帳面が。指揮者の棒の中には、鉄の芯が。仕立て屋の巻き尺の後ろには、一寸ごとの銀貨が。
くだらない怨みの下には、いつも、でかい悪事が埋まっていた。
「今度は、何が出てくるかな」
「きっと、小麦粉にまぜものしてるのよ。おがくずとか。それで浮いたお金で、賭場に通ってるの」
「見てきたように言うな」
「見てないわよ。でも、そういう顔してたもの」
◇
ゴドーのパン屋は、施療院の向かいにあった。
小さな店だった。間口は二間。煉瓦の窯が奥に見える。店先の台に、丸いパンが並んでいた。
朝から、客が並んでいた。窪地の人間。施療院の修道女。荷車引き。
店の主人は六十くらいの大男だった。腕が丸太みたいに太い。頭に、白い布を巻いている。顔じゅうに、小麦粉がついていた。
「はい、焼き立て! 熱いよ!」
大男は窯から出したばかりのパンを、客の籠に放りこんでいた。
「ゴドーさん、今日も銅貨一枚でいいのかい」
「いいよ、いいよ。あんたんとこ、子どもが四人だろ。ほら、もう一個持ってけ」
「悪いねえ」
俺は三日、この店を張った。
朝の開店から、夜の閉店まで。赤い澱はもうないから、向かいの路地の陰に座りこんで。
ゴドーは朝の四時に起きて窯に火を入れた。夜は日が沈むと店を閉めた。閉めたあとは売れ残ったパンを籠に詰めて、施療院の裏口に置いていった。毎晩。
賭場には行かなかった。酒場にも行かなかった。
小麦粉を買う問屋にも行ってみた。ゴドーの店は窪地でいちばん高い粉を買っていた。まぜものなんか、していなかった。
帳簿を、夜中にのぞいてみた。字が汚くて読みにくかったが、借金はなかった。儲けもほとんどなかった。
「……何も出てこねえ」
「隠すのが上手なのよ」
「三日だぞ」
「四日目に出てくるのよ」
四日目も、何も出てこなかった。
◇
五日目の朝、俺は、店の列に並んだ。
自分の番が来た。
「おう、兄ちゃん、見ない顔……じゃねえな」
ゴドーは俺の顔を見て、目を細めた。
「黒雷の屍洗いだろ。窪地の。ここ何日か、向かいの路地に座ってたな」
ばれていた。
「……パン、ひとつ」
「あいよ。焼き立て、熱いぞ」
湯気の出るパンが、手のひらに載った。熱かった。
「銅貨一枚」
払った。
それから、聞いた。
「なあ、おっさん」
「なんだ」
「死んだ聖女さま。ここに、パン買いに来てたか」
ゴドーの手が止まった。
大男の顔がくしゃっと歪んだ。
「……ああ。来てたよ。慰問の帰りにな。五年、毎週」
「焼き立て、渡してたか」
「いいや」
ゴドーは首を振った。
「聖女さまには、冷ましたのをお渡ししてた」
影の中で、イーダが身を乗り出した。
「ほら! ほら、やっぱり!」
「なんで」
「猫舌だったんだよ、あの子」
ゴドーは窯のほうを振り返った。
「最初に来たとき、焼き立てを渡したんだ。そしたら、店先でひと口かじって、舌をやけどしなすってな。涙目になって、それでも『おいしいです』って、笑うんだよ。熱いって言わねえんだ。聖女さまだからな」
影の中で、イーダが固まった。
「だから、次の週から、窯から出したのを一個だけ取っといてな。裏の窓辺で冷ましといた。ちょうどいいくらいになるように。慰問が終わる時間に合わせて」
ゴドーは太い指で鼻をこすった。小麦粉が鼻の頭にくっついた。
「冷ましすぎると固くなるし、熱すぎるとまたやけどさせちまう。毎週、時間を計ってな。五年かかって、やっとちょうどいい冷まし方が分かったと思ったら、死んじまいなすった」
大男は店先の台に目を落とした。
「……ちゃんと、ちょうどよかったのかねえ。一回も、熱いとも冷たいとも言いなさらなかったからな、あの子」
◇
俺はパンを持ったまま、店の前に立っていた。
湯気が手のひらから立ちのぼっていた。
影の中で、イーダが、何も言わなかった。
帳面を開いた。五十九件目。
墨は真っ黒のままだった。
「……撃つか」
小声で聞いた。
イーダはしばらく黙っていた。
「……撃ちなさいよ」
震える声だった。
「怨みに、正しいも間違いもないの。私は五年間、あの人を怨んでたの。焼き立てをくれないって。わざとだって。毎週、冷めたパンをかじりながら」
「……」
「その五年は、本物なのよ」
俺はパンをかじった。
熱かった。舌をやけどした。
「……撃たねえ」
「どうして」
「俺は猫舌じゃねえから、分かんねえけど」
パンを飲みこんだ。
「このパン、うまい」
ゴドーが店の奥から顔を出した。
「おう、兄ちゃん。まだいたのか。熱かったろ」
「熱い」
「冷ましてやろうか?」
「いらねえ。熱いのがいい」
ゴドーはがははと笑った。
俺は店を離れた。
影の中で、イーダが、ずっと黙っていた。
長屋に帰っても、黙っていた。夕飯のときも。ランプを消すときも。
「……おやすみ」
言ってみた。
返事はなかった。
影の中の聖女さまは、俺に背中を向けて、膝を抱えていた。
その背中がほんの少しだけ、震えていた。
第34話 了
残念ながら、ほとんど読まれておりませんので、カクヨムのみの投稿とします。
これまでお読みいただいた方、ありがとうございました。
可能であれば、カクヨムでお読みいただけると大変うれしいです。




