第33話 笑顔の練習
靴屋の赤い澱は、あと二滴ぶん残っていた。
俺はそれを夜まで取っておいた。
「どうするの」
影の中で、イーダが聞いた。
「ネリの顔を見てくる」
「会うの?」
「見るだけだ」
「見るだけで、いいの?」
俺は答えなかった。
夕方、商人街の菓子屋に寄った。坂の途中の、小さな店だ。窓に、黄色いプリンが並んでいた。
「……それ」
イーダが影の中で身を乗り出した。
「私の好きな店」
「知ってる。助祭が落としたやつと、同じ器だった」
銅貨を六枚払って、ひとつ買った。
壁守り料、ひと家族の二か月分だ。
「……誰にあげるの」
「うるせえ」
◇
日が沈んでから、赤い澱を一滴舐めた。
顔が燃えた。恥ずかしい。今夜の恥ずかしさには理由があった。妹の部屋をのぞきに行く兄貴。どう考えても、恥ずかしい。
「ミュ・ミュ・セレン・ハ」
霧の中に、姿が溶けた。
大聖堂の北の棟。聖女候補たちの部屋は三階にあった。廊下の両側に、小さな扉が六つ並んでいる。
どの扉にも、小さな木の札が下がっていた。候補の名前が書いてある。
手前から二つ目の扉の向こうで、誰かが泣いていた。
声を殺した泣き方だった。枕に顔を押しつけて、息だけで泣いている。札には、リゼットと書いてあった。いちばん小さい子の名前だと、あとでネリから聞いた。
廊下の角の椅子で、見張りの修道女が居眠りをしていた。泣き声には気づいていなかった。気づいていて、寝たふりをしているのかもしれなかった。
影の中で、イーダが扉を見つめていた。
「……私も、ああやって泣いてた」
「声、出さねえんだな」
「出したら、次の日のご飯が減るもの」
俺はその扉の前を通り過ぎた。
いちばん奥の扉の隙間から、灯りが漏れていた。
扉の上の小さな窓から、中をのぞいた。
狭い部屋だった。寝台がひとつ。机がひとつ。壁に、大きな鏡が掛かっていた。人の背丈ほどもある鏡だ。この部屋には、似合わないくらい立派な鏡。
ネリがその鏡の前に立っていた。
白い寝間着だった。髪をほどいていた。
ネリは鏡の中の自分に向かって、笑っていた。
笑って、止めた。
鏡に顔を近づけて、口の端を指でなぞった。右。左。右のほうが少し高い。
もう一度、笑った。
止めた。なぞった。
もう一度。
何度も何度も。
左右が同じ角度になるまで。
影の中で、イーダが、息をしていなかった。死人だから、もともとしていないのかもしれない。でもそういう感じがした。
「……私もやってた」
聖女さまがかすれた声で言った。
「毎晩。十三のときから。あの鏡で」
「同じ鏡か」
「同じ鏡よ。候補の部屋に、代々掛かってるの」
ネリは二十回目くらいで、ようやく満足したように鏡から離れた。
机の上に、夕食の盆が残っていた。パンが二枚。一枚は厨房の下働きの娘が言っていた、増えた一枚だろう。
ネリはパンを一枚だけ食べた。
もう一枚を半分にちぎった。半分を食べた。
残りの半分を布にくるんで枕の下に押しこんだ。
「……あ」
声が漏れそうになった。
窪地の癖だ。明日、食べるものがないかもしれないから、今日のうちに少しだけ隠しておく。子どものころ、ネリはいつもそうしていた。師匠の小屋に拾われる前、冬の路地で。
聖女候補になっても、まだ隠していた。
◇
ネリは灯りを吹き消さなかった。
寝台に腰かけて、しばらく鏡を見ていた。鏡の中の、自分を。
それから、小さな声で言った。
「……もうちょっと」
鏡の中の自分に向かって。
「もうちょっとで、全部もらえる」
背中がひやりとした。
全部。何を。
ネリの顔は鏡の中で、微笑んでいなかった。練習していた、あの左右対称の微笑みじゃなかった。
口の片方の端だけが、少し上がっていた。
見たことのない顔だった。
いや。見たことがある。どこかで。
洗い台の縁で、足をぶらぶらさせながら、「それ、安物よ」と言った女の顔に少し似ていた。
「……イーダ」
「……」
「今の、何だ」
「分からない」
聖女さまはそれきり黙った。
影の中で、膝を抱えて、ずっとネリを見ていた。
◇
俺はネリの部屋の窓の外に回った。
三階の窓の、細い窓枠。そこに、懐から出したプリンをそっと置いた。器が落ちないように、窓枠の角に押しつけて。
それから、窓ガラスを指で二回叩いた。
こん、こん。
昔、長屋で、ネリを起こすときの合図だった。
窓の中で、ネリが顔を上げた。
俺は赤い霧の最後の一滴を舐めて、窓の横の壁に張りついた。
窓が開いた。
ネリが顔を出した。きょろきょろと、夜の中庭を見回した。誰もいない。
窓枠のプリンに気づいた。
しばらく、じっと見ていた。
それから、左右を確かめて、器をつかんで、部屋の中に引っこんだ。
窓の隙間から、見えた。
ネリは寝台の上にあぐらをかいて、匙も使わずに、プリンを器から直接すすった。ずずっ、と音を立てて。三口で食べ終わった。
それから、器の内側をべろりと舐めた。
端から端まで。きれいに。
顔を上げた。
笑っていた。
右の端のほうが高い、ゆがんだ笑いだった。練習した微笑みとは似ても似つかない。鼻の頭にカラメルがついていた。
それは俺のよく知っている妹の顔だった。
影の中で、イーダが、小さく笑った。
「……あの子、器舐めた」
「舐めたな」
「聖女候補が、器、舐めた」
「兄貴の妹だからな」
赤い霧が薄くなってきた。俺は壁を伝って、中庭に下りた。
見上げると、ネリの部屋の灯りが消えていた。
窓枠に、空っぽの器が、ちょこんと戻されていた。
底に、小さな紙切れが入っていた。
——ごちそうさま。お兄ちゃん、影が濃いから、どこにいても分かるよ。
帰り道、イーダがぽつりと言った。
「ねえ、ヴィム」
「なんだ」
「さっきの、『もうちょっとで全部もらえる』って」
「……」
「あれ、たぶん、私と同じ顔じゃなかった」
「どういう意味だ」
「私は何ももらおうとしなかったもの」
聖女さまはそれ以上言わなかった。
俺はポケットの中で、ネリの紙切れを握っていた。
第33話 了




